第10話 侵食と手紙2
──四年前から、ずっと後悔している。
──もしあの日に戻れたらなんて、そんなことばかり考える。
──でも、戻ったとして。果たして自分は正しい選択ができるのだろうか。
「悪夢だ……」
窓から差し込む日の光で目を覚まし、天井を見上げたカイラスから出た最初の言葉はこれだった。
帰国して学園に編入してから、何度同じような朝を迎えただろう。これならいっそ、そのまま留学先に移住してしまえば良かったのではないか。そう思わなくもないが、絶対に許さないだろう王子の姿を思い出し、「あ゛ー……」と呻き声を上げた。
登校時間までは少し時間がある。時計をちらりと確認した後、布団を頭からかぶってごろりと横に丸まった。しかし、目を瞑っても一向に眠気はやってこない。カイラスの意識は、机の上に放置した手紙に向いていた。
昨日届いた実家からの手紙はまだ読んでいない。封を切ろうとすると手が震え、そのまま何もできずに泥のように眠ってしまったのだ。
だから、あんな夢を見たのだろう。
留学前の、自分が最も愚かな選択をした時の記憶を。
「……ほんと、いやになるな」
自分にも、今の状況にも。
アフロティーナとエリシス。二人の女性から想いを寄せられて、贅沢者だと揶揄する者もいるだろう。しかし、カイラスにとっての問題はそこではなかった。
「……なんで、選ばせようとするんだよ」
静かな部屋の中で、自分の心臓の鼓動だけが耳元で大きく鳴り響く。
──選ばないと、いけないのか。
『俺はそういうのいらないけど、兄さんにはあった方がいいだろ?』
かつて自分が選んだ、どこまでも無神経で残酷な選択が。
──俺にまた、選ばせるというのか。
『お前が選んだそれは優しさなんかじゃない、俺への侮辱だッ!』
大切な人を傷つけるだけ傷つけて、終わらせてしまったというのに。
怒りと、軽蔑と、悲しみ。心の底から己を軽蔑する眼差しを、また受けないといけないというのか。
「……選びたくない」
留学を決めたあの日以来、言っていなかった言葉が布団の中に静かに沈んでいく。
「実家から手紙が届いた、と」
「……はい」
「まだ内容は確認していない、と」
「………はい」
「それを僕に読んでほしい、と」
「……………はい」
「甘えるな。自分で読みなさい」
「そこを何とかお願いします殿下っ!」
登校早々カイラスに捕まり空き教室に連れ込まれたゼノスは、土下座する勢いで頭を下げる友人と机に置かれたしわくちゃの手紙を呆れたように見下ろした。
バッサリと切り捨てたにも拘わらず、必死に懇願してくる酷く情けないその姿に、はぁ……と大きな溜め息を吐いたゼノスは、組んだ足の上に頬杖をつく。
「僕はこれから、来月行う夜会の件で教員たちと話をしなければいけないんだが?」
「お忙しいのは重々承知しています!」
「君が怖がる理由も分かるけれど、いつまでも避けてはいられないことも理解しているだろう?」
「分かっています、分かってはいるんです……」
事情を一から十まで知り尽くしている身としては、強制はしたくない気持ちもある。しかし、ゼノスとしても捨ておけない問題でもあった。
ゼノスが諭すように伝えるも、カイラスはくわっと目を見開き明らかに動揺した姿で詰め寄る。
「……でもこれが兄さんからの手紙だったらどうするんですか⁉︎ 内容によっては廃人になりますよ⁉︎ いいんですか、将来の側近候補が廃人になっても!」
「いつもは拒否するくせに、ここぞとばかりに利用してくるじゃないか」
そういうのは嫌いじゃないけれどね、とゼノスは肩をすくめながら仕方ないなと手紙を手に取った。その指は迷いなく手紙の封を切る。そして封筒同様皺の寄った便箋に綴られた文字を、じっくりと目で追っていった。
封が開いた時、一瞬だけ漂ったインクの匂いの奥に潜む、嗅ぎ慣れた葡萄酒の香り。それは否応なく実家の匂いを彷彿とさせ、カイラスの心臓が痛いくらいに脈打った。
