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第八章 ノートに挟まれた、知らない日付


2008年9月7日(日) 午後3時46分 湖畔


九月に入ってから、日曜日の午後が少しだけ好きになった。


夏休みはもう終わっている。学校の宿題に追われることもないし、明日の授業を気にしながら夜更かしする必要もない。それなのに、日曜日の午後には、月曜日が近づいてくるという、なんとも言えない寂しさがあった。


ただ、今年の九月は少し違った。


明日が来るのが、楽しみになっていた。


湖へ行けば、少女に会える。


それだけで、月曜日も悪くないような気がした。


自転車の前かごには、釣り道具を入れたバッグ。ハンドルには、いつものように青いルアーを結んだ小さな袋がぶら下がっている。


袋の口から、青い塗装の一部がのぞいていた。


また、あした。


その文字を見るたびに、僕は少し不思議な気持ちになる。


たった五文字なのに、どうしてこんなに大切なんだろう。


別れ際に交わす、なんでもない挨拶。


学校で友達と別れるときにも、家に帰るときにも、僕たちは何度も口にする。


それなのに、あの少女と交わす「また、あした」には、いつも少しだけ、祈りに似た響きがあった。


明日も会えますように。


今日のことを、忘れませんように。


この時間が、ちゃんと明日へ続いていきますように。


そんなことを考えながら自転車をこいでいる自分に気づいて、僕はひとりで苦笑した。


僕は、ただの高校生だ。


世界の仕組みも、時間の意味も、まだよくわかっていない。


釣りだって、たいして上手じゃない。


そんな僕が、祈りなんて大げさなものを持つ必要はないと思っていた。


けれど。


湖へ向かう道の最後のカーブを曲がったとき、僕は思った。


大げさじゃない祈りだって、あるのかもしれない。


今日も、あの子がいますように。


ただ、それだけの。


*


少女は、いつもの木の下にいた。


膝の上にノートを広げ、鉛筆を持っている。


風が吹くたび、ノートのページがぱらぱらとめくれた。彼女はそれを押さえながら、何かを書いては消し、消してはまた書いていた。


「こんにちは」


僕が声をかけると、彼女は顔を上げた。


「あ。来た」


「来たよ」


「うん。知ってた」


「知ってたって、どういうことだよ」


「自転車の音」


少女は笑った。


「この道、砂利が多いでしょう? 自転車が通ると、最後のところで音が変わるの」


「……そんなの、聞き分けられるのか?」


「健二の自転車は、ちょっとだけブレーキが鳴るから」


僕は反射的にブレーキを握った。


きい、と小さな音がした。


「ほら」


「直したほうがいいかな」


「ううん」


彼女は首を振った。


「その音、好き」


僕は返事に困った。


自転車のブレーキが鳴る音を好きだと言われたのは、人生で初めてだった。


「……変なところが好きなんだな」


「変かな?」


「いや」


僕は自転車を木に立てかけた。


「まあ、嫌いじゃないけど」


少女は満足そうに笑い、ノートへ視線を戻した。


「今日は何を書いてるんだ?」


「文化祭のこと」


「ああ、歌?」


「うん。歌も」


彼女は鉛筆を動かした。


「文化祭まで、あと何日だっけ?」


「学校の予定表だと、二週間くらいじゃないか」


「二週間……」


少女は、その言葉を確かめるように繰り返した。


「長いような、短いような」


「準備はまだまだこれからだよ。音楽室だって、今日も誰か練習してるんじゃないかな」


「そうだね」


「完成したら、聴かせてくれるんだろ?」


