第十章 昨日の僕が、知らない僕に残したもの
2008年9月9日(火) 午前6時18分 健二の部屋
目が覚めたとき、僕は自分がどこにいるのかわからなかった。
見慣れた天井。
カーテンの隙間から差し込む朝の光。
机の上に置いた、使いかけのシャープペンシル。
壁に貼った、ずいぶん前のゲーム雑誌の付録。
全部、いつもの僕の部屋だった。
なのに、何かが違う。
そう思った瞬間、夢の中で聞いた声がよみがえった。
――また、あした。
誰かが泣いていた。
僕の手を握っていた。
顔は見えなかった。
それなのに、目が覚めたあとも、その人の手の温度だけが残っていた。
僕は布団の中で、自分の手を見た。
右手を開く。
閉じる。
何もない。
当たり前だ。
夢なのだから。
そう思って起き上がろうとしたとき、枕の下に何かがあることに気づいた。
紙だった。
折りたたまれた、小さな紙。
僕は眉をひそめた。
昨日、こんなところに紙を置いただろうか。
開いてみる。
見覚えのある文字が並んでいた。
僕の字だった。
少し右上がりで、「あ」の最後がいつも長く伸びる。自分で書いた文字なら、見ればわかる。
間違いなく、僕の字だ。
けれど、書かれていた文章は、覚えのないものだった。
『もし明日、あの子が僕を忘れていたら、今日は何も聞かないこと。』
その下に、もう一行。
『答えを急ぐと、約束まで壊してしまう。』
僕は、しばらく紙を見つめた。
昨日、こんなものを書いただろうか。
いや、書いていない。
昨日の夜、僕がノートに書いたのは、電話のことと、少女のことと、明日が来るのが少し怖くなったということだけだ。
少なくとも、僕の記憶ではそうだった。
紙を裏返す。
何も書かれていない。
日付もない。
ただ、紙の右下に、小さな青い染みがついていた。
絵の具だろうか。
インクだろうか。
僕は指先でこすってみた。
落ちなかった。
青い染みを見つめているうちに、昨日の湖が頭に浮かんだ。
青いルアー。
夕暮れの水面。
少女のノート。
そして、僕の知らない日付が書かれた紙。
「……なんなんだよ」
僕は、紙を握りつぶしかけて、やめた。
もう一度、丁寧に折りたたむ。
机の引き出しを開け、昨日の公衆電話で見つけた紙の隣にしまった。
ふたつの紙。
ひとつには、こう書かれている。
『電話に出ないで。』
もうひとつには、こう書かれている。
『答えを急ぐと、約束まで壊してしまう。』
どちらも、僕の知らない何かを知っているようだった。
そして、どちらも、僕に何かをさせようとしていた。
僕は引き出しを閉めた。
朝の光は、少しずつ強くなっていた。
今日も一日が始まる。
学校へ行く。
授業を受ける。
放課後になったら、音楽室へ行く。
それから、湖へ。
少女に会う。
いつもどおりの一日。
そう考えたとき、僕はふと気づいた。
僕は昨日、少女に「明日も来てくれる?」と聞かれた。
そして、約束した。
今日も会うと。
だったら、行けばいい。
答えがわからなくても。
何が起こっているのかわからなくても。
約束したのだから。
僕は制服に着替えた。
机の引き出しを、もう一度だけ見た。
ふたつの紙は、そこにあった。
僕はそれを持っていくことにした。
*
午前8時06分 通学路
いつもの坂道を、自転車で下っていく。
風が頬を撫でた。
道路脇の木々には、少しずつ秋の色が混じり始めている。
夏休みが終わったばかりなのに、季節はもう先へ進もうとしていた。
僕は、ふと自転車を止めた。
道の向こうに、小さな文房具屋があった。
昔からある店で、店先には鉛筆やノートが並んでいる。ガラス戸には、色あせたポスターが貼られていた。
なぜか、その店が気になった。
僕は自転車を降り、店先を覗いた。
ノート。
鉛筆。
消しゴム。
画用紙。
どれも、見慣れたものばかりだ。
そのとき、店の奥に積まれた古いノートが目に入った。
表紙は薄い水色。
角が丸くなっていて、背表紙には小さな白いシールが貼られている。
僕は、そのノートを見たことがある気がした。
どこで?
いつ?
