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第十二章 湖に、二人分の足跡


2008年9月11日(木) 午前7時03分 健二の部屋


夢の中で、誰かが僕を呼んでいた。


声は遠かった。


風の向こうから聞こえてくるようで、何を言っているのか、よくわからなかった。


僕は、声のする方へ歩いていた。


足元には、白い砂が広がっていた。


見覚えのある場所だった。


湖だ。


いつもの湖。


けれど、いつもと違っていた。


水面には、空が映っていない。


青空も、雲も、夕日もない。


ただ、深い青色だけが、どこまでも広がっていた。


湖のほとりに、少女が立っていた。


白い服を着て、背中を向けている。


「おい」


僕は呼びかけた。


少女は振り返らなかった。


「どうしたんだよ」


近づこうとした。


けれど、歩いても歩いても、距離が縮まらない。


少女の足元には、二人分の足跡があった。


ひとつは、少女のもの。


もうひとつは、僕のもの。


僕たちは、ここへ来るまで一緒に歩いてきたのだろうか。


そう思った。


けれど、僕は彼女と一緒に歩いた記憶がなかった。


少女が、ようやく振り返った。


顔は、よく見えなかった。


逆光のせいかもしれない。


それでも、声だけははっきり聞こえた。


「健二」


「うん」


「お願いがあるの」


「何?」


少女は、手を伸ばした。


その手には、青いルアーが握られていた。


「これを、返して」


「誰に?」


少女は、少しだけ悲しそうに笑った。


「あなたに」


僕は目を覚ました。


*


時計は午前七時を指していた。


カーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいる。


いつもの部屋。


いつもの朝。


僕はしばらく、布団の中で天井を見つめていた。


夢の内容は、はっきり覚えていた。


少女の声。


青いルアー。


そして、最後の言葉。


――これを、返して。


僕は机の上に目を向けた。


水色のノートが置いてある。


その横に、釣り道具のケース。


僕は起き上がり、ケースを開けた。


青いルアーは、いつもの場所にあった。


小さな金属の輪。


青い塗装。


光の角度によって、湖の色にも、夏の空にも見える、不思議な青。


その側面には、小さく刻まれた文字がある。


また、あした。


僕はルアーを手に取った。


夢の中の少女は、これを返してほしいと言った。


誰に返すのか。


どうして、僕に返すのか。


わからないことばかりだった。


けれど、ひとつだけ、気になったことがある。


夢の中で、少女は「あなたに」と言った。


返す相手は、僕だった。


つまり、僕はこのルアーを、どこかから受け取ったのだろうか。


今の僕が知らない、過去のどこかで。


僕はルアーをケースに戻した。


今日は、湖へ行く前に、確かめたいことがあった。


昨日、少女が水色のノートを見たときの表情。


あのとき、彼女は確かに驚いていた。


ただの夢で見たものに、あんな顔をするだろうか。


もしかすると、彼女も僕と同じように、何かを忘れているのかもしれない。


僕は鞄に水色のノートを入れた。


それから、日記を開いた。


昨日の最後に書いた一行。


『今度こそ、忘れない。』


その下に、今日の日付を書き足す。


2008年9月11日。


そして、こう記した。


『夢の中で、少女が青いルアーを返してほしいと言った。返す相手は、僕だった。』


書き終えて、鉛筆を置いた。


僕は、まだ知らない。


この一行が、いつか僕自身を救うことになるのか。


それとも、僕が最後まで知りたくなかったことを、思い出させるのか。


今は、まだわからない。


ただ、今日も湖へ行く。


それだけは、決めていた。


午前8時21分 通学路


学校へ向かう途中、僕は何度も湖のことを考えた。


夢の中の湖は、いつもの湖だった。


けれど、何かが違った。


水面に空が映っていなかった。


あの湖は、いつも空を映している。


晴れた日には青く、曇った日には灰色に。