僕が尋ねると、少女は鉛筆を止めた。


「うん」


「約束だぞ」


「……うん。約束」


彼女はノートの端に、小さな丸をひとつ描いた。


その丸が何を意味するのか、僕にはわからなかった。


けれど、少女はその丸をしばらく眺めていた。


まるで、そこに何かを閉じ込めるように。


*


釣りを始めて三十分ほど経ったころ、風が強くなった。


湖面に細かな波が立ち、対岸の木々がざわざわと音を立てる。


「今日は釣れないな」


僕は竿を持ち直した。


「いつも釣れてないじゃない」


「おい」


「この前、小さいのが一匹釣れたけど」


「あれは釣れたんじゃなくて、魚がたまたま僕のルアーに興味を持ったんだ」


「それを釣れたって言うんじゃないの?」


「釣りには、いろいろと複雑な事情があるんだよ」


「へえ」


少女は、わざとらしく感心した顔をした。


「釣りって、難しいんだね」


「そう。奥が深いんだ」


「じゃあ、今日も奥が深い日だ」


「……そういうことにしておこう」


二人で笑った。


笑っているとき、時間は普通に流れているように感じた。


風が吹き、波が立ち、遠くで鳥が鳴く。


少女は笑い終えると、ノートを閉じた。


「ちょっと、飲み物を買ってくるね」


「僕も行こうか?」


「ううん。すぐそこだから」


彼女は立ち上がり、湖畔の道を歩いていった。


「ノート、置いていっていいのか?」


僕が尋ねると、少女は振り返った。


「大丈夫。健二は読まないでしょう?」


「……まあ、勝手には読まないよ」


「うん」


彼女は安心したように笑い、再び歩き出した。


そのときだった。


強い風が吹いた。


木の枝が大きく揺れ、僕の足元を乾いた葉が転がっていく。


少女が座っていた場所から、ノートが滑り落ちた。


「あっ」


僕は慌てて竿を地面に置き、ノートを拾おうとした。


表紙が開き、何枚もの紙が風にあおられた。


僕は両手で押さえた。


ページのあいだに挟まっていた一枚の紙が、ひらりと地面へ落ちた。


拾い上げる。


それは、ノートの紙とは違っていた。


少し黄ばんでいて、端が折れている。


何度も開いたり閉じたりしたのだろう。真ん中には、古い折り目が一本、まっすぐに走っていた。


紙の上には、鉛筆で文字が書かれていた。


最初に目に入ったのは、日付だった。


2008年9月21日。


僕は眉をひそめた。


今日の日付は、9月7日だ。


それなのに、二週間も先の日付が書かれている。


未来の予定表か何かだろうか。


そう思いながら、紙を裏返しかけたとき、中央の文章が目に入った。


そこには、こう書かれていた。


『文化祭の歌を、最後まで歌えますように。


健二が、青いルアーをなくしませんように。


明日も、ちゃんと明日でありますように。』


僕は、息を止めた。


健二。


僕の名前だ。


青いルアー。


僕が持っている、あのルアーだ。


そして最後の一文。


明日も、ちゃんと明日でありますように。


それは、誰かが冗談で書いた言葉には思えなかった。


紙の下のほうには、もう一行あった。


けれど、そこは鉛筆の線が薄く、風に飛ばされかけた紙を押さえていた僕の指が、ちょうど文字の一部を隠していた。


指をずらす。


そこには、こう書かれていた。


『もし、9月21日が来なかったら――』


その先は、破れていた。


紙の端が不自然にちぎれていて、続きはどこにも見当たらなかった。


僕は、もう一度、日付を見た。


2008年9月21日。


まだ来ていない日付。


その下に書かれた、僕の名前。


どうして。


どうして、僕の名前があるんだ?


