第14話 かくして女は壊れ、生まれ変わった3
ようやく自らの気持ちに気づき、微笑むアフロティーナは今までで一番美しい姿だった。
しかし、気づくのがあまりにも遅すぎた。
「カイラス様が好きなのに……わたくしは他の方と婚約をしなければならないの……?」
口にした瞬間笑みが消え、鏡に這わせた手が震える。胸に締め付けられるような痛みが走った。やっと自分の気持ちに気づけたのに、この想いを伝えられないまま、諦めないといけないなんて。
「……ッ、……いやだと、言えればいいのに」
彼以外と婚約するなんて、考えたくもない。
しかし、アフロティーナは侯爵家という高位の貴族。恋だ愛だという感情だけで、将来を決めることは許されないと分かっている。さらには王家からの申し出となれば、それは絶対。相手にどんな思惑があろうと、侯爵家から覆すことなど許されるはずがない。
だけど──
「お父様、改めてアロン殿下との婚約、受け入れますわ。けれど一つだけ、条件をつけてもよろしいでしょうか」
「なんだ」
悪あがきのつもりだった。
「婚約する以上、王家に相応しい婚約者であるように今まで以上に努力いたします。それでも万が一、この婚約が王家から破棄を申し出された場合」
でも、可能性がゼロでないなら。
「速やかに婚約を破棄し、以降わたくしの婚姻に口を出さないこと」
縋りたいと思ってしまった。
「この条件を、呑んでくださいませ」
「……何をするつもりだ」
「いいえ。言いましたでしょう? 王家に相応しくあるように努めますと。その約束は違えません」
「ならばなぜ、そんな条件を出す?」
「わたくしにも、譲りたくないものがあるからですわ」
そうして父親を何とか頷かせたアフロティーナは、気づいたばかりの恋心に蓋をして、アロンの婚約者となったのだった。
第二王子であるアロンは、実に傲慢で狡猾な男である。王妃と共に第一王子で兄のゼノスを蹴落とすことに執念を燃やしていることは、もはや貴族の間では常識だ。
アフロティーナとの婚約も、その野望を達成するための一つの駒に過ぎない。名門侯爵家という後ろ盾。高い教養。何より、他国にも噂が広がるほどの圧倒的な美しさは、次期王になるため優位に働くと考えたのだろう。
その証拠に、アロンはアフロティーナに愛を囁くことはなかった。自分の隣で美しく微笑む彼女を、自らの権力を誇示する道具のように見せびらかし、満足気にしているだけ。
──それは、かつての『美しくなかった』アフロティーナの姿を彷彿とさせる姿だった。
アロンに対して、情はない。あるのは侯爵家としての義務と、王家への義理だけだ。それでも一度婚約すると決めたからには、完璧な婚約者になるための努力は惜しまない。
一年。
二年。
そして、三年。
アロンの婚約者として過ごす日々は忙しく、目まぐるしいことばかりだった。
王太子妃教育。社交界や他国への同行。王家主催の催し物。さらには学園生活まで。それら全てを完璧にこなしたアフロティーナは、次期王妃候補として高い評判を得ていた。賞賛に対して謙遜をしない高過ぎる自己肯定感だけが、玉に瑕であったが。
そんな日々の中でも、ふとした瞬間に思い出すのは、蓋をした恋心。それは消えるどころか年々燻ぶり続け、ドロリとした何かが溢れ出しそうだった。
そして件のお茶会から五年後。ついにアフロティーナは見つけたのだ。
(──っ! カイラス様……!)
学園主催の舞踏会にアロンのエスコートで入場した時、何気なく会場を見回した視線は壁際に縫い付けられた。
大勢の参加者がひしめく中でも、長年焦がれた赤みがかった黒髪と灰色の瞳を持つ青年を、アフロティーナが見間違うはずがない。
(あぁ……ずっと、ずっとお会いしたかった……!)