夕方には、赤や金色を溶かしたような色になる。


僕は、湖面に映る景色が好きだった。


水の中にもうひとつの空がある。


そう思うだけで、世界が少しだけ広くなった気がした。


でも、夢の中では、空がなかった。


青い水だけが広がっていた。


まるで、そこだけが世界から切り離されてしまったようだった。


僕は自転車をこぐ速度を落とした。


道路脇の草むらに、朝露が光っている。


その向こうに、小さな公園があった。


公園のベンチには、誰も座っていなかった。


なのに、ベンチの上に、白い紙が一枚置かれていた。


僕は自転車を止めた。


紙は、風に飛ばされないように、小さな石で押さえられていた。


近づいてみる。


白い紙。


折り目がひとつ。


宛名も、差出人もない。


僕は周囲を見回した。


誰もいなかった。


紙を手に取る。


開いてみると、短い文章が書かれていた。


『足跡を数えないで。』


その下に、小さく。


『二人だったかどうかを、確かめないで。』


僕は紙を握りしめた。


誰が置いたのだろう。


どうして、僕に向けたような言葉が、こんな場所にあるのだろう。


また、あの知らない番号の人物なのか。


それとも。


僕は、紙を折りたたんだ。


捨てることはできなかった。


鞄の内ポケットにしまい、自転車に乗った。


学校へ向かう道は、いつもどおりだった。


けれど、僕は初めて、足元を見るのが怖くなった。


自分がどこから来たのか。


誰と一緒に歩いてきたのか。


そんな当たり前のことさえ、確かめるのが怖かった。


午後3時52分 湖へ続く小道


放課後、僕はいつもの道を歩いていた。


自転車は、湖へ続く小道の入口に置いてきた。


ここから先は、木の根が道に張り出している。自転車では走りにくいからだ。


木々の間から、湖の光が見えた。


少女は、もう来ているだろうか。


今日は、何を話そう。


水色のノートのこと。


夢のこと。


朝、公園で見つけた紙のこと。


聞きたいことは、たくさんあった。


けれど、僕は、彼女の顔を見てから決めようと思った。


少女が笑ってくれたら。


いつもどおり「こんにちは」と言ってくれたら。


そのときは、まず釣りをしよう。


何も聞かずに、竿を出そう。


そんなことを考えながら、木々の間を抜けた。


そして、僕は立ち止まった。


湖の砂浜に、足跡が残っていた。


二人分。


小さな足跡と、少し大きな足跡。


小さな方は、木の下から湖へ向かって続いている。


大きな方は、湖の方から木の下へ向かっていた。


まるで、二人がすれ違ったようだった。


僕は、足跡を見つめた。


少女は、まだいなかった。


僕も、今、ここへ来たばかりだ。


それなのに、足跡は、すでにそこにあった。


風が吹いた。


砂の表面が、かすかに揺れた。


僕は一歩、砂浜へ踏み出した。


自分の靴跡が、ひとつ増えた。


その瞬間、朝、公園で見つけた紙の言葉が頭に浮かんだ。


――足跡を数えないで。


――二人だったかどうかを、確かめないで。


僕は、足を止めた。


数えてはいけない。


そう書かれていた。


けれど、もう見てしまった。


二人分の足跡がある。


僕が来る前から。


誰かが、ここにいた。


いや。


誰かが、ここを歩いた。


それは、確かなことだった。


僕は、木の下へ向かった。


少女がいつも座る場所。


そこに、何かが落ちていた。


青いルアーだった。


僕は、息をのんだ。


自分のケースに入れてきたものと、同じ形。


同じ青。


同じ大きさ。


側面には、同じ文字が刻まれていた。


また、あした。


僕は、自分の鞄を開けた。


ケースを取り出す。


中には、僕の青いルアーがあった。


ひとつ。


手のひらの上にあるものも、ひとつ。


二つの青いルアー。


僕は、しばらく動けなかった。


片方は、僕が持ってきたもの。


もう片方は、ここに落ちていたもの。


どう見ても、同じものだった。


けれど、よく見ると、違いがあった。


砂浜に落ちていたルアーは、表面の青が少しだけ剥げていた。


金属の輪も、古びている。


そして、裏側に、小さな傷があった。


