第12話 かくして女は壊れ、生まれ変わった1
アフロティーナ視点の話
『今のあなたは、全く綺麗じゃないな』
それはまるで呪いの言葉。
だけど、自分を変えてくれた大切な言葉。
「……」
寝支度を終えたアフロティーナは、自室で一人鏡台の前に座っていた。
鏡の中にはシルクのネグリジェを纏い、じっとこちらを見つめる自分の姿が映る。月光に照らされて淡く光る白い肌。夜の帷の中でも存在を主張する白金色の髪。ルビーの瞳の奥には、いつも通り非の打ち所がない美しい自分が、こちらを見ている。
「──美しい、ですわね」
いつものように呟く。声は完璧だった。
鏡から視線を落とすと、その先には透き通るように白い手がある。
「……迷惑、ですって」
つぅっと手の甲をなぞれば、思い出すのは弾かれた時に感じた微かな痛み。
「……ふふ」
思わず笑いがこぼれる。
「相変わらず、容赦ありませんわね」
いつだってカイラスだけは、アフロティーナのことを否定してくれるのだ。
アフロティーナ・ヴェルシェは、幼い頃からそれはそれは美しい娘だった。
物心つく頃には誰もが彼女を『美しい』と褒め称え、その将来に大いなる期待を寄せた。そして彼女自身も、己が他者よりも遥かに優れた容貌を持つことを早いうちに自覚し、賞賛はもはや当たり前のこととして受け止めていた。
普通の令嬢ならば、そこで胡座をかいて終わるだろう。しかし彼女は違った。代々国の外交を担うヴェルシェ侯爵家の人間として恥じぬよう、教養や作法にも人一倍努力を積み重ねていた。
全ては常に美しく、完璧な令嬢であるために。
そしてアフロティーナは思った。
理想の自分になるためには、努力するのは自分だけではダメだと。周りも自分と同じように完璧であるべきだと、愚かにも押し付けていたのだ。
「あなた、どうしてこのようなこともできないの? 教育を受け直したらいかが?」
「も、申し訳ございません!」
ミスをする侍女を叱責することも。
美しい自分の身の回りの世話をするのなら、しっかりと教育を受け直して完璧な侍女になるべきだから。
「こんな簡単なことすら理解できないなんて。よろしければいい家庭教師をご紹介いたしますわ」
「……っ、えぇ、ありがとうございます」
物を知らない令嬢に発破をかけることも。
美しい自分と交流を続けるのなら、同じくらいの教養を身につけるべきなのだから。
美しく、完璧な自分の行うことは、全て正しいのだと信じて疑わなかった。
下を向いて怯える侍女。
悔し気に涙を浮かべる令嬢。
自分に向けられる負の感情など、目に入らない。
そんな彼女を指摘する者は誰もいなかった──あの日までは。
五年前のゼノスが主催したお茶会。当時ヴェルシェ家は王家の問題に対して中立の立場で、ゼノスとアロンどちらからの誘いにも断ることなく参加していた。
そこでも彼女のスタンスは変わらない。むしろ、王家からの直接の誘いということもあり、普段よりも厳しく自分にも、そして周りにも完璧であることを求めていた。
そして、件の事件が起こる。
ふらふらと注意散漫で歩いている、というだけでもアフロティーナ的にはありえないこと。なのに給仕人にぶつかり、あろうことかグラスの中身を他の参加者にかけてしまうなんて。
(こんなこと、許されるわけがありませんわ…….!)
貴族としての立ち居振る舞いができていない伯爵令嬢のせいで、自分の美しさにまで傷がつくかもしれない。
その考えに至った瞬間、言葉が止まらなくなった。
「──貴女、どういうおつもり?」
問いかけに震えるだけで答えない令嬢に、さらに苛立ちが募る。
「聞こえておりますの? どういうおつもりかと聞いているのですけれど」
「あっ……わ、わたし、」
「ここは非公式の場ですけれど、殿下もおられる神聖な場ですのよ」
「──ッ」
王族がいる場では普段よりもより気を張らないといけないなんて、至極当然のこと。
「もしここが、公式の場だとしたら。このような失態を晒してみなさい、貴女の家の格が落ちますわ」
己の所業一つが家に不利益を与えるかもしれないと、常に考えなくてどうするのか。
「そして先ほど貴女がぶつかった使用人。彼がトレーからグラスをこぼし、誰かにかけてしまったとしたら。クビでは済まないでしょうね」
貴族なのだから、使用人の雇用に対して責任を負わなくてはいけないのに。
「それだけではありませんわ。他国の方々もいれば、国の威信にすら関わるもの。つまり、貴女の行動で美しいわたくしの品位までも損なわれてしまうのよ?」
そして何よりも。
何も考えずに行動をされた結果、美しく完璧な自分が損なわれるなんて。
「恥を知りなさい」
許されるはずがないのだ。
全てを言い終わると、令嬢の瞳から涙がこぼれるのを見た。けれど、アフロティーナの心は動かない。
正しいのは自分なのだ。
美しく完璧になれない相手の方がおかしい。
むしろ、こうしてきちんと指摘してもらえることに、感謝すべきではないか。
そんな自分勝手な考えに酔いしれていると。
「ヴェルシェ嬢」
突然割って入ってきた声に、はっと意識を戻した。
声の主は、今回の件のある意味被害者の子爵令息。親しくはないが、ゼノスが側近にしようとしているとの噂があり、存在は知っていた。それでいて目立つのを嫌がる変わった人だ、という印象を持っていた。
将来の側近候補で当事者のくせに、「気にしなくていい」なんて軽く流そうとしたのを代わりに咎めてあげたというのに。今更何を言うつもりなのかと、怪訝な目を向けた。
「あなたの言うことは正しいです」
「当然ですわ。何も間違ったことなんて言っておりませんもの」
「けど──」
一度言葉を切ると、彼は自分と令嬢の間に庇うように立ち、感情の読みにくい灰色の瞳を向けてくる。
「正しいっていうのは、他人に何を言っても許されるって意味じゃないんですよ」
その言葉の意味を、すぐに理解できなかった。
「……何が言いたいのかしら?」
「分からないでしょうね。自分が正しいと酔いしれて、他人を思いやれないあなたには」
そしてその言葉と共に向けられたのは、憐れみを帯びた眼差しだった。
(……は? このわたくしが、同情をされてますの?)
