第十一章 水色のノートを持っていた少年
2008年9月10日(水) 午前7時12分 健二の部屋
朝、目が覚めて最初に考えたことは、昨日のことだった。
水色のノート。
文房具屋の奥に積まれていた、古いノート。
あの表紙を、僕はどこかで見たことがある。
それだけなら、たいしたことではない。
水色のノートなんて、どこにでもある。小学生のころに使っていたかもしれないし、友達が持っていたのかもしれない。
けれど、背表紙に書かれた名前だけは、どうしても頭から離れなかった。
僕の名前だった。
真船健二。
店先から一瞬見ただけなのに、そこだけは妙にはっきり覚えていた。
僕は机の引き出しを開けた。
昨日からしまってある二枚の紙を取り出す。
一枚目には、「電話に出ないで」。
二枚目には、「答えを急ぐと、約束まで壊してしまう」。
その隣に、自分のノートを置いた。
九月六日のページ。
覚えのない約束。
僕は、しばらく三つを見比べていた。
もし、これらが全部つながっているのだとしたら。
僕は、自分が思っているよりもずっと多くのことを忘れているのかもしれない。
でも、どうして忘れたのだろう。
いつから?
何を?
そして、誰が、それを覚えているのだろう。
少女は何かを知っている。
それだけは、もう疑いようがなかった。
昨日、彼女は僕のノートを見て、何も説明しなかった。
ただ、「今度は覚えていようね」と言った。
あの言葉が、頭の中で何度も繰り返された。
今度は。
その言い方は、まるで前にも同じことがあったみたいだった。
僕は制服を着て、鞄を肩にかけた。
今日は、いつもより早く家を出ることにした。
学校へ行く前に、あの文房具屋へ寄ってみよう。
水色のノートを、もう一度確かめたかった。
*
午前7時38分 文房具屋
店の前に着くと、シャッターは半分だけ開いていた。
僕は自転車を降り、店先に立った。
「すみません」
奥から、年配の女性が顔を出した。
「あら、おはよう。何か探しもの?」
「ええと、昨日、店の奥にあった水色のノートなんですけど」
「ああ、古いノートね」
女性は、少し考えるような顔をした。
「どうして、あれが気になったの?」
「……ちょっと、見覚えがあって」
「そう」
女性は店の奥へ引っ込んだ。
しばらくして、薄い水色のノートを持って戻ってきた。
昨日見たものと、同じだった。
角が丸くなっている。
背表紙には白いシール。
その端に、鉛筆で名前が書かれていた。
真船健二。
間違いない。
僕はノートを受け取ろうとして、手を止めた。
「これ、僕のなんですか?」
女性は、首を傾げた。
「さあねえ。ずいぶん前から、うちにあるものだから」
「ずいぶん前って、いつごろですか?」
「そうね……何年も前よ」
女性は、ノートの表紙を指でなぞった。
「ある男の子がね、これを預けていったの」
「男の子?」
「うん。高校生くらいだったかな。何度か、うちに来たのよ」
僕は息をのんだ。
「その子、何ていう名前でした?」
女性は少し困ったように笑った。
「それがね、名前を聞いたはずなのに、どうしても思い出せないの」
「……そうですか」
「でも、顔は覚えてるわ。いつも、ひどく眠そうでね。なのに、目だけは妙に真剣だった」
女性はノートを僕に差し出した。
「このノートを預けるとき、変なことを言っていたのよ」
「何て?」
女性は、少しだけ声を低くした。
「『もし僕が、またここへ来たら、このノートを渡してください』って」
僕は、ノートを見つめた。
「それだけですか?」
「ううん」
女性は、思い出すように目を細めた。
「もうひとつ、言っていたわ」
店の外を、自転車が通り過ぎた。
タイヤが道路の小石を踏む音がした。
女性は、その音が遠ざかるのを待ってから、静かに言った。
「『ただし、僕が何も覚えていないようだったら、すぐには渡さないでください』って」
僕の背中に、冷たいものが走った。
何も覚えていないようだったら。
すぐには渡さないで。
まるで、今の僕のことを言っているようだった。
「……どうして、そんなことを?」
「さあ」
女性は首を振った。
「私にも、わからないのよ。ただ、あの子は真剣だった。だから、いつか誰かが取りに来るんだろうと思って、ずっとしまっておいたの」
僕はノートに手を伸ばした。
指先が、表紙に触れる。
その瞬間、頭の奥で何かが弾けた。