僕は、指先でその傷をなぞった。


見覚えがある。


いや。


見覚えがあるような気がした。


いつ、どこでついた傷なのか。


思い出せない。


僕は二つのルアーを並べた。


片方は、今の僕が持っているもの。


もう片方は、ずっと前からここにあったようなもの。


それなのに、どちらも同じ文字を刻んでいた。


また、あした。


僕は、砂浜に落ちていたルアーを拾い上げた。


その下に、一枚の封筒があった。


白い封筒。


角が少し折れている。


表には、丁寧な字で名前が書かれていた。


『――へ』


最初の二文字は、砂にこすれて読めなかった。


けれど、最後の文字だけは、はっきりしていた。


『子』


少女の名前だろうか。


僕は封筒を裏返した。


差出人の欄には、何も書かれていなかった。


ただ、封の部分に、小さな青い染みがあった。


水色のノートにも、同じ染みがついていた。


僕は、封筒を開けようとした。


そのとき、後ろから声がした。


「健二」


僕は振り返った。


少女が立っていた。


いつもの鞄。


いつものノート。


けれど、顔色が少し悪かった。


「……それ」


少女は、僕の手元を見ていた。


「どこにあったの?」


「木の下」


僕は答えた。


「さっき来たら、落ちてたんだ」


少女は、ゆっくりと近づいてきた。


僕の手にある二つのルアーを見た。


それから、封筒を見た。


その瞬間、彼女の表情が変わった。


驚き。


悲しみ。


そして、どこか、ほっとしたような顔。


いくつもの感情が、一瞬のうちに通り過ぎていった。


「……来ちゃったんだね」


少女がつぶやいた。


「何が?」


彼女は答えなかった。


僕は、封筒を持ち上げた。


「これ、君宛てなの?」


少女は、封筒を見つめた。


長い沈黙。


そして、小さくうなずいた。


「……たぶん」


「たぶんって?」


「私の名前が、書いてあるんだと思う」


「じゃあ、開けよう」


僕は封筒に指をかけた。


少女が、僕の手を止めた。


「待って」


その声は、震えていた。


「お願い。まだ、開けないで」


僕は、彼女を見た。


「どうして?」


少女は、うつむいた。


「……今、読んだら、きっと」


言葉が途切れた。


「きっと、何?」


少女は唇をかんだ。


そして、ようやく顔を上げた。


「今まで、ここで過ごした時間を、全部、別のものとして見てしまう気がするの」


僕は、返事ができなかった。


「この手紙を読んだら、何かがわかるのかもしれない」


少女は、僕の手元を見た。


「でも、わかったら、今までのことを、同じようには思えなくなるかもしれない」


風が吹いた。


封筒の端が、僕の指先で揺れた。


「……それでも、知りたい?」


僕は尋ねた。


少女は、しばらく考えていた。


それから、ゆっくりとうなずいた。


「知りたい」


彼女は、僕を見た。


「でも、ひとりでは、読みたくない」


僕は、封筒を見つめた。


それから、彼女に手渡した。


「じゃあ、一緒に読もう」


少女は、封筒を受け取った。


指先が、ほんの少し触れた。


その手は、冷たかった。


彼女は封筒を両手で持ち、しばらく見つめていた。


やがて、ゆっくりと封を切った。


中から、折りたたまれた紙が出てきた。


少女は、紙を開いた。


僕も、隣から文字を追った。


そこには、こう書かれていた。


---


『あなたへ。


もし、この手紙を読んでいるのなら、僕たちは、また同じ場所へ戻ってきたのだと思います。


あなたは、きっと、何も覚えていないでしょう。


それでいいのです。


覚えていなくても、あなたがここへ来てくれたことは、変わりません。


あなたが笑ったことも。


魚が釣れなくて、少し悔しそうにしていたことも。


夕暮れの湖を見ながら、明日も会おうと言ってくれたことも。


僕は、忘れたくありません。


でも、あなたが忘れてしまうことを、責めたくもありません。


だから、これだけは伝えておきます。


あの日、あなたが歌えなかった歌は、まだ終わっていません。


最後の一行は、あなた自身が書かなければならないのです。


