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第十三章 午前九時十三分の声


2008年9月12日(金) 午前6時48分 健二の部屋


朝、目が覚めたとき、僕は自分が泣いていたことに気づいた。


枕が少し濡れていた。


夢を見ていたのだと思う。


けれど、どんな夢だったのか、思い出せなかった。


誰かの声が聞こえた。


誰かが、僕を呼んでいた。


その人は、泣いていたのかもしれない。


あるいは、笑っていたのかもしれない。


声だけが残っていて、顔も、言葉も、何も残っていなかった。


僕は枕元の時計を見た。


午前六時四十八分。


いつもより少し早い。


布団から出て、机の前に座った。


昨日の水色のノートが、そこにあった。


僕は、最後のページを開いた。


昨夜、確かに見た文字。


『十二回目は、手紙を読む。』


その下にあった、もうひとつの言葉。


『次は、電話に出て。』


鉛筆の文字は、昨日と同じだった。


僕は、そのページをしばらく見つめていた。


そして、ふと思った。


このノートを書いた人は、どうして僕が電話に出なかったことを知っているのだろう。


僕が電話に出なかったことは、誰にも話していない。


もちろん、少女にも。


そもそも、電話が鳴ったこと自体、僕以外には誰も知らないはずだった。


僕はノートを閉じた。


今日は学校がある。


文化祭の準備も、まだ終わっていない。


少女と会えるかもしれない。


そのことを考えると、少しだけ胸が軽くなった。


僕は机の引き出しから日記を取り出した。


昨日の最後に書いた願い。


『明日も、湖へ行けますように。』


その下に、今日の日付を書いた。


2008年9月12日。


それから、少し考えて、こう書き足した。


『もし、僕と同じ声をした誰かがいたら、僕はその人を信じられるだろうか。』


書き終えたとき、携帯電話が目に入った。


昨夜の着信履歴。


知らない番号。


午後九時十三分。


僕は、その番号を見つめた。


電話に出るべきだったのだろうか。


それとも、出なかったからこそ、守れたものがあったのだろうか。


わからない。


ただ、ひとつだけ、決めたことがあった。


次に電話が鳴ったら、僕は逃げない。


相手が誰であっても。


たとえ、自分自身の声が聞こえたとしても。


僕は、最後まで聞く。


そう決めて、携帯電話を鞄にしまった。


そのときは、まだ知らなかった。


その決意を試されるまで、あと二時間二十五分しかないことを。


*


午前8時36分 学校・音楽室


音楽室には、朝の光が満ちていた。


窓際に並べられた机。


壁に貼られた文化祭のポスター。


黒板の隅に残された、誰かの書きかけの楽譜。


いつもと変わらない風景だった。


けれど、ピアノの上に置かれた一冊のノートを見て、僕は足を止めた。


水色だった。


僕が持っているものと、よく似た色。


近づいてみると、表紙には何も書かれていなかった。


僕は周囲を見回した。


誰もいない。


窓から入ってきた風が、カーテンを揺らしていた。


ノートを手に取ろうとした、そのとき。


「それ、私のじゃないよ」


背後から声がした。


振り返ると、少女が立っていた。


彼女は鞄を肩にかけ、少し眠そうな顔をしていた。


「おはよう」


僕が言うと、少女は笑った。


「おはよう、健二」


その声を聞いただけで、僕は少し安心した。


昨日と同じ声。


昨日と同じ笑顔。


今日も、彼女はここにいる。


それだけで、何かが大丈夫になったような気がした。


「これ、誰のだろうな」


僕はピアノの上のノートを指さした。


少女は、表紙を見た。


ほんの一瞬、笑顔が消えた。


「……わからない」