考えようとすると、頭の中が霧に包まれたようになった。
僕は店に入らず、そのまま自転車に戻った。
学校へ向かいながら、何度も振り返った。
どうして、あのノートが気になったのだろう。
理由はわからない。
ただ、あの水色の表紙を見た瞬間、胸の奥で何かが動いた。
遠い記憶の扉を、誰かが向こう側から叩いたような気がした。
*
午前10時55分 教室
授業が終わると、僕は鞄の中から自分のノートを取り出した。
昨日のことを、確かめておきたかった。
九月七日。
少女が、まだ来ていない日付の紙を持っていたこと。
九月八日。
知らない番号から電話がかかってきたこと。
公衆電話に、あの紙があったこと。
そして、少女が電話に出るなと言ったこと。
僕はページをめくった。
九月七日の欄には、昨日の出来事が書かれている。
自分の字だった。
間違いない。
けれど、九月六日の欄を見たとき、僕は手を止めた。
そこには、こう書かれていた。
『今日、少女が初めて歌を最後まで歌った。』
僕は眉をひそめた。
違う。
歌を最後まで歌ったのは、昨日だ。
九月八日。
音楽室で、みんなの前で歌った。
そのことは、はっきり覚えている。
九月六日は、土曜日だった。
僕はその日、音楽室に行っただろうか。
行った。
少年が曲をつけて、少女が歌詞を読んだ。
けれど、まだ最後までは歌っていなかった。
僕は、ノートの文字をじっと見つめた。
書き間違いだろうか。
日付を間違えたのかもしれない。
僕だって、日付を間違えることくらいある。
そう考えようとした。
しかし、九月六日の欄には、もう一文書かれていた。
『彼女が歌い終わったあと、僕は「忘れない」と約束した。』
僕は、その文章を読んだ。
もう一度、読んだ。
そして、ページを閉じた。
覚えていない。
そんな約束をした記憶はなかった。
僕は少女に、歌を聴くと約束した。
文化祭で歌うと約束した。
明日も会うと約束した。
けれど、歌い終わったあとに「忘れない」と約束したことは、覚えていなかった。
僕は、机の下で拳を握った。
ノートには、僕が書いた文字がある。
記憶には、その出来事がない。
どちらかが間違っている。
そうでなければ。
僕が、何かを忘れている。
その考えが頭に浮かんだとき、教室の窓から風が入ってきた。
ノートのページがめくれた。
九月六日の欄の、さらに下。
薄く消された文字が見えた。
僕はページを押さえた。
消しゴムで何度もこすった跡がある。
その下に、かすかに文字が残っていた。
僕は鉛筆を傾け、紙に影ができるようにして読んだ。
『本当は、あの日も、僕は――』
そこで文章は途切れていた。
その先は、きれいに消されていた。
僕はノートを閉じた。
授業開始のチャイムが鳴った。
先生が教室へ入ってくる。
みんなが席に戻る。
いつもの授業が始まる。
僕は前を向いた。
黒板には、今日の授業の内容が書かれていた。
先生の声が聞こえる。
教科書のページをめくる音がする。
すべてが普通だった。
けれど、僕の頭の中では、ひとつの問いが繰り返されていた。
――昨日の僕は、何を覚えていたんだろう。
*
午後3時41分 音楽室
放課後、僕は音楽室へ向かった。
扉を開けると、ピアノの音が聞こえた。
あの歌だった。
少女の歌。
文化祭で歌う予定の、まだ完成したばかりの歌。
少年がピアノを弾き、少女が窓際に立っていた。
僕に気づくと、少女は笑った。
「こんにちは」
「こんにちは」
「今日は、ちょっと早いね」
「うん」
僕は、彼女の顔を見た。
昨日と同じ笑顔。
いつもと同じ声。
それなのに、僕は急に怖くなった。
もし、僕の記憶が間違っていたら。
もし、僕が何かを忘れていたら。
もし、目の前にいる少女が、僕の知らない僕を知っていたら。
どうすればいいのだろう。
「健二?」
少女が首を傾げた。
「どうしたの?」
「……いや」
僕は笑おうとした。
「何でもない」
少女は、しばらく僕を見ていた。
それから、ノートを閉じた。
「ねえ」
「何?」
「今日、湖に行ける?」
「もちろん」
「よかった」
彼女は、ほっとしたように笑った。