僕には、代わりに書くことができません。


もし、もう一度、あの歌を歌える日が来たら。


そのときは、最後まで歌ってください。


誰かのためだけではなく、あなた自身のために。


そして、歌い終わったら、どうか思い出してください。


僕たちは、ここで出会いました。


何度忘れても。


何度、明日が来なくても。


僕は、あなたに会いに来ます。


また、あした。


――あなたと、同じ夏を歩いた少年より。』


---


少女は、読み終えても、しばらく顔を上げなかった。


紙を持つ手が、震えていた。


僕は、何も言えなかった。


手紙の文章は、僕が水色のノートで読んだ言葉と、よく似ていた。


忘れてもいい。


責めない。


また、会いに行く。


そして、何度忘れても、約束は消えない。


けれど、ひとつだけ、わからないことがあった。


手紙を書いたのは、誰なのだろう。


少女は、誰を待っているのだろう。


そして、歌えなかった歌とは、何なのだろう。


「……健二」


少女が、かすれた声で言った。


「うん」


「私、歌を最後まで歌いたい」


僕は、彼女を見た。


少女は、手紙を胸に抱いていた。


「でも、怖いの」


「何が?」


「歌い終わったら、何かが終わってしまう気がするから」


僕は、湖を見た。


夕日が、水面に映っている。


空は、まだ青かった。


あの夢の中の湖とは違う。


ここには、空がある。


僕たちの姿も、木々も、夕日も映っている。


僕は、少女に言った。


「終わったら、また始めればいい」


少女は顔を上げた。


「……え?」


「歌が終わったら、もう一度歌えばいい。文化祭が終わったら、また歌えばいい」


僕は、青いルアーを手のひらに載せた。


「釣りだって、そうだろ。魚が釣れなくても、また来ればいい。今日が終わっても、明日が来たら、また始められる」


少女は、僕の手の中のルアーを見つめた。


「……明日が来なかったら?」


その問いに、僕は答えられなかった。


明日が来なかったら。


そんなことは、普通なら考えもしない。


けれど、僕たちの間では、その言葉が、少しずつ現実味を帯びていた。


少女は、静かに言った。


「ねえ、健二」


「何?」


「もし、明日が来なかったら、今日のことを覚えていてくれる?」


僕は、彼女を見た。


その目には、涙が浮かんでいた。


僕は、うなずいた。


「覚えてるよ」


「本当に?」


「うん」


僕は、彼女の手元にある手紙を見た。


「忘れたとしても、また思い出す。思い出せなくても、また会いに行く」


少女は、唇をかみしめた。


そして、笑った。


泣きそうな顔で。


「……ありがとう」


そのとき、湖から風が吹いた。


砂浜に残っていた足跡が、少しずつ崩れていった。


二人分の足跡。


僕たちが来る前から、そこにあった足跡。


風が砂を運び、形を変えていく。


やがて、どちらが誰のものなのか、わからなくなった。


僕は、それを見ていた。


少女も、見ていた。


僕たちは、何も言わなかった。


足跡は、やがて、ほとんど消えてしまった。


それでも、僕たちは、そこに立っていた。


確かに、ここにいた。


そのことだけは、誰にも消せないような気がした。


午後5時21分 湖畔


帰り道、少女は手紙を鞄にしまった。


青いルアーは、僕が拾った古い方を彼女が持つことになった。


僕のルアーは、僕のケースに戻した。


二つのルアー。


同じ文字。


同じ形。


違う傷。


僕たちは、まだその意味を知らない。


けれど、少女は古いルアーを手のひらで包みながら、何度も何度も、刻まれた文字を指でなぞっていた。


「また、あした」


彼女がつぶやいた。


「うん」


僕は答えた。


「また、あした」


その言葉を口にしたとき、僕はふと気づいた。


僕たちは、いつも「また、あした」と言っている。


明日も会うために。


今日が終わっても、約束を続けるために。


でも、もし。


この言葉が、ただの挨拶ではなかったとしたら。


もし、この言葉が、何度も失われた時間をつなぎ直すための、合言葉だったとしたら。


僕は、少女を見た。


