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第九章 午前九時十三分の電話


2008年9月8日(月) 午前9時13分 健二の部屋


携帯電話の画面を、僕はもう一度見た。


着信履歴、一件。


午前九時十三分。


知らない番号。


それだけなら、別に珍しいことではない。


間違い電話かもしれないし、誰かが番号を押し間違えたのかもしれない。僕の携帯電話には、たまにそういうことがあった。知らない番号から着信があって、折り返そうか迷っているうちに、結局そのまま忘れてしまう。


いつもなら、そうしていた。


けれど、今朝だけは違った。


昨夜、少女が何をしていたのか、僕は知らない。


ただ、昨日の湖畔で見た古い紙のことが、頭から離れなかった。


九月二十一日。


まだ来ていない日付。


僕の名前。


そして、破れた文章。


もし、九月二十一日が来なかったら――。


その言葉を思い出すたびに、胸の奥で小さな石が転がるような気がした。


僕は携帯電話を耳に当てた。


もちろん、何も聞こえない。


電話は切れている。


それでも、耳から離すことができなかった。


午前九時十三分。


どうして、その時刻なのだろう。


僕は時計を見た。


壁掛け時計は、九時二十分を少し過ぎていた。


七分。


たった七分しか経っていない。


なのに、ずいぶん長い時間が過ぎたような気がした。


「……なんなんだよ、いったい」


独り言を言って、僕はベッドから起き上がった。


学校へ行かなければならない。


今日は月曜日だ。


いつもどおり、授業があって、休み時間があって、放課後には文化祭の準備がある。


そういう普通の一日になるはずだった。


僕は制服に着替え、鞄を持った。


携帯電話をポケットへ入れる。


部屋を出る直前、もう一度だけ画面を確認した。


着信履歴は、そこにあった。


消えていなかった。


それだけのことに、なぜか少し安心した。


昨日の出来事も、昨夜のことも、僕の思い違いではない。


そう思いたかったのかもしれない。


*


通学路の途中に、小さな公衆電話があった。


昔からそこにある、緑色の電話ボックスだ。


最近は携帯電話を持つ人が増えて、使っている人をほとんど見かけなくなった。ガラスには細かな傷があり、足元には乾いた落ち葉がたまっている。


僕は、なぜか足を止めた。


携帯電話を取り出す。


着信履歴の番号を見つめた。


知らない番号。


けれど、数字の並びに、どこか引っかかるものがあった。


もう一度、最初から確認する。


やっぱり、知らない番号だ。


僕は首を振った。


考えすぎだ。


そう思って歩き出そうとしたとき、公衆電話の中に、何かが置かれているのが見えた。


受話器の横。


電話帳を置くための小さな棚に、白い紙が一枚、挟まっていた。


ただの紙切れだった。


誰かが忘れたメモかもしれない。


それなのに、僕はなぜか、それを見過ごせなかった。


電話ボックスの扉を開けた。


ぎい、と鈍い音がした。


紙を手に取る。


そこには、鉛筆で短い文章が書かれていた。


「電話に出ないで。」


その下に、小さく日付があった。


2008年9月8日。


今日の日付だった。


僕は紙を裏返した。


何も書かれていない。


もう一度、表を見る。


電話に出ないで。


誰に向けた言葉なのか。


どの電話のことなのか。


僕にはわからなかった。


ただ、その文字を見た瞬間、昨日の少女の表情が浮かんだ。


古い紙を見たときの、あの顔。


何かを知っているのに、話せない。


話したいのに、話せない。


そんな顔だった。


「……まさか」


僕は紙をポケットへしまった。


学校へ向かう足が、自然と速くなった。


*


午前10時40分 教室


「おまえ、今日なんか変だぞ」


休み時間、隣の席の友人に言われた。


「そうか?」


「さっきから携帯ばっかり見てるじゃん。彼女でもできた?」


「いないよ」


「じゃあ、好きな子?」


「違うって」


「怪しいなあ」


友人は、机に頬杖をついて笑った。