湖。
夕暮れ。
木の下に座る、ひとりの少年。
その隣に、誰かがいる。
顔は見えない。
でも、声だけが聞こえた。
――忘れないで。
僕は、思わず手を引っ込めた。
「大丈夫?」
女性が尋ねた。
「……はい」
僕は深呼吸をした。
「すみません。ちょっと、びっくりして」
「無理しなくていいのよ」
女性はノートを棚へ戻そうとした。
僕は、慌てて言った。
「待ってください」
女性が振り返る。
「そのノート、見せてもらえませんか?」
女性はしばらく僕を見ていた。
それから、ゆっくりとうなずいた。
「いいわ。ただし、なくさないでね」
僕はノートを受け取った。
表紙は、思っていたよりも軽かった。
けれど、その中には、僕が知らないはずの時間が詰まっているような気がした。
*
ノートの最初のページには、何も書かれていなかった。
二ページ目も。
三ページ目も。
最初の数枚は、まっさらだった。
僕はページをめくり続けた。
やがて、鉛筆の文字が現れた。
日付はない。
ただ、ページの一番上に、短い言葉が書かれていた。
『一回目。』
その下に、文章が続いていた。
『今日は、あの子と湖へ行った。
釣りを教えてほしいと言われた。
僕は、釣りなんてたいして上手じゃないのに、少し得意になってしまった。
あの子は笑っていた。
僕も笑った。
それだけで、今日はいい日だったと思う。』
僕は、ページをめくった。
次のページ。
『二回目。』
『今日は、あの子が来なかった。
僕は一時間、湖で待った。
魚は一匹も釣れなかった。
帰り道、文房具屋に寄って、新しいノートを買った。
明日は来ると信じている。
そうでなければ、待つことができないから。』
僕の手が止まった。
あの子。
湖。
釣り。
待つこと。
書かれていることは、僕が今、少女と過ごしている時間によく似ていた。
けれど、このノートは何年も前から店にあったという。
だったら、これは誰が書いたのだろう。
僕はページをめくった。
『三回目。』
『今日は、あの子が来た。
昨日のことを覚えていなかった。
僕は、何も聞かなかった。
あの子は、いつもどおり笑っていた。
だから、僕も笑った。
また明日、と言った。
あの子も、また明日、と言った。
その言葉が聞けたので、今日は大丈夫だと思った。』
僕は、息を止めた。
何度も、同じことが起きている。
少女が来ない日。
昨日のことを覚えていない日。
それでも、また明日と約束する日。
これは、僕の今の生活そのものだった。
なのに、ノートの筆跡は、僕の字とは少し違っていた。
似ている。
でも、違う。
文字の形は似ているのに、鉛筆を運ぶ癖が違う。
僕はページの隅に書かれた小さな数字を見つけた。
「32」
それだけだった。
日付なのか、ページ番号なのか。
僕にはわからなかった。
さらにページをめくる。
今度は、短い文章だけが書かれていた。
『忘れたのは、あの子だけじゃない。
僕も、少しずつ忘れている。
昨日、何を話したのか。
何を約束したのか。
どうして、ここにいるのか。
それでも、青いルアーだけは覚えている。
あの子が笑ったことだけは、忘れたくない。』
僕は、ノートを閉じた。
胸が苦しかった。
この文章を書いた人は、誰なのだろう。
どうして、僕と同じようなことを経験しているのだろう。
そして、どうして、このノートには僕の名前が書かれているのだろう。
店の奥から、女性の声がした。
「何か、思い出した?」
僕は顔を上げた。
「……いいえ」
そう答えた。
本当は、何かを思い出しかけていた。
でも、それが何なのか、まだわからなかった。
女性は、何も聞かなかった。
ただ、静かに言った。
「そのノートね、最後のページだけ、ずっと開けなかったの」
「どうしてですか?」
「紙がくっついてしまっていてね。無理に剥がすと破れそうだったから」
僕はノートを開いた。
最後のページ。
確かに、二枚の紙がぴったりと張りついていた。
そっと指をかける。
ゆっくりと、剥がす。
紙が、かすかな音を立てた。
その下から、最後のページが現れた。
そこには、短い文章が書かれていた。
『もし、これを読んでいるのが今の僕なら、ひとつだけ覚えていてほしい。』
その下に、もう一行。
『あの子に会ったことを、証明しようとしないでほしい。』
僕は、文字を見つめた。
なぜ?
どうして、そんなことを?