彼女は、笑っていた。


その笑顔を、僕は覚えていたいと思った。


今度こそ。


何があっても。


そう思った。


午後9時13分 健二の部屋


夜、机に向かい、僕は今日の出来事を書き留めた。


二人分の足跡。


青いルアー。


少女宛ての手紙。


そして、手紙に書かれていた、歌えなかった歌のこと。


書いているうちに、ひとつだけ気づいたことがあった。


手紙には、日付がなかった。


いつ書かれたのか。


誰が書いたのか。


それは、わからない。


ただ、最後の署名だけは、妙にはっきりしていた。


――あなたと、同じ夏を歩いた少年より。


僕は、その言葉をノートに書き写した。


そして、ふと思った。


同じ夏。


僕たちは、今、九月を生きている。


夏休みは終わった。


学校が始まって、何日も経っている。


それなのに、僕たちは、まだ夏の中にいるような気がした。


湖の夕日。


青いルアー。


文化祭の歌。


何度も繰り返される約束。


それらは、すべて、同じ夏の中にある。


僕は、日記の最後に書いた。


『今日、僕たちは、二人分の足跡を見つけた。』


少し考えてから、もう一行。


『でも、足跡が消えても、そこを歩いた時間まで、なくなるわけじゃない。』


書き終えたとき、携帯電話が鳴った。


僕は、画面を見た。


知らない番号。


午後九時十三分。


昨日と同じ時刻。


僕は、電話を見つめた。


出ないで。


少女の声が、頭の中で聞こえた。


けれど、今夜は、少しだけ違っていた。


電話が鳴る直前、僕は手紙のことを考えていた。


誰が書いたのか。


いつ書いたのか。


どうして、僕たちのことを知っているのか。


そして、なぜ。


僕は、少女に会う前から、彼女を知っていたような気がするのだろう。


電話は鳴り続けた。


一回。


二回。


三回。


僕は、受話器のマークに指を伸ばしかけた。


そのとき、水色のノートが、机の上で開いた。


風は吹いていない。


窓も閉まっている。


なのに、最後のページだけが、ゆっくりと開いていた。


僕は電話から目を離した。


ノートのページには、昨日までなかった文字が書かれていた。


鉛筆で、薄く。


けれど、確かに。


『十二回目は、手紙を読む。』


僕は息をのんだ。


十二回目。


今日が、十二回目なのだろうか。


何の?


誰の?


僕は、電話を見た。


まだ鳴っていた。


それから、ノートを見た。


ページの一番下に、もう一行、文字が浮かび上がっていた。


『次は、電話に出て。』


僕は、動けなかった。


電話が鳴る。


ノートには、出ろと書かれている。


少女は、出るなと言った。


どちらを信じればいいのだろう。


僕は、ゆっくりと手を伸ばした。


指先が、受話器のマークに触れた。


そして――


電話が、止まった。


画面が暗くなった。


静かな部屋に、時計の音だけが残った。


僕は、しばらく携帯電話を見つめていた。


出られなかった。


また、出られなかった。


けれど、不思議と、後悔はなかった。


今夜は、まだ出るべきではなかったのだと思った。


いつか、出る日が来る。


そのときは、きっと。


僕自身が、出ると決めたときなのだろう。


僕は携帯電話を伏せた。


水色のノートを閉じた。


それから、窓の外を見た。


夜空には、星がいくつか見えていた。


明日は、何が起こるのだろう。


少女は、何を覚えているのだろう。


僕は、何を忘れてしまうのだろう。


わからないことばかりだった。


それでも、僕は眠る前に、ひとつだけ願った。


明日も、湖へ行けますように。


明日も、彼女に会えますように。


そして、できることなら。


いつか、あの歌を、最後まで聴けますように。


僕は目を閉じた。


遠くで、誰かが歌っているような気がした。


まだ完成していない歌。


最後の一行を待っている歌。


その歌声は、今夜は少しだけ近かった。


そして、最後の一行が、聞こえた気がした。


――また、あした。


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