「文化祭の準備もあるんだから、ぼーっとすんなよ。音楽室、今日も手伝うんだろ?」


「ああ」


「そういえばさ」


彼は思い出したように、教室の前方を指さした。


「音楽室のあの子、今日も来るらしいぞ」


僕は顔を上げた。


「……あの子?」


「ほら、歌詞書いてる子。文化祭で歌うっていう」


「ああ」


僕はできるだけ普通の声で答えた。


「そうなんだ」


「なんだよ、知り合いか?」


「いや、まあ……少し」


友人は僕の顔をじっと見た。


「ふうん」


「なんだよ」


「いや。別に」


彼はにやにやしながら、教科書を開いた。


「青春だねえ」


「うるさい」


僕はノートを開いた。


けれど、授業の内容はほとんど頭に入ってこなかった。


机の中には、朝の公衆電話で見つけた紙が入っている。


電話に出ないで。


その言葉が、頭の中で何度も繰り返された。


そして、午前九時十三分。


知らない番号。


どうして、こんなにも気になるのだろう。


僕は携帯電話を取り出しかけて、やめた。


今、電話をかけ直したら、何かが変わってしまう。


そんな気がした。


もちろん、根拠なんてない。


ただの勘だ。


けれど、人間はときどき、理由を説明できないことのほうを、はっきりと覚えている。


僕はその日、初めてそう思った。


*


午後3時22分 音楽室


放課後の音楽室には、いつもより多くの人が集まっていた。


文化祭の準備が本格的に始まり、廊下には模造紙や段ボールが積まれている。教室のあちこちで、展示物の相談や出し物の打ち合わせが進んでいた。


音楽室では、合唱の練習をしている生徒たちがいた。


ピアノの音。


椅子を動かす音。


誰かが音程を確かめる声。


その中に、聞き覚えのある旋律が混じっていた。


あの歌だった。


少女が書いた歌詞に、音楽室の少年がつけたメロディー。


まだ完成していない。


けれど、以前よりも少しだけ、形が見えてきていた。


僕は扉のところで立ち止まった。


少女は窓際に座り、ノートを開いていた。


鉛筆を握り、歌詞を見つめている。


昨日のことを思い出す。


古い紙。


九月二十一日。


僕の名前。


もし、九月二十一日が来なかったら。


声をかけるべきだろうか。


何も知らないふりをするべきだろうか。


考えているうちに、少女がこちらに気づいた。


「あ」


顔が明るくなった。


「健二」


その声を聞いた瞬間、僕の中にあった不安が、ほんの少しだけほどけた。


「こんにちは」


「もう放課後だよ」


「じゃあ、こんばんは?」


「まだ早いよ」


彼女は笑った。


いつもの笑顔だった。


昨日の、あの表情とは違う。


僕は、少しだけほっとした。


「今日も歌の練習?」


「うん。今日はね、最後のところを考えてるの」


「最後?」


「うん」


少女はノートをこちらへ向けた。


そこには、歌詞が書かれていた。


湖のこと。


夏の夕暮れのこと。


誰かと並んで歩く帰り道のこと。


そして、最後の一行。


また、あした。


その文字を見たとき、僕は胸の奥がきゅっとなるのを感じた。


青いルアーに刻まれた言葉と、同じだった。


「いいと思う」


僕は言った。


「最後にこの言葉が来ると、歌が終わっても、まだ続いていく感じがする」


少女は、目を細めた。


「……健二も、そう思う?」


「うん」


「よかった」


彼女はノートを閉じた。


「私ね、歌が終わるのが嫌だったんだ」


「前にも言ってたな」


「うん。歌が終わったら、その時間まで終わっちゃう気がして」


少女は窓の外を見た。


校庭では、文化祭の看板を運んでいる生徒たちがいた。


「でも、最近、少しだけ思うようになったの」


「何を?」


「終わった歌も、誰かが覚えていてくれたら、終わらないのかもしれないって」


僕は返事をしなかった。


その言葉が、妙に胸に残ったからだ。


少女は僕を見た。


「健二は、覚えていてくれる?」


「何を?」


「この歌」


「もちろん」


「本当に?」


「本当だよ」


僕は笑った。