格下であるはずの子爵令息に。
正しいことしか言っていないのに。
彼がすべきことを代わりにしてあげたのに。
生まれて初めて浴びた憐憫の眼差しに、胸の奥で痛みに似た不快感が広がる。
「……このわたくしを愚弄してますの?」
「いいえ、そのようなことは。事実を言っているだけですから」
明らかに自分を馬鹿にするような物言いに、視界が赤く染まる。
この時、自分がどんな顔をしていたのか。まだ気づかないアフロティーナは、沸き上がる激情をそのまま彼に向ける。
「あなたはいつも、自分を美しいと誇っていますね」
「えぇ、事実ですもの! それがなんだというのですかっ」
「確かに、あなたの容姿は綺麗ですよ。──けど」
そして、あの言葉を突き立てられた。
「今のあなたは、全く綺麗じゃないな」
彼の声が鼓膜を揺らした時、周りから音が消えた。
(綺麗じゃない……? わたくしが? そんなこと、あるはずが)
初めて自分の美しさを否定された。
嘘だ、信じられない、そんなはずはない。
だって、自分は誰よりも美しくて、完璧で、なのに。
ぐるぐると纏まらない言葉が頭を駆け巡り、ただただ呆然と自分を否定した彼を見つめることしかできなかった。
そして彼はというと。呆然とするアフロティーナを置き去りに、泣いてばかりの伯爵令嬢の手を取ると、それ以上何も言わずに去って行く。
振り返ることのないその背から、どうしてか目を離すことができなかった。
その後、お茶会がどうやって収束したのかはあまり覚えていない。放心状態のまま迎えにきた侍女と馬車に乗っても、ずっと頭の中で彼の言葉が繰り返し流れ続けた。
『今のあなたは、全く綺麗じゃないな』
『全く綺麗じゃないな』
『綺麗じゃない』
(──このわたくしが綺麗ではないなんて、美しくないだなんて、ありえませんわ……ッ!)
忘れかけた怒りが再び復活する。
正しいことを言っただけなのに、どうしてこちらが間違っているかのように言うのか。
彼がやるべきことを代わりにしてあげたのに、どうしてこちらを憐れむのか。
誰よりも『美しい』自分に向かって、どうして『綺麗じゃない』だなんて──
『自分は美しい』と何度言い聞かせても、灰色の瞳が『お前は綺麗じゃない』と否定してくる。
「お嬢様、お着替えを──」
「結構ですわ! 下がりなさいっ!」
侯爵邸へ帰り、足早に自室へと戻ったアフロティーナに侍女が着替えの手伝いを申し出るも、吊り上がった目と荒らげた声で拒絶された。いつになく感情的な様子にびくりと身体を跳ねさせると、侍女は慌てて頭を下げて逃げるように部屋から辞していく。
バタン、と音を立てて閉まった扉を見届けないまま、アフロティーナは髪飾りを乱暴に取りベッドの脇へと投げ捨てた。カシャンッと叩きつけられた髪飾りは床に転がり、端についた宝石が外れたのに気がつく。
「──ッ、何なのあの男! わたくしのことを、綺麗じゃないなんてっ!」
その宝石が、何故だか自分自身に思えて。
「このわたくしが美しくないなら、一体誰が美しいというの⁉︎」
見ていたくなくて、ばっと視線を逸らした先。
「わたくしは! この世の誰よりも美しくなくてはいけ、ない……の、に…………」
姿見鏡に映った姿に、言葉を失った。
そこには乱れた髪の毛に、吊り上がった目。息を切らし、怒りから顔を歪ませた女の姿。
──全くもって『美しくない』アフロティーナがいた。