「水色のノートって、ほかにもあるんだな」


「そうだね」


彼女は、ノートに触れようとはしなかった。


「健二は、持ってないの?」


「何を?」


「水色のノート」


僕は鞄の中にあるノートを思い浮かべた。


「……持ってるよ」


少女は、僕を見た。


驚いたような顔だった。


けれど、すぐに目を伏せた。


「そっか」


「どうかした?」


「ううん」


少女は、ピアノの上のノートから離れた。


「ねえ、今日、少しだけ歌ってもいい?」


「歌?」


「うん。文化祭の歌」


僕はうなずいた。


「もちろん」


少女は、楽譜を取り出した。


まだ完成していない歌。


最後の一行が、空白のままになっている歌。


彼女は、楽譜を譜面台に置いた。


そして、ピアノの前に座った。


最初の音が、静かに響いた。


僕は、その音を聞いた。


湖の夕暮れに似ていた。


水面に小さな波紋が広がっていくような、優しい音だった。


少女は、歌い始めた。


声は少し震えていた。


それでも、歌は途切れなかった。


僕は、彼女の声を聞きながら思った。


この歌を、僕は知っている。


初めて聞いたはずなのに。


何度も聞いたことがあるような気がする。


歌詞のひとつひとつが、胸の奥にしまわれていた何かを、静かに揺らしていく。


そして、最後の一行。


少女は、そこで歌うのをやめた。


音だけが、音楽室に残った。


「……ごめん」


彼女は、楽譜を見つめていた。


「まだ、ここから先は歌えない」


僕は首を振った。


「謝らなくていいよ」


「でも、もう少しで歌えそうな気がするんだ」


少女は、自分の胸元に手を置いた。


「ここまで、言葉が来ているの。あと少しなのに、どうしても声にならない」


「じゃあ、待とう」


「え?」


「声になるまで、待てばいい」


僕は、ピアノのそばに腰を下ろした。


「急がなくていいよ。文化祭まで、まだ時間はある」


少女は、少しだけ笑った。


「健二は、待つのが得意だね」


「釣りをしてるからな」


「魚が釣れなくても?」


「魚が釣れなくても」


彼女は、くすくすと笑った。


その笑い声を聞いて、僕も笑った。


朝の音楽室。


窓から入る風。


まだ完成していない歌。


僕たちは、しばらくそこにいた。


この時間が、ずっと続けばいいと思った。


けれど、時計の針は進んでいく。


九時に近づいていた。


少女は楽譜を片づけた。


「じゃあ、またあとでね」


「うん。またあとで」


彼女は扉のところで振り返った。


「健二」


「何?」


「今日、九時十三分になったら、どこにいる?」


僕は、少し驚いた。


「どうして?」


「……なんとなく」


少女は、笑おうとした。


けれど、その笑顔はうまく形にならなかった。


「もし、その時間に電話が鳴っても」


彼女は、言葉を切った。


「絶対に、ひとりで出ないで」


僕は、少女を見つめた。


「電話?」


「うん」


「何のこと?」


少女は、首を振った。


「ごめん。今は、まだ話せない」


そして、扉の向こうへ消えていった。


僕は、ひとり残された音楽室で、ピアノの上の水色のノートを見つめた。


表紙には、何も書かれていない。


けれど、なぜか。


あのノートは、僕が持っているノートよりも、ずっと古いもののように思えた。


*


午前9時09分 校舎一階・廊下


午前九時を過ぎると、校舎は少しずつ騒がしくなった。


教室から聞こえる話し声。


階段を駆け上がる足音。


文化祭の準備について相談する生徒たち。


誰かが笑っていた。


誰かが先生に呼ばれていた。


いつもどおりの学校。


僕は廊下を歩いていた。


少女の言葉が、頭から離れなかった。


――九時十三分になったら、どこにいる?


