第七章 初めて、歌に名前がついた日
2008年9月6日 午後3時37分 音楽室
ピアノの音が、廊下まで聞こえていた。
健二は、文化祭の準備で使う模造紙を抱えたまま、音楽室の前で立ち止まった。
昨日も聞いた旋律だった。
短くて、少し不思議なメロディー。
明るいのか、悲しいのか、よくわからない。
けれど、耳に残る。
まるで、昔どこかで聞いた歌を、思い出そうとしているときのような旋律だった。
健二は扉を少しだけ開けた。
「……あ」
ピアノの前にいた男子生徒が顔を上げた。
「お、健二。ちょうどいいところに来たな」
「何が?」
「ちょっと聞いてくれよ」
男子生徒は、椅子から立ち上がった。
「この前の歌詞、曲をつけてみたんだ」
「もう?」
「昨日、家でずっと考えてたんだよ。短いフレーズだけだけどな」
健二は、模造紙を壁際に置いた。
「どんな曲?」
「それを今から聞かせるんだって」
男子生徒は、少し得意そうに笑った。
「ただし、まだ完成じゃない。途中で止まっても笑うなよ」
「笑わないって」
「お前、昨日、俺が同じところで間違えたとき笑っただろ」
「あれは間違え方が面白かったんだよ」
「ほら、そういうところだぞ!」
ふたりは笑った。
男子生徒はピアノの前に戻り、譜面台に一枚の紙を置いた。
五線譜の上に、鉛筆で書かれた音符が並んでいる。
その下には、少女の歌詞があった。
健二は、自然と目を細めた。
あの言葉が、音楽になろうとしていた。
ノートの中にしかなかった言葉が、誰かの手によって、音になろうとしている。
それは、思っていたよりも不思議なことだった。
「じゃあ、いくぞ」
男子生徒が鍵盤に指を置いた。
最初の音が鳴った。
*
曲は、ゆっくり始まった。
高い音がひとつ。
少し間を空けて、低い音がふたつ。
それから、音が少しずつつながっていく。
派手な曲ではなかった。
文化祭の最後に演奏するには、少し静かすぎるかもしれない。
それでも、健二は途中で目をそらせなかった。
旋律が進むにつれて、頭の中に湖の景色が浮かんだ。
夕方の水面。
桟橋の木目。
風に揺れる少女の髪。
魚が釣れなかった日。
初めて魚が釣れた日。
ふたりで笑った日。
そのどれもが、音楽に合わせて、ひとつずつ思い出されるようだった。
やがて、曲は途中で止まった。
「……どうだ?」
男子生徒が聞いた。
健二は、すぐには答えられなかった。
「……なんか」
「なんか?」
「湖みたいだな」
「湖?」
「うん。夕方の湖」
男子生徒は、少し考えた。
「……なるほどな」
それから、楽譜を見た。
「そういう感じを狙ったわけじゃないんだけどな」
「そうなの?」
「うん。歌詞を読んでたら、自然にこうなった」
男子生徒は、もう一度、最初の音を弾いた。
「なんていうか、終わりそうで終わらない感じにしたかったんだよ」
「終わりそうで?」
「うん。曲が終わるのに、まだ続きがあるような感じ」
健二は、その言葉を頭の中で繰り返した。
終わるのに、続きがある。
矛盾しているようで、どこか、わかる気がした。
湖で過ごした一日は、夕方になれば終わる。
帰り道が来て、家に帰る。
次の日になれば、また学校へ行く。
けれど、昨日の続きは、どこかに残っている。
笑ったことも、話したことも、約束したことも。
終わったはずなのに、終わっていない。
「……いい曲だと思う」
健二は言った。
男子生徒は、照れくさそうに頭をかいた。
「まだ、半分だけどな」
「半分でもいいよ」
「お前、最近そればっかり言ってるな」
「そうか?」
「そうだよ」
男子生徒は笑った。
「まあ、もう少し考えてみるわ。歌詞を書いた本人にも聞いてみないとな」
健二は、うなずいた。
「……うん。そうだな」