さらに、その下に、鉛筆で小さく書かれていた。
『証明できなくても、あの子と過ごした時間まで、嘘になるわけじゃない。』
僕は、ノートを閉じた。
店の外では、通学する生徒たちの声が聞こえていた。
時計を見る。
もう、学校へ行かなければならない。
僕はノートを女性に返そうとした。
けれど、女性は首を振った。
「持っていきなさい」
「でも……」
「そのために、預かっていたんでしょうから」
女性は、優しく笑った。
「ただし、ひとつだけ約束して」
「何ですか?」
「いつか、そのノートを返しに来るときには、今日より少しだけ、いい顔をしていてね」
僕は、返事ができなかった。
ノートを鞄に入れ、店を出た。
自転車に乗り、学校へ向かった。
風が頬を撫でた。
いつもと同じ道。
いつもと同じ朝。
けれど、僕の鞄の中には、僕が知らない僕の記録が入っていた。
*
午後4時09分 湖畔
学校が終わると、僕は急いで湖へ向かった。
少女は、いつもの木の下にいた。
ノートを膝に置き、湖を見つめている。
「こんにちは」
僕が声をかけると、彼女は顔を上げた。
「あ、健二」
その声を聞いて、僕は少し安心した。
彼女は、いつもどおりだった。
僕を見て笑った。
昨日のことを覚えているかどうかは、まだわからない。
でも、今は、ここにいる。
「今日は、何してたの?」
僕が尋ねると、少女はノートを閉じた。
「歌のことを考えてた」
「文化祭の?」
「うん」
「もう、ずいぶんできてきたんじゃない?」
「そうだね」
少女は湖を見た。
「でも、まだ最後のところが、少しだけ違う気がするの」
「この前、最後まで歌えたじゃないか」
「うん。歌えたよ」
彼女は、ゆっくりとうなずいた。
「でもね、歌えたことと、完成したことは、同じじゃないんだと思う」
僕は、鞄の中の水色のノートを思い出した。
そこには、何度も繰り返された約束が書かれていた。
何度も待ち、何度も忘れ、何度も「また明日」と言った人の記録。
僕は、少女の隣に座った。
「ねえ」
「何?」
「もし、僕が君のことを忘れたら、どうする?」
少女は、すぐには答えなかった。
風が吹き、ノートの端が揺れた。
「……また、会いに行くよ」
彼女は言った。
「何度でも?」
「うん」
「僕が、何も覚えていなくても?」
「うん」
少女は笑った。
「だって、健二は、健二でしょう?」
僕は、彼女を見た。
「覚えていなくても?」
「覚えていなくても」
少女は、少しだけ首を傾げた。
「好きなものも、嫌いなものも、全部忘れちゃったとしても。昨日のことも、今日のことも、覚えていなくても」
彼女は、湖を見つめた。
「もう一度、一緒に釣りをすればいいよ」
僕は、何も言えなかった。
少女は、続けた。
「また、話せばいい。
また、笑えばいい。
また、明日って言えばいい。」
それから、彼女は僕を見た。
「ね?」
僕は、ゆっくりとうなずいた。
「……うん」
その言葉を聞いて、胸の奥が温かくなった。
僕は鞄から、水色のノートを取り出した。
「これ、見てほしいんだ」
少女は、ノートを見た瞬間、顔色を変えた。
笑顔が消えた。
目が、大きく開かれた。
「……どうして、それを」
「文房具屋にあったんだ」
僕は、ノートを開いた。
「僕の名前が書いてあった。店の人が、何年も前から預かっていたって」
少女は、ノートを見つめていた。
その手が、膝の上で震えていた。
「中には、僕が知らないことが書かれていた」
僕は、最後のページを開いた。
『あの子に会ったことを、証明しようとしないでほしい。』
少女は、その文章を読んだ。
そして、目を閉じた。
長い沈黙があった。
やがて、彼女は小さく言った。
「……見つけちゃったんだね」
「これを書いたのは、誰なんだ?」
少女は、答えなかった。
「僕なのか?」
彼女は、ゆっくりと首を振った。
「……わからない」
「わからないって、どういうことだよ」
「本当に、わからないの」
少女は、ノートを見つめた。
「でも、そのノートを知ってる」
「どこで?」
彼女は、唇をかんだ。
「……夢の中で」
僕は、息をのんだ。
「夢?」
「うん。何度も、同じ夢を見るの」
少女は、湖の向こうを見た。
「水色のノートを持った男の子がいて、その子が、誰かを待っているの」
「誰を?」
「……女の子」
彼女は、自分のノートを胸に抱いた。
「その子は、いつも同じことを言うの」
「何て?」
少女は、しばらく黙っていた。
それから、静かに答えた。
「『今度こそ、忘れない』って」
風が吹いた。
湖面に、小さな波が立った。
僕は、手元の水色のノートを見た。
最後のページには、僕が知らない僕の言葉が残されている。
少女は、その言葉を知っているようだった。
でも、書いた人が誰なのかは、わからないという。