――電話が鳴っても、ひとりで出ないで。


どうして、彼女はそんなことを知っているのだろう。


昨日、僕が電話に出なかったことを、彼女は知らないはずだ。


それなのに、まるで次に何が起こるのか、わかっているようだった。


僕は、職員室の前を通り過ぎた。


その先に、古い公衆電話がある。


今では使う生徒も少ない。


携帯電話を持っている人が増えたからだ。


緑色の電話機。


壁に貼られた、少し色あせた案内。


受話器の横には、十円玉を入れる小さな投入口があった。


僕は、その前を通り過ぎようとした。


そのとき、電話が鳴った。


リン、リン、リン。


校舎のざわめきの中でも、その音だけが、妙にはっきり聞こえた。


僕は足を止めた。


公衆電話が鳴っている。


誰も使っていない。


受話器は、きちんと元の位置に戻されている。


それなのに、電話が鳴っていた。


周囲の生徒たちは、誰も気づいていないようだった。


廊下を歩き続けている。


笑い声も、話し声も、変わらない。


まるで、僕にしか聞こえていないかのようだった。


リン、リン、リン。


僕は時計を見た。


午前九時十二分。


あと一分。


僕の手のひらに、汗がにじんだ。


昨日の夜。


知らない番号からの電話。


水色のノートに浮かび上がった文字。


『次は、電話に出て。』


そして、少女の言葉。


『絶対に、ひとりで出ないで。』


電話は鳴り続けていた。


僕は、廊下を見回した。


誰かに声をかけようと思った。


でも、なぜだろう。


声が出なかった。


僕の足は、電話の前から動かなかった。


時計の針が進む。


午前九時十三分。


その瞬間、廊下の音が消えた。


話し声も。


足音も。


遠くの教室から聞こえていたピアノの音も。


何もかもが、すっと消えた。


電話の音だけが残った。


リン、リン、リン。


僕は、受話器を取った。


耳に当てる。


しばらく、何も聞こえなかった。


ただ、微かな雑音があるだけだった。


そして。


「……聞こえるか」


声がした。


僕は息を止めた。


聞き覚えのある声だった。


いや。


聞き覚えがあるどころではない。


それは、僕の声だった。


「聞こえるか。健二」


僕は、受話器を握りしめた。


「……誰だ」


自分の声が震えていた。


受話器の向こうの声は、静かに答えた。


「お前だよ」


僕は、何も言えなかった。


「未来のお前、と言えばいいのか。それとも、前のお前と呼ぶべきなのか」


声は、少しだけ笑った。


その笑い方まで、僕と同じだった。


「まあ、どっちでもいい。今は時間がない」


「何を言ってるんだよ」


「よく聞いてくれ」


声の調子が変わった。


ふざけているわけでも、僕をからかっているわけでもなかった。


切羽詰まった声だった。


「頼むから、今度はあの子をひとりにしないでくれ」


胸の奥が、強く締めつけられた。


あの子。


少女のことだ。


「どういう意味だよ」


僕は受話器に向かって言った。


「何が起きるんだ? あの子に何があるんだ?」


「全部を説明する時間はない」


「ふざけるなよ!」


思わず声が大きくなった。


けれど、廊下の向こうから誰も来なかった。


音のない学校。


止まったような時間。


受話器の向こうにいる、僕と同じ声。


「僕は、何を忘れてるんだ?」


声は、すぐには答えなかった。


長い沈黙。


そして、ぽつりと言った。


「お前は、忘れたんじゃない」


「……え?」


「忘れるしかなかったんだ」


その言葉が、胸の奥に沈んだ。


忘れるしかなかった。


どうして。


何を。


僕は、受話器を強く握った。


「じゃあ、教えてくれよ」


声が震えた。


「僕は、何をしたんだ?」


向こうから、かすかな息遣いが聞こえた。


まるで、泣くのをこらえているようだった。


「……お前は、約束したんだ」


「何を?」


「何度でも、あの子に会いに行くって」


僕は、目を閉じた。


湖。


青いルアー。


水色のノート。


少女の笑顔。


何度も繰り返される「また、あした」。


頭の中で、いくつもの場面が重なった。


けれど、どれも、はっきりとは見えなかった。


「それだけじゃない」


声が続けた。


「お前は、もうひとつ約束した」


「……何を?」


声は、今度こそ泣いているようだった。


「今度こそ、ひとりにしないって」


僕は、何も言えなかった。


受話器の向こうから、微かな音が聞こえた。


紙をめくるような音。


そして、遠くで誰かが歌っている。


あの歌だ。


文化祭の歌。


まだ完成していない歌。


僕は、その旋律を知っていた。


知っているはずがないのに。


「健二」


声が、僕を呼んだ。