「だって、完成したら文化祭で歌うんだろ? 聴くって約束したじゃないか」


「……うん」


彼女は、ゆっくりとうなずいた。


「約束したね」


*


練習が始まった。


音楽室の少年がピアノの前に座り、ゆっくりと鍵盤を押した。


最初の音が鳴る。


少女が、小さく歌い始めた。


声は、思っていたよりも柔らかかった。


大きな声ではない。


誰かを圧倒するような歌い方でもない。


ただ、言葉をひとつずつ、確かめるように歌っていた。


湖に落ちる夕日。


水面を渡る風。


帰り道の途中で、何度も振り返ってしまう気持ち。


会えなくなることが怖いのに、別れの言葉を言わなければならない瞬間。


そのすべてが、少女の声の中にあった。


僕は、椅子に座って聴いていた。


歌詞の意味を考えようとしたわけではない。


ただ、聴いていたかった。


歌の途中、少女の声が止まった。


ピアノも止まった。


「ごめん」


少女が言った。


「最後、まだうまく歌えない」


「どこ?」


少年が尋ねた。


「ここ」


少女はノートの最後の行を指した。


「この言葉を歌うと、なんだか……」


彼女は言葉を探した。


「本当に、誰かとお別れしてしまうような気がするの」


音楽室が静かになった。


誰も、すぐには答えなかった。


やがて、少年がピアノの前から振り返った。


「じゃあ、別れの歌じゃなくて、約束の歌にすればいいんじゃない?」


少女が顔を上げた。


「約束?」


「うん。今日が終わっても、また会おうっていう歌」


少年は少し照れくさそうに笑った。


「俺、そういう歌だと思って曲をつけてたんだけど」


少女は、何も言わなかった。


ただ、ノートを見つめていた。


僕は、その横顔を見ていた。


彼女がどんなことを考えているのか、わからなかった。


けれど、少なくとも今は、泣いてはいなかった。


やがて少女は、ノートを閉じた。


「……もう一回、最初から歌ってもいい?」


少年がうなずいた。


「もちろん」


ピアノの音が、再び鳴り始めた。


今度は、少女も止まらなかった。


最後の一行まで、歌った。


声が少し震えていた。


それでも、歌い切った。


最後の音が消えたあと、音楽室にはしばらく誰も声を出さなかった。


窓の外で、風が吹いた。


少女は、ノートを胸に抱いた。


「……歌えた」


彼女は、そうつぶやいた。


その顔には、嬉しさと、少しの戸惑いがあった。


僕は拍手をした。


少年も拍手をした。


やがて、ほかの生徒たちも拍手を始めた。


大きな拍手ではなかった。


けれど、少女はその音を、ひとつずつ受け取るように、目を閉じた。


僕は思った。


この歌を、忘れたくない。


この日のことを、忘れたくない。


少女が初めて、最後まで歌えた日のことを。


そのときの僕には、まだわからなかった。


忘れたくないと思うことと、忘れずにいられることは、同じではないのだということを。


*


午後4時32分 音楽室前の廊下


練習が終わると、少女はノートを鞄にしまった。


「今日は、ありがとう」


「僕、何もしてないよ」


「聴いてくれたでしょう?」


「それくらいなら、いつでも」


少女は笑った。


「じゃあ、また聴いてね」


「うん」


僕たちは廊下へ出た。


夕方の光が窓から差し込み、床に長い四角形を作っていた。


廊下の向こうでは、誰かが段ボールを切っている。


教室からは、笑い声が聞こえる。


文化祭が近づいている。


学校全体が、少しずつ特別な時間に変わっていく。


その中で、僕たちの歌も、少しずつ形になっていた。


「ねえ、健二」


少女が言った。


「昨日のこと、覚えてる?」


僕の足が止まった。


「……昨日?」


「湖で話したこと」


彼女は、僕の顔を見た。


「明日が来なかったら、どうするって」


僕はうなずいた。


「覚えてるよ」


「そっか」


少女は、少しだけ安心したように笑った。


「よかった」


その言葉に、僕は引っかかりを覚えた。


何が、よかったのだろう。


僕が覚えていたことが?


それとも、僕が忘れていなかったことが?