五年経ちすっかり青年の姿となったカイラスに、すぐにでも駆け寄りたい衝動が全身を駆け巡る。
しかし、一歩踏み出しそうになった足を理性が止めた。
アフロティーナは現在、他の男の婚約者だ。
婚約者を置いて別の男のもとへ行くなんて美しくない行為、できるはずがない。
(……しっかりなさいアフロティーナ。婚約者が隣にいるのに他の殿方に現を抜かすだなんて、美しくないわ)
後ろ髪を引かれながらもカイラスから視線を逸らし、駆け出そうとする身体を無理やり押さえつけた。
一度深呼吸をし、己の義務を果たすべく、アロンに話しかけた──まさにその時。
「アロン殿下、このあとは──」
「アフロティーナ・ヴェルシェ侯爵令嬢、この時をもって、お前との婚約を破棄する!」
それは脈絡もなく、あまりにも唐突に。
声高らかに宣言したアロンの声が、会場に響き渡った。
「婚約、破棄……」
目を瞬かせ、手に持つ扇子で口を隠したアフロティーナは、アロンの言葉を反復する。その後もアロンは彼女を責め立てる言葉を投げつけてくるが、雑音として右から左へと抜け落ちていった。
恋心の蓋が、音を立ててひび割れる。
婚約破棄。
しかも、王家からの申し出。
すなわち、三年前に父親と交わした条件──『王家から婚約の破棄を申し出された場合、速やかに婚約を破棄すること』、そして『以降自分の婚姻に口を出さないこと』。この二つが、今この瞬間、発動したことを意味する。
つまり、縛る枷はなくなった。
この燻り続けた想いを、カイラスに伝えることが許される。
──扇子で隠していて良かった。
──歓喜に震え、だらしなく緩む口元を見られずに済んだから。
ついに恋心の蓋が粉々に砕け散り、熟成された想いが溢れ出した。
「アロン殿下」
まだ喜びを悟られないように声は抑えて。
「わたくしも、常々思っておりました」
でも、溢れ出した歓喜から口元は弧を描き。
「あらゆる神々が何千年もの間試行錯誤を繰り返しながら創り上げた最高傑作としか思えない絶対的な美しさを持つわたくしに、殿下では相応しくないと」
三年の婚約に修復不可能なほどの終止符を打つべく、隠してきた本音をあえてぶちまけた。もちろん、アロンからの反発など分かりきっていたが、もはやどうでもいいこと。アロンと応酬しながら、アフロティーナは今後のことで頭がいっぱいだった。
(あぁ……カイラス様にようやく、美しくなったわたくしを見ていただけるのですね)
壁際で一人こちらを見ているカイラスの姿に、隠しきれない笑みがこぼれる。
(ふふ……絶対に逃しませんわ)
視線をアロンに戻すと、なぜか絶望したような、歪んだ顔をしていた。少し気になりはしたが、もうアフロティーナには関係のないこと。
「アロン・フォン・ディーテ・アルバトス第二王子殿下」
最後の餞別に、美しく完璧な笑顔を贈る。
「アフロティーナ・ヴェルシェ。この婚約破棄、喜んでお受けいたしますわ」
優雅な淑女の礼を一つ。
これで、全てが終わった。──いや、ここから始まる。
「それでは、ごきげんよう」
背を向けて歩き出したアフロティーナを引き止めようとする声が聞こえた気がしたが、その足は、迷うことなく進んでいく。
人垣が割れ、アフロティーナのために整えられたかのような道を確実に、一歩ずつ。
カツン、というヒールの音が、まるでカウントダウンのように響き渡り、鼓動も大きくなっていく。
そして。
──カツン。
最後の音が鳴った時、アフロティーナはついにずっと会いたくてたまらなかった人──カイラスの目の前に立てた。
カイラスは目を奪われたように、ただただアフロティーナを見つめている。
(あぁ……! やっと、やっとあなたに、美しいわたくしを見てもらえた……!)
その灰色の瞳に自分が映ったという事実だけで、思わず「はぁ……」と熱を孕んだ吐息が漏れた。そして興奮冷めやらぬまま、恍惚と告げる。
「──やっと、見つけましたわ」
「……は?」
我に返ったカイラスの少し間の抜けた声も、困惑したその顔すら、愛おしくて堪らない。
「えーっと、ヴェルシェ嬢。誰かとお間違いを」
「カイラス様」
名前を呼べただけで心の底から湧き上がる喜びを、彼は知る由もないだろう。
──でも、それでいい。
「覚悟なさいませ」
──これから存分に思い知ってもらうのだ。
「必ずあなたに──わたくしを選ばせますわ!」
──そのために、美しくなったのだから。
「…………何で俺なんだよ⁉︎」
その叫びに、確かに唐突過ぎたかもしれないと、少しおかしくなってふふ、と少女のような笑顔がこぼれたのだった。
「──ふふ。今思い返しても、やっぱり少し笑ってしまいますわね」
侍女が淹れてくれたハーブティーを飲みながら、カイラスと再会した時を思い返すアフロティーナは、あの日と同じ笑いがこぼれる。
あれから五年間燻り続けた想いを、願いを、彼に伝え続けた。そのことに後悔はしていない。でも、決して苦しめたいわけではなかった。
部屋に立ち込める、芳醇な葡萄を彷彿とさせる微かに甘い香りが鼻腔をくすぐる。これが、彼のただならぬトラウマに触れてしまったのだろうか。
「……迷惑、だったのね」
心のどこかでは理解していた。こんな一方的に想われ続けるなんて、心も体も疲弊するのも頷ける。
──でも。
「迷惑、なんて言葉だけで諦められるほど、軽い気持ちではありませんの」
今も昔も、アフロティーナを真正面から否定してくれる、ただ一人。「綺麗じゃない」という言葉で壊して、アフロティーナが生まれ変わる──さらに美しくなるきっかけをくれた。諦めるだなんて、できるわけがない。
「申し訳ございません、カイラス様」
目を閉じて、瞼の裏に浮かんだ愛しい姿に謝罪をする。
そしてゆっくり現れたルビーの瞳は、激しい熱を孕みながら爛々と輝いていた。
「あなたにわたくしを選んでいただくまで、ご迷惑をおかけいたしますわ」
妖艶な微笑みを浮かべたその顔は、月夜に照らされて壮絶なまでに美しい。しかしその中には、あの日かけられた呪いを、今度は彼へと呪い返すかのように深く、仄暗い熱を帯びていた。