僕たちは、しばらく黙って湖を見ていた。
やがて、少女が言った。
「ねえ、健二」
「何?」
「そのノート、しばらく持っていてくれる?」
「いいけど……」
「お願い」
彼女は、まっすぐ僕を見た。
「いつか、思い出すかもしれないから」
僕は、うなずいた。
「わかった」
少女は、ほっとしたように笑った。
それから、いつものように竿を持った。
「今日は、釣りをしよう」
「そうだな」
僕も竿を取り出した。
水色のノートは、鞄の中にしまった。
まだ、何もわからない。
誰が書いたのか。
どうして僕の名前があるのか。
少女は、何を知っているのか。
それでも、僕たちは釣りを始めた。
魚は釣れなかった。
少女は笑った。
僕も笑った。
湖面に、夕日が映っていた。
その光景を、僕は忘れたくないと思った。
だから、ノートを取り出し、今日の日付を書いた。
2008年9月10日。
その下に、短く記した。
『今日、少女は、水色のノートを知っていた。
でも、誰が書いたのかは、わからないと言った。
僕も、まだ何もわからない。
それでも、今日、一緒に釣りをした。
魚は釣れなかった。
でも、今日は、いい日だった。』
僕は、最後に一行を付け加えた。
『わからないままでも、一緒にいられる時間がある。』
書き終えて、顔を上げた。
少女が、こちらを見ていた。
「何を書いたの?」
「今日のこと」
「見てもいい?」
僕はノートを渡した。
少女は、その一行を読んだ。
そして、ゆっくりと笑った。
「……うん」
その声は、少しだけ震えていた。
「そうだね」
少女はノートを返した。
「わからないままでも、一緒にいられる時間はあるよ」
彼女は、湖を見た。
「だから、今は、それを大事にしよう」
*
午後8時17分 健二の部屋
家に帰ってから、僕は水色のノートを机の上に置いた。
最初から、もう一度読み返してみた。
一回目。
二回目。
三回目。
何度も繰り返される、湖での出来事。
少女が来なかった日。
少女が忘れていた日。
それでも、また明日と約束した日。
ページをめくるたびに、胸が苦しくなった。
このノートを書いた人は、どれだけ待ったのだろう。
どれだけ忘れられたのだろう。
それでも、どうして、待ち続けたのだろう。
僕は最後のページを開いた。
『あの子に会ったことを、証明しようとしないでほしい。』
その下の言葉。
『証明できなくても、あの子と過ごした時間まで、嘘になるわけじゃない。』
僕は、長いあいだ、その文章を見つめていた。
そして、ふと思った。
僕は今、何をしようとしているのだろう。
少女が本当に存在することを、証明しようとしているのだろうか。
僕が彼女と会ったことを、誰かに認めてもらいたいのだろうか。
それとも。
自分の記憶が正しいと、確かめたいだけなのだろうか。
僕は、窓の外を見た。
夜空には、星がいくつか見えていた。
遠くで、犬が鳴いた。
いつもの町の、いつもの夜。
僕は、水色のノートを閉じた。
そして、自分の日記を開いた。
今日のページの最後に、もう一行だけ書き足した。
『もし明日、何も覚えていなくても、今日、僕が大切だと思ったことまで、なくなったことにはしたくない。』
書き終えたとき、携帯電話が鳴った。
僕は、息を止めた。
画面を見る。
知らない番号。
着信時刻は、午後九時十三分。
僕は電話を見つめた。
出ないで。
少女の声が、頭の中によみがえった。
電話は鳴り続けていた。
僕は、受話器のマークに指を近づけた。
あと少しで、押してしまいそうだった。
誰なのか、知りたかった。
何が起こっているのか、知りたかった。
どうして僕の記憶が食い違うのか。
どうして、何年も前のノートに、僕の名前が書かれているのか。
そして、どうして。
僕は、少女のことを忘れるのが、こんなにも怖いのか。
電話が鳴る。
僕は、目を閉じた。
それから、指を引いた。
電話が止まった。
画面が暗くなった。
静かな部屋に、時計の音だけが残った。
僕は水色のノートを手に取った。
最後のページを開く。
その文章の下に、鉛筆で一行を書き足した。
『今度こそ、忘れない。』
書いた瞬間、胸の奥が痛んだ。
どうしてだろう。
その言葉を、僕は前にも書いたことがある気がした。
ずっと前に。
誰かを待ちながら。
湖のほとりで。
僕はノートを閉じた。
そして、明日も湖へ行こうと決めた。
何が起きても。
何を忘れても。
明日、また少女に会うために。
窓の外で、風が吹いた。
机の上のノートの端が、ほんの少しだけ揺れた。
そのページの隅に、いつの間にか、薄い文字が浮かんでいた。
僕は気づかなかった。
文字は、鉛筆で書かれたように淡かった。
けれど、そこには確かに、こう記されていた。
『一回目は、まだ終わっていない。』