聞こうとしたとき、少女は鞄の紐を握り直した。


「ねえ。もし、私が明日、今日のことを忘れていたら……」


また、その言葉だった。


九月四日にも、彼女は同じことを言いかけた。


もし明日、私が今日のことを忘れていたら。


あのときは、最後まで聞けなかった。


今度こそ、僕は尋ねようと思った。


「どうして、そんなことを――」


その瞬間。


僕のポケットの中で、携帯電話が震えた。


着信だった。


僕は画面を見た。


知らない番号。


朝の着信履歴と同じ番号だった。


時刻は、午後四時三十二分。


僕は息をのんだ。


電話に出ないで。


公衆電話に挟まれていた紙の文字が、頭の中によみがえった。


少女は、僕の携帯電話を見つめていた。


顔から、表情が消えていた。


「……出ないで」


小さな声だった。


けれど、はっきり聞こえた。


「え?」


「お願い。出ないで」


電話は鳴り続けていた。


僕は少女を見た。


「この電話、何なんだよ?」


少女は答えなかった。


「朝も、同じ番号からかかってきたんだ。公衆電話に、こんな紙まであった」


僕はポケットから、紙を取り出した。


電話に出ないで。


少女はそれを見た。


唇が、かすかに震えた。


「……見つけたんだね」


「どういうことだよ」


「健二」


少女は僕の手を見た。


携帯電話は、まだ震えている。


「今は、出ないで」


「でも――」


「お願い」


その声には、昨日までとは違う切実さがあった。


僕は、指を止めた。


電話が鳴る。


鳴り続ける。


廊下の向こうから、誰かが笑う声が聞こえた。


世界は、いつもどおりだった。


僕たちの周りだけが、まるで時間から切り離されたように静かだった。


やがて、着信が止まった。


携帯電話の画面が暗くなる。


少女は、長く息を吐いた。


「……ありがとう」


僕は、彼女を見つめた。


「説明してくれよ」


少女はうつむいた。


「ごめんね」


「謝ってほしいんじゃない」


自分でも驚くほど、強い声が出た。


「僕の名前が書かれた紙があった。まだ来ていない日付もあった。知らない番号から電話がかかってきて、君は出るなって言う」


僕は一度、息を吸った。


「僕、何も知らないんだよ」


少女は顔を上げた。


目が合った。


「……うん」


「君は、何か知ってるんだろ?」


長い沈黙があった。


やがて、少女は小さくうなずいた。


「少しだけ」


「何を?」


「まだ、ちゃんとはわからないの」


彼女は鞄の紐を、ぎゅっと握った。


「でも、ひとつだけ、わかってることがある」


「何?」


少女は、まっすぐ僕を見た。


「この電話に出たら、健二は、私のことを忘れてしまうかもしれない」


僕は、言葉を失った。


廊下の窓から、夕日が差し込んでいた。


オレンジ色の光が、少女の髪を照らしている。


僕は彼女を見つめた。


どうして。


どうして、そんなことが起こるんだ。


電話に出ただけで、誰かを忘れる?