*


「健二?」


声がした。


顔を上げると、少女が立っていた。


片手に二本の飲み物を持っている。


彼女の視線は、僕の手元に落ちた。


ほんの一瞬だった。


笑顔が消えた。


それは、怒った顔でも、驚いた顔でもなかった。


もっと静かで、もっと深いものだった。


ずっと遠くに置いてきたはずの何かを、突然目の前に見つけてしまった人の顔。


「……それ」


少女の声が、小さく震えた。


「それ、どこにあったの?」


「ノートから落ちたんだ。風で」


僕は紙を差し出した。


「ごめん。勝手に読むつもりはなかったんだけど……」


少女は、すぐには受け取らなかった。


紙を見つめていた。


その目が、日付を追う。


それから、文章を追う。


そして最後の、破れた一行で止まった。


「……そっか」


彼女は、ようやく紙を受け取った。


「これ、私の字だ」


「そうなのか?」


「うん」


「でも、日付が……」


僕は言いかけて、口を閉じた。


聞いていいのだろうか。


これは何なのか。


どうして未来の日付なのか。


どうして僕の名前が書かれているのか。


尋ねたいことは、いくつもあった。


それなのに、少女の顔を見ていると、どれも簡単には口にできなかった。


彼女は紙を丁寧に折りたたんだ。


まるで、壊れやすいものを扱うように。


「ねえ、健二」


「……何?」


「この紙、読んだこと、誰にも言わないでくれる?」


「誰にもって……」


「お願い」


少女は、僕を見た。


いつもの、少し悪戯っぽい笑顔ではなかった。


その瞳には、何かを必死に守ろうとしている人の、切実な光があった。


「まだ、うまく説明できないの」


「……うん」


「嘘をつきたいわけじゃないんだよ」


「わかってる」


僕は、そう答えた。


本当は、わかってなんかいなかった。


けれど、彼女が嘘をつきたいわけではないということだけは、なぜか信じられた。


少女は紙をノートの奥へしまった。


そして、何事もなかったかのように、僕の隣へ座った。


「はい。健二の分」


差し出された飲み物は、よく冷えた麦茶だった。


「ありがとう」


「どういたしまして」


僕たちは、しばらく黙って湖を眺めていた。


風が少し弱まった。


波の音が戻ってくる。


世界は、さっきまでと同じように見えた。


けれど、僕にはもう、同じ世界には見えなかった。


まだ来ていない日付。


僕の名前。


青いルアー。


そして、九月二十一日が来なかったら、という言葉。


そのすべてが、胸の奥でひとつの問いになっていた。


――この夏は、本当に、僕が思っているとおりの時間を流れているのだろうか。


*


「ねえ」


しばらくして、少女が言った。


「もし、明日が来なかったら、どうする?」


僕は麦茶を飲みかけて、むせそうになった。


「……どういう意味だよ」


「そのままの意味」


「明日が来なかったらって、明日は来るだろ」


「うん」


少女は、湖を見つめていた。


「普通は、そうだよね」


「普通はって……」


「朝になったら、日付が変わる。学校へ行って、授業を受けて、帰ってくる。夕方になったら、ここへ来る」


彼女は指を折りながら数えた。


「それが、明日」


「そうだよ」


「じゃあ、もし、それができなかったら?」


僕は答えられなかった。


少女は、困ったように笑った。


「ごめんね。変な質問ばっかり」


「……いや」


僕は湖を見た。


「明日が来なかったら、困るよ」


「どうして?」


「だって」


僕は少し考えた。


それから、できるだけ簡単な言葉を探した。


「明日、ここで釣りをする約束があるから」


少女は、目を見開いた。


それから、ゆっくりと笑った。


「……そっか」


「うん」


「約束があるんだね」


「あるよ」


「じゃあ、明日は来なきゃね」


「そういうこと」


僕が言うと、少女は小さくうなずいた。


その表情は、安心したようにも見えたし、悲しそうにも見えた。


僕には、どちらなのかわからなかった。


ただ、少女がノートを胸に抱えていることだけは、はっきりとわかった。


彼女は、まるでそれがなければ、自分がここにいることまで消えてしまうとでもいうように、ノートを抱きしめていた。


*


帰り際、僕は青いルアーを袋から取り出した。


「これ、見てみる?」


少女は少し驚いた顔をした。


「いいの?」


「前にも見せたじゃないか」


「うん。でも、今日はちゃんと見たい」


僕はルアーを手渡した。


夕方の光を受けて、青い塗装がきらりと光った。


少女は指先で、刻まれた文字をなぞった。


また、あした。


その指が、最後の一文字で止まった。


「ねえ、健二」


「何?」


「この言葉、好き?」


「好きだよ」


「どうして?」


「どうしてって……」


僕は考えた。


「また会えるってことだから」


「……うん」


「今日が終わっても、全部終わりじゃない。明日になったら、また会える」


僕は笑った。


「そういう約束だろ?」


少女は、ルアーを僕の手に戻した。