「今度の九月十三日を、越えさせてやってくれ」


僕は目を開けた。


「九月十三日?」


「そうだ」


「明日じゃないか」


「……そうだな」


声は、静かに答えた。


「お前にとっては、明日だ」


その言い方が、ひどく気になった。


お前にとっては。


まるで、相手にとっては違う時間を生きているような言い方だった。


「君は、今、どこにいるんだ?」


僕は尋ねた。


「ここから、どれくらい離れてる?」


「遠くない」


「じゃあ、会えるだろ!」


僕は、受話器に向かって叫んだ。


「会って話そうよ。電話じゃなくて、直接!」


向こうは、何も言わなかった。


「なあ、僕は君なんだろ? だったら、どうして会えないんだよ!」


沈黙。


そして、声は答えた。


「……会ってるよ」


僕は息をのんだ。


「え?」


「お前は、もう、何度も俺に会ってる」


その瞬間、耳元で雑音が大きくなった。


ジジッ、という音。


電話の向こうの声が、遠ざかっていく。


「待ってくれ!」


僕は叫んだ。


「まだ聞きたいことがある!」


「健二、最後にひとつだけ」


声が、かろうじて聞こえた。


「明日、九時十三分。湖へ行け」


「湖?」


「そして、あの子に聞くんだ」


声は、途切れそうになりながら続けた。


「『君は、何回目の夏を生きているの?』って」


僕は、凍りついた。


何回目の夏。


少女は、何回目の夏を生きているのか。


そんなことを、考えたこともなかった。


夏は、一度きりのはずだった。


八月が終われば、九月が来る。


夏休みが終われば、学校が始まる。


それが、当たり前の時間の流れだ。


けれど。


もし、彼女だけが。


もし、僕たちだけが。


何度も同じ夏を歩いているのだとしたら。


「待って!」


僕は叫んだ。


「君は、誰なんだ!」


声が、最後にひとことだけ残した。


「……お前が、忘れたくなかった人だよ」


そして、電話が切れた。


*


音が戻ってきた。


廊下の話し声。


階段を駆け上がる足音。


教室から聞こえる笑い声。


誰かが僕の横を通り過ぎていった。


「おい、健二。何やってんだ?」


クラスメートだった。


「……いや」


僕は、受話器を元の位置に戻した。


「ちょっと、電話を」


「誰に?」


「……わからない」


クラスメートは不思議そうな顔をしたが、すぐに教室へ戻っていった。


僕は、しばらく公衆電話の前に立っていた。


時計を見る。


午前九時十四分。


たった一分。


それだけの時間だった。


なのに、僕は、ひどく長い時間を過ごしたような気がした。


僕は鞄から水色のノートを取り出した。


最後のページを開く。


そこには、新しい文字が書かれていた。


『十三回目。声が届いた。』


その下に、もう一行。


『でも、まだ、あの子の名前を呼べていない。』


僕は、その文字を見つめた。


あの子の名前。


そうだ。


僕は、まだ彼女の名前を知らない。


湖で出会ってから、何度も話した。


一緒に釣りをした。


彼女の歌を聴いた。


彼女の夢の話も聞いた。


手紙を一緒に読んだ。


それなのに、僕は彼女の名前を知らなかった。


どうして、今まで聞かなかったのだろう。


いや。


聞けなかったのかもしれない。


名前を聞いてしまえば、何かが変わる。


そんな気がしていたから。


僕はノートを閉じた。


そのとき、背後から声がした。


「健二?」


振り返ると、少女が立っていた。


彼女は僕の顔を見て、すぐに何かを察したようだった。


「……電話、鳴った?」


僕は、うなずいた。


「うん」


少女は、唇をかんだ。


「出たの?」


「出たよ」


彼女は、目を閉じた。


ほんの一瞬だった。


けれど、その顔には、深い悲しみが浮かんでいた。


「……そう」


「君は、知ってたんだね」


少女は答えなかった。


「何が起きているのか、知ってるんだろ?」


僕は、彼女を見つめた。


「僕たちは、何を忘れてるんだ?」


少女の目が揺れた。


「……ごめん」


また、その言葉だった。


彼女は、いつも謝る。


何かを隠しているとき。


何かを言えないとき。


そして、僕が何かを忘れているとき。


「謝らないでよ」


僕は言った。


「僕は、知りたいんだ」


少女は、しばらく黙っていた。


そして、ようやく口を開いた。


「健二」


「うん」


「もし、私があなたに、ひとつだけお願いをするとしたら」


彼女は、僕を見た。


「聞いてくれる?」


「もちろん」


「……どんなお願いでも?」


僕は、少しだけ考えた。


それから、うなずいた。


「できることなら」


少女は、泣きそうな顔で笑った。


「じゃあ、お願い」


彼女は、僕の手を取った。