その笑顔を見て、僕は思った。
今は、聞かないでおこう。
朝、枕の下で見つけた紙。
自分のノートに残された、覚えのない約束。
まだ来ていない日付。
それらについて、聞きたいことはたくさんあった。
でも、今、目の前にいる少女は、僕に何かを隠しているだけではないのかもしれない。
彼女自身も、何かを失いかけているのかもしれない。
僕には、まだわからなかった。
だから、今日は一緒に湖へ行こう。
それだけは、決めていた。
*
午後4時18分 湖畔
湖に着くと、少女はいつもの木の下に座った。
僕は釣り道具を広げ、竿を組み立てた。
風は穏やかだった。
水面には、薄い雲が映っている。
「今日は釣れるかな」
僕が言うと、少女は笑った。
「釣れなくても、いいよ」
「またそれか」
「だって、釣りに来たんでしょう?」
「魚を釣りに来たんだよ」
「私は、健二と話しに来たんだけど」
少女は、さらりと言った。
僕は竿を組み立てる手を止めた。
「……そういうこと、普通に言うんだな」
「普通じゃない?」
少女は笑った。
「じゃあ、今日は一匹も釣れなくてもいいね」
「それは、ちょっと悔しいな」
「どうして?」
「せっかく来たんだから」
「ここに来た時点で、もう、せっかくなんじゃない?」
僕は彼女を見た。
少女は、湖を見つめていた。
「だって、来られない日もあるでしょう?」
その言葉が、胸に残った。
来られない日。
会えない日。
約束を守れない日。
僕は、昨日の電話を思い出した。
電話に出たら、少女を忘れてしまうかもしれない。
そんなことが本当に起こるのだろうか。
そして、僕は何を忘れているのだろう。
「ねえ」
僕は言った。
「もし、僕が何かを忘れていたら、君は教えてくれる?」
少女の表情が変わった。
風が吹き、彼女の前髪が揺れた。
「……何かって?」
「昔のこととか。僕が覚えていないこととか」
僕は、できるだけ自然に話そうとした。
「自分のノートに、覚えのないことが書いてあったんだ」
少女は何も言わなかった。
「僕の字だった。だから、僕が書いたんだと思う。でも、書いた記憶がない」
僕は、湖を見た。
「そんなことって、あるのかな」
長い沈黙があった。
やがて、少女は小さく答えた。
「……あると思う」
「どうして?」
「人は、忘れるから」
「それは、そうだけど」
「覚えているつもりでも、忘れていることがある。大切なことでも、悲しいことでも、忘れてしまうことがある」
少女は、自分の指先を見つめた。
「でもね」
「うん」
「忘れたからって、そのときの気持ちまで、全部なくなるわけじゃないと思う」
僕は黙って聞いていた。
「たとえば、昔、誰かと一緒に歩いた道があるとするでしょう?」
「うん」
「その人の名前も、何を話したかも、思い出せなくなってしまったとしても」
少女は顔を上げた。
「その道を歩いたとき、なんだか懐かしい気持ちになることがあるかもしれない」
彼女は、少しだけ笑った。
「そういうのも、記憶なのかなって」
僕は、朝の文房具屋を思い出した。
水色のノート。
見覚えがあるような気がした、あの表紙。
理由もわからないのに、胸の奥で何かが動いた。
「……そうかもしれないな」
僕は言った。
「じゃあ、もし僕が忘れていたら」
少女は、じっと僕を見ていた。
「もう一度、教えてくれる?」
少女の唇が、かすかに震えた。
すぐには返事がなかった。
やがて、彼女は小さくうなずいた。
「うん」
それから、ほとんど聞こえない声で言った。
「何度でも」
*
その日は、結局、魚が一匹も釣れなかった。
僕のルアーは、何度も水面を跳ねた。
少女は、何度も笑った。
日が傾き、湖面が金色に染まっていく。
帰り支度をしていると、少女が僕のノートを見つけた。
「それ、学校の?」
「ああ」
「日記も書いてるの?」
「日記っていうほどじゃないけど、いろいろ書いてる」
「見てもいい?」
僕は少し迷った。
今日のことは、まだ整理できていない。
けれど、彼女が見たいというのなら、隠す理由もない気がした。
「いいよ」
ノートを渡す。
少女はページをめくった。