そんな馬鹿な話があるわけがない。


そう思いたかった。


けれど、少女の目は、冗談を言っている人の目ではなかった。


「……それ、本当なのか?」


少女は、すぐには答えなかった。


そして、ゆっくりと首を振った。


「わからない」


彼女は言った。


「でも、怖いの」


その声を聞いた瞬間、僕は初めて気づいた。


彼女は、ずっと怖かったのだ。


歌が完成することも。


明日が来ることも。


明日が来ないことも。


誰かに忘れられることも。


そして、誰かを忘れてしまうことも。


少女は、何かを守ろうとしている。


それが何なのか、僕にはまだわからない。


でも。


ひとつだけ、決めた。


「……わかった」


僕は携帯電話をポケットにしまった。


「今は、出ない」


少女は、目を見開いた。


「本当に?」


「うん」


「どうして?」


僕は少しだけ笑った。


「君が、怖いって言ったから」


それだけだった。


理由なんて、それで十分だった。


少女はしばらく僕を見ていた。


やがて、目を伏せた。


「……ありがとう」


その声は、今にも消えてしまいそうだった。


*


校門を出るころには、夕日が山の向こうへ傾いていた。


僕たちは、並んで歩いていた。


いつもなら、湖まで一緒に行くところだ。


けれど、今日は違った。


少女は、途中の分かれ道で立ち止まった。


「今日は、ここまでにするね」


「湖には行かないの?」


「うん」


彼女は、少し困ったように笑った。


「今日は、ちょっと疲れちゃった」


「そっか」


僕はうなずいた。


「じゃあ、気をつけて帰れよ」


「健二もね」


少女は歩き出しかけて、振り返った。


「ねえ」


「何?」


「明日も、来てくれる?」


僕は、少しだけ驚いた。


そんなこと、聞かれるまでもなかった。


「もちろん」


「……約束?」


「約束」


少女は、ゆっくりとうなずいた。


「じゃあ、また明日」


「また明日」


彼女は歩いていった。


僕は、その後ろ姿を見送った。


いつもと同じ別れ方だった。


いつもと同じ言葉だった。


それなのに、その日だけは、彼女の背中がひどく遠く見えた。


*


家に帰ってから、僕は携帯電話の着信履歴を確認した。


午前九時十三分。


午後四時三十二分。


同じ番号。


二回とも、出ていない。


僕は、電話帳を開いた。


知らない番号を登録するかどうか、少し迷った。


結局、名前の欄に、こう入力した。


「9:13」


それだけだった。


登録ボタンを押す。


画面には、新しい連絡先が表示された。


僕は携帯電話を机に置いた。


それから、鞄の中に入れていた紙を取り出した。


電話に出ないで。


今日の日付。


その文字を、もう一度見つめる。


紙の端には、小さな汚れがあった。


まるで、雨に濡れた跡のようだった。


僕は紙を裏返した。


すると、今まで気づかなかった薄い文字が、裏面の隅に見つかった。


鉛筆で、何度も書き直したような文字。


光にかざして、ようやく読める程度の薄さだった。


そこには、こう書かれていた。


『忘れても、もう一度、好きになって。』


僕は、紙を持つ手に力を入れた。


誰が書いたのだろう。


誰に向けた言葉なのだろう。


そして、どうして。


その言葉を見た瞬間、胸の奥に、理由のわからない懐かしさが広がった。


まるで、ずっと前に、誰かから同じ言葉を聞いたことがあるような。


でも、思い出せない。


どうしても、思い出せない。


僕は目を閉じた。


すると、一瞬だけ、夢のような光景が浮かんだ。


夕暮れの湖。


水面に落ちる青い光。


遠くで、誰かが歌っている。


そして、僕の手を握る、小さな手。


――忘れないで。


声が聞こえた。


僕は、目を開けた。


部屋には誰もいなかった。


窓の外では、秋の虫が鳴いていた。


僕は紙を折りたたみ、机の引き出しにしまった。


それから、ノートを開いた。


今日のことを書いておこうと思った。


午前九時十三分の電話。


公衆電話の紙。


音楽室で歌った少女。


午後四時三十二分の着信。


そして、最後に。


僕は、ゆっくりと書いた。


『今日、僕は初めて、明日が来ることを少しだけ怖いと思った。』


鉛筆を置く。


時計を見る。


午後八時四十六分。


あと少しで、今日が終わる。


明日になれば、また学校へ行く。


また、あの少女に会う。


そう信じていた。


その夜、僕は夢を見た。


夢の中で、誰かが泣いていた。


顔は見えなかった。


声も聞こえなかった。


ただ、その人は、僕の手を握りしめていた。


そして、何度も、何度も、同じ言葉を繰り返していた。


――また、あした。


――また、あした。


――また、あした。


目が覚めたとき、僕の頬は濡れていた。


なぜ泣いていたのか、わからなかった。


夢の内容も、ほとんど覚えていなかった。


ただ、ひとつだけ。


夢の最後に見えた日付が、頭から離れなかった。


2008年8月32日。


ありえない日付。


存在しないはずの日。


けれど、その日付を見たとき、僕は確かに思った。


――僕は、この日を知っている。


どこかで。


ずっと前に。


そして、その日には。


きっと、何か大切なことがあったのだ。


僕が忘れてしまった、何かが。


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