無言で待つこと数十秒。それはカイラスには五分にも十分にも感じ、まるで処刑を待つ罪人のような気分だった。痛いくらいの沈黙の後、最後まで読み終えたゼノスは静かにその目をカイラスへと移した。
「ど、どうでしたか……?」
恐る恐る尋ねると、ゼノスは少し目尻を下げて答える。
「いたって普通の、我が子の近況を確認するような、なんて事のない内容だったよ。読み上げようか?」
「それはいいです。……あの、兄さんのことは、」
「書かれていなかった。どうだ、安心したか?」
「……はい。申し訳ありません、お手を煩わせました」
「このくらい構わないよ。この手紙はどうする? 僕が預かっておこうか?」
「…………お願いします」
頭を下げるカイラスに頷き、丁寧に便箋を封筒の中へと戻すと、内ポケットにその手紙を仕舞った。
「どうせ帰国した時に手紙を一通送って以来、何も連絡をしていなかったんだろう? 薄情なものだね」
「ゔ……」
図星を突かれ反論する余地がない。
「そんな薄情な子供であっても、親にとっては子という存在は大切なものなのだろう。だから、子供の近況を知りたくて手紙の一つや二つ送ってくるのは普通のことじゃないかな」
「……」
「まぁ、僕は普通の親がどういうものか知らないけれどね」
自嘲気味に小さく笑うゼノスの言葉に、カイラスは少しバツが悪そうに視線を下げることしかできなかった。この国の頂点に君臨することがほぼ決定している彼は、自分とは比べ物にならないくらい重たいものを背負っている。辛い過去を、そしてこの国の未来そのものを。
本来なら、こんな私情に軽々しく巻き込んでいい立場のお方ではない。カイラスは姿勢を正し、改めて深々と頭を下げた。
「ゼノス殿下。この度は我が家の問題に巻き込んでしまい、申し訳ございませんでした」
「謝る必要はないさ、僕も共犯の一人みたいなものだしね。それじゃあそろそろ僕は行くよ」
真摯な謝罪を軽く流すと、ゼノスはおもむろに立ち上がり扉の前まで迷いなく進む。そして一度振り返ると、ニヤリと口角を上げた。
「あまり長居をして、僕にまで男色の噂が流れてしまったら堪らないからな」
「殿下……っ!」
「君はその腑抜けた顔を戻してから教室に行くように」
最後にそう言い残すと、ゼノスは目を吊り上げたカイラスから逃げるようにひらひらと手を振って空き教室から出ていった。
その背を見送ったカイラスは緊張の糸が切れたのか、昨日と同じようにまた机に突っ伏する。頬に当たる硬く冷たい感触にふと脳裏をよぎったのは、あの柔らかくて温かい指の感触。普段自分からあんなに拒絶の言葉を吐いているくせに、一瞬でも恋しく思ってしまうなんて、と。思わず自嘲する。
「……なにか、書いてあったんだろうな」
そうでなければ、預かっておこうかなんて言わない。しかしそれを知る覚悟はなくて、手紙を再度手に取ることはできなかった。ゼノスには全て見通しなのだ。自分の腑抜けさも、弱さも。
四年前からずっとその優しさに縋ることしかできない自分に、心の底から吐き気がした。
パタン、と閉まった扉を背にゼノスは人気の少ない廊下を進む。頭を下げる生徒たちに爽やかな笑顔で挨拶を返す中、ゼノスの意識は別の物へと向いていた。
胸に仕舞い込んだ、動く度にカサリと音を立てて存在を主張する手紙──
「……さて。どうしたものかな」
ポツリと呟く。
カイラスには伝えなかった、手紙の最後に少し歪に書き綴られた文字。
──サイランが話したいと言っているから、近いうちに帰ってこないか。
その文字を見た時、ゼノスは嘘をつくことを決めた。どうせ嘘には気づかれているだろうが、とてもじゃないが今のカイラスに伝えられない内容だ。
ゼノスにとって優先すべき対象は、順位は、常に決まっている。だけど──
「……早めに覚悟を決めてくれると、いいのだけれど」
時間は有限だ。己が決めたリミットまで、残された時間はそう多くない。だからこそ、選べるようになることを、心から願う。
「僕が手放すことを選んでしまう前に、ね」
その言葉は、誰にも聞かれることはなく冷たい廊下に落ちていった。