九月三日。
九月四日。
九月五日。
僕が書いた、何気ない記録。
釣りに行ったこと。
歌の話をしたこと。
少女が笑ったこと。
彼女は、それらを静かに読んでいた。
そして、九月六日のページで手を止めた。
僕の心臓が、少しだけ速くなった。
覚えのない約束が書かれているページ。
少女は、そこを見つめていた。
「……健二」
「何?」
「これ、覚えてる?」
僕は首を振った。
「覚えてない」
少女は、もう一度、文字を見た。
それから、ノートを閉じた。
「そっか」
それだけだった。
怒らなかった。
悲しそうな顔もしなかった。
ただ、ノートを僕に返した。
「じゃあ、今度は覚えていようね」
僕は、彼女を見た。
「……今度?」
「うん」
少女は笑った。
「今度、同じことがあったら」
その言葉の意味を、僕は聞けなかった。
聞いたら、何かが壊れてしまうような気がした。
だから僕は、ただうなずいた。
「……そうだな」
少女は、鞄を肩にかけた。
「じゃあ、また明日」
「また明日」
僕たちは、いつものように別れた。
そのとき、少女が振り返った。
「健二」
「何?」
「明日、もし私が、今日のことを忘れていても」
彼女は、少しだけ笑った。
「怒らないでね」
僕は、答えた。
「怒らないよ」
少女はうなずいた。
「ありがとう」
そして、歩いていった。
僕は、その後ろ姿を見送った。
夕暮れの道。
遠ざかっていく足音。
鞄から少しだけのぞいた、ノートの水色の角。
その色を見た瞬間、朝の文房具屋で見た古いノートが、頭の中によみがえった。
薄い水色の表紙。
丸くなった角。
白いシール。
そして、ノートの背表紙に書かれていた、小さな文字。
僕は、息をのんだ。
あのノートには、名前が書かれていた。
ほんの一瞬しか見えなかった。
けれど、確かに読めた。
そこには。
僕の名前が、書かれていた。
*
午後8時52分 健二の部屋
家に帰ると、僕は机に向かった。
鞄からノートを取り出す。
九月六日のページを開く。
『彼女が歌い終わったあと、僕は「忘れない」と約束した。』
僕は、その文章を見つめた。
自分の字。
自分のノート。
自分の記録。
それなのに、自分の記憶にはない。
僕は、ゆっくりと鉛筆を持った。
その文章の下に、一行を書き足した。
『今日、彼女は、僕が忘れていることを知っているようだった。』
書き終えて、鉛筆を置く。
それから、朝に見つけた紙を取り出した。
『もし明日、あの子が僕を忘れていたら、今日は何も聞かないこと。』
僕は、紙の文字を見つめた。
今朝は、僕が書いた覚えのない文章だった。
けれど、今なら、少しだけわかる気がした。
これは、誰かを責めるための言葉ではない。
誰かを忘れないようにするための言葉でもない。
たぶん、忘れてしまった誰かと、もう一度向き合うための言葉だ。
僕は紙を折りたたみ、ノートの間に挟んだ。
そして、最後のページを開いた。
そこには、まだ何も書かれていなかった。
僕は、しばらく考えた。
何を書けばいいのだろう。
今日のこと。
少女のこと。
記憶のこと。
忘れてしまった約束のこと。
いろいろあった。
でも、どれも、まだうまく言葉にできなかった。
だから、僕は一行だけ書いた。
『忘れても、もう一度、会いに行く。』
その文字を見つめていると、胸の奥が少しだけ温かくなった。
何が起こっているのか、わからない。
明日、何が起こるのかも、わからない。
それでも。
明日になったら、湖へ行こう。
少女に会おう。
もし彼女が今日のことを忘れていても、また一緒に釣りをしよう。
何度でも。
何度でも。
そう思いながら、僕はノートを閉じた。
時計は、午後九時十三分を指していた。
携帯電話は、鳴らなかった。
その夜、僕は夢を見なかった。
ただ、眠りにつく直前。
遠くから、誰かの歌声が聞こえた気がした。
まだ完成していない歌。
最後の一行だけが、何度も繰り返される。
また、あした。
また、あした。
また、あした。
その声は、少しずつ遠ざかっていった。
僕は目を閉じたまま、心の中で答えた。
――うん。
――また、あした。