その手は、昨日と同じように冷たかった。


「明日、私に会いに来て」


僕は、うなずいた。


「わかった」


「九時十三分に」


「うん」


「そして、もし私があなたのことを忘れていても」


少女の声が、震えた。


「……怒らないでね」


僕は、彼女の手を握り返した。


「怒らないよ」


少女は、目を伏せた。


「もし、私が、あなたの名前を忘れていても?」


「何度でも名乗るよ」


「もし、私が、今日のことを忘れていても?」


「何度でも話すよ」


「もし……」


彼女は、そこで言葉を止めた。


僕は、待った。


彼女が続きを話せるようになるまで。


やがて、少女は小さな声で言った。


「もし、私が、あなたに会ったことさえ忘れていたら?」


僕は、答えた。


「また、会いに行くよ」


少女の目から、涙がこぼれた。


彼女は、うつむいて、何度も小さくうなずいた。


「……ありがとう」


僕たちは、廊下の真ん中に立っていた。


周りでは、生徒たちがいつもどおりに歩いている。


誰も、僕たちのことを気にしていない。


世界は、いつもどおりに進んでいる。


それなのに、僕たちの間には、誰にも見えない時間が流れているような気がした。


何度も繰り返される夏。


何度も失われる記憶。


何度も交わされる約束。


そして、いつか必ず来る、明日。


僕は、少女に言った。


「ねえ」


「何?」


「君の名前、聞いてもいい?」


少女は、顔を上げた。


驚いたような顔をした。


それから、少しだけ笑った。


「……うん」


彼女は、名前を言おうとした。


けれど、その瞬間。


遠くの教室から、チャイムが鳴った。


少女の唇が動いた。


僕は、確かに、その名前を聞いたはずだった。


なのに。


チャイムが鳴り終わったとき、僕の頭の中には、何も残っていなかった。


ただ、彼女が笑っていたことだけは、覚えていた。


少女は、悲しそうに僕を見つめた。


「……やっぱり、まだ、だめなんだね」


「何が?」


彼女は首を振った。


「ううん。なんでもない」


そして、いつもの言葉を口にした。


「また、あした」


僕は、うなずいた。


「また、あした」


彼女が廊下の向こうへ歩いていく。


僕は、その背中を見送った。


名前を聞いたはずなのに、思い出せない。


そんなことが、本当にあるのだろうか。


僕は、ノートを鞄にしまった。


明日。


九時十三分。


湖へ行く。


そして、彼女に聞く。


君は、何回目の夏を生きているの?


その答えを聞くのが、怖かった。


でも、聞かずにはいられなかった。


僕たちが歩いている、この夏の正体を知るために。


そして、彼女をひとりにしないために。


*


午後4時47分 湖畔


放課後、僕はひとりで湖へ行った。


少女は、来なかった。


砂浜には、昨日の足跡はもう残っていなかった。


風が吹き、波が砂を洗っていた。


僕は木の下に座り、水色のノートを開いた。


今日のことを書こうと思った。


電話のこと。


自分と同じ声。


九月十三日。


そして、少女の名前を聞いたのに、覚えていないこと。


鉛筆を持ち、ページに書き始めた。


けれど、少女の名前を書く場所で、手が止まった。


名前がわからない。


聞いたはずなのに。


僕は、何度も思い出そうとした。


彼女の唇の動き。


笑顔。


声。


けれど、どれだけ考えても、名前だけが浮かんでこなかった。


僕は、ページの真ん中に書いた。


『今日、僕は、彼女の名前を聞いた。』


その下に。


『でも、思い出せない。』


書き終えたとき、ページの隅に、見覚えのない文字があることに気づいた。


鉛筆で、薄く。


まるで、ずっと前からそこに書かれていたように。


『名前を忘れたのは、十三回目が初めてではない。』


僕は、ノートを閉じた。


湖を見た。


夕日が水面に沈みかけていた。


あの歌が、頭の中に流れていた。


まだ完成していない歌。


最後の一行を待っている歌。


僕は、小さな声で口ずさんでみた。


最初の一節。


次の一節。


そして、最後の一行。


声にはならなかった。


でも、胸の中では、確かに歌が続いていた。


僕は、空を見上げた。


明日、彼女に会えるだろうか。


明日、彼女は僕を覚えているだろうか。


明日、僕は彼女の名前を覚えていられるだろうか。


わからない。


それでも、明日、湖へ行く。


九時十三分に。


僕は、ノートの最後に、もう一度書いた。


『また、あした。』


その文字の下に、小さな青い染みが浮かんだ。


僕は、指先で触れた。


冷たかった。


まるで、湖の水に触れたときのように。


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