「うん」


その声は、とても小さかった。


「そういう約束だね」


僕はルアーを袋へしまった。


自転車を起こし、ハンドルを握る。


「じゃあ、また明日」


いつものように言った。


少女は、少しだけ遅れて答えた。


「……また、あした」


その声を聞いてから、僕は自転車をこぎ始めた。


坂道を上り、湖が見えなくなるところまで来たとき、なぜか振り返りたくなった。


振り返ると、少女はまだ木の下に立っていた。


ノートを抱えたまま、こちらを見ていた。


僕が手を振ると、彼女も手を振った。


それから、口だけを動かした。


声は届かなかった。


けれど、僕には、何と言ったのかわかった気がした。


――忘れないでね。


*


その夜。


少女は机に向かっていた。


窓の外では、秋の虫が鳴いている。


机の上には、開いたノートと、あの古い紙が置かれていた。


彼女は紙を広げ、破れた端をじっと見つめた。


そこには、本当は続きがあった。


書いたときには、確かにあった。


けれど今は、もうない。


なくしたのか。


破れたのか。


それとも、最初からなかったのか。


彼女自身にも、わからなくなっていた。


少女は新しいページを開いた。


日付を書く。


2008年9月7日。


その下に、今日の出来事を書き始めた。


健二が来た。


風が吹いた。


古い紙を見られた。


明日が来なかったら、という話をした。


ここまでは、間違いなく覚えている。


少女は鉛筆を止めた。


そして、最後に一行だけ書き足した。


『健二は、明日が来ると信じている。』


その文字を、しばらく見つめていた。


涙は出なかった。


ただ、胸の奥が、少しだけ痛かった。


「……いいなあ」


誰にも聞こえない声で、彼女はつぶやいた。


「明日が来るって、信じられるの」


窓の外で、風が吹いた。


机の端に置かれた紙が、かすかに揺れた。


少女はそれを押さえ、ノートの最後のページを開いた。


そこには、まだ完成していない歌の歌詞が書かれていた。


何度も書き直した言葉。


消してしまった言葉。


どうしても書けなかった言葉。


そして、最後に残したい言葉。


少女は鉛筆を持ち直した。


震える手で、一行を書いた。


『もし明日が来なくても、あなたが明日を覚えていてくれますように。』


書き終えると、彼女は長いあいだ、その一行を見つめていた。


やがて、ノートを閉じる。


部屋の時計は、午後九時十三分を指していた。


秒針が、ひとつ進んだ。


少女は顔を上げた。


その瞬間。


机の引き出しの奥から、古い携帯電話が鳴った。


着信音は、聞き覚えのないメロディーだった。


少女は動かなかった。


画面には、見覚えのない日付が表示されていた。


そして、着信相手の名前は――


『健二』


少女は、唇をかみしめた。


「……まだ、早いよ」


誰に言うでもなく、そうつぶやいた。


電話は鳴り続けていた。


少女は、すぐには出なかった。


ただ、閉じたノートの表紙に手を置き、祈るように目を閉じた。


「お願いだから……」


その先の言葉は、声にならなかった。


やがて、電話の音が止まった。


部屋に、静けさが戻った。


少女は、もう一度、ノートを開いた。


最後のページ。


未完成の歌。


そこに書かれた「また、あした」という五文字を、指先でそっとなぞった。


「……明日も、会えますように」


その夜、少女は歌の続きを書かなかった。


ただ、ノートの端に、小さく日付を書いた。


2008年8月32日。


そして、その下に。


誰にも見せるつもりのなかった言葉を、ひとつだけ残した。


『本当は、あの日からずっと、明日を待っている。』


*


翌朝。


僕は、午前九時十三分に目を覚ました。


目覚まし時計は鳴っていなかった。


カーテンの隙間から、秋の朝日が差し込んでいる。


いつもと変わらない朝。


いつもと変わらない部屋。


なのに、枕元に置いていた携帯電話の画面を見た瞬間、僕は動けなくなった。


着信履歴が、一件。


時刻は、午前九時十三分。


相手は、登録されていない番号だった。


僕は、その番号を知らなかった。


それなのに。


画面を見つめているうちに、なぜか、あの少女の声が聞こえた気がした。


――もし、明日が来なかったら、どうする?


僕は携帯電話を握りしめた。


窓の外では、いつもの町が動き始めていた。


自転車のベル。


遠くの車の音。


誰かが家族を呼ぶ声。


世界は、確かに今日を始めていた。


それなのに、僕の胸の奥では、何かが静かにずれ始めていた。


まだ、誰も気づいていない。


この夏の、本当の始まりに。


そして、僕たちが何度も口にすることになる、あの言葉の意味に。


「また、あした」


その言葉が、いつか祈りではなく、約束ではなく。


失われた時間を取り戻すための、たったひとつの手がかりになることを。


このときの僕は、まだ知らなかった。


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