少女は、この曲を聞いたら、どんな顔をするだろう。
喜ぶだろうか。
それとも、何か違うと言うだろうか。
健二は、それを早く知りたかった。
*
少女が音楽室に来たのは、午後四時を少し過ぎたころだった。
「ごめん、遅くなった」
「いや、俺たちも今、始めたところだよ」
男子生徒が答えた。
少女は、ピアノの上に置かれた楽譜を見た。
「……これ?」
「ああ。お前の歌詞に、少しだけ曲をつけてみた」
少女は、楽譜を手に取った。
音符を目で追っていく。
最初は、何も言わなかった。
やがて、彼女は小さく息を吸った。
「……弾いてもらってもいい?」
「もちろん」
男子生徒がピアノの椅子に座った。
少女は、すぐ横に立った。
健二は、少し離れた机に腰を下ろした。
「じゃあ、いくぞ」
ピアノの音が鳴った。
昨日まで、少女のノートの中にしかなかった言葉が、旋律と一緒に音楽室を満たしていく。
少女は、歌詞を見つめていた。
口元が、ほんの少し動いた。
歌おうとしているのかもしれない。
けれど、声は出なかった。
曲が止まった。
「……どう?」
男子生徒が聞いた。
少女は、すぐに答えなかった。
楽譜を持つ指に、少し力が入っていた。
「……すごいね」
「本当?」
「うん。私の言葉なのに、私が書いたときとは違うみたい」
「曲がつくと、そういうもんじゃないか?」
「……そうなのかな」
少女は、もう一度、楽譜を見た。
「なんだか、ここにあった言葉が、遠くまで行けるようになった気がする」
その言葉を聞いて、健二は顔を上げた。
少女は、笑っていた。
でも、その目には、少しだけ不安が浮かんでいた。
「……ねえ」
彼女は、男子生徒に聞いた。
「この曲、最後まで作れる?」
「作れると思うよ。歌詞の続きがあればな」
「……そっか」
「どうした?」
「ううん。なんでもない」
少女は楽譜を机に置いた。
「ありがとう。すごく、うれしい」
その声は、本当にうれしそうだった。
それなのに、彼女は、曲の続きを頼もうとはしなかった。
*
帰り道、健二は少女に聞いた。
「曲、よかったな」
「うん」
「気に入った?」
「うん。すごく」
「じゃあ、完成させてもらおうよ」
少女は、歩きながら空を見上げた。
「……そうだね」
「何だよ。自分の歌だろ?」
「うん。そうだよ」
「だったら、最後まで作ればいいじゃん」
少女は、しばらく黙っていた。
やがて、健二のほうを向いた。
「ねえ、健二くん」
「ん?」
「歌って、どうして終わるんだと思う?」
「……どういうこと?」
「曲の最後って、あるでしょ。最後の音が鳴って、演奏が終わる」
「うん」
「でも、聞いている人の中では、そのあとも歌が続くことがあるよね」
健二は考えた。
「……まあ、あるかもな」
「だったら、最後まで歌わないほうが、ずっと続くのかな」
健二は、足を止めた。
少女も立ち止まった。
夕方の空は、薄い紫色に変わり始めていた。
「……完成させたくないの?」
健二が聞くと、少女は少しだけ目を見開いた。
「どうして?」
「だって、さっきから、そんなことばっかり言うから」
少女は、困ったように笑った。
「……そうかもしれない」
「なんで?」
「完成したら、終わっちゃう気がするから」
健二は、首をかしげた。
「曲が完成したって、文化祭で歌えばいいじゃん」
「うん」
「文化祭が終わったって、また歌えばいいじゃん」
「……うん」
「だったら、終わらないだろ」
少女は、何も言わなかった。
健二は、自分が何か間違ったことを言ったのかと思った。
でも、彼女は怒っているわけではなかった。
ただ、少しだけ、悲しそうだった。
「……健二くんは、そう思うんだね」
「そうだよ」
「そっか」
少女は、ゆっくりうなずいた。
「……そう思えるのって、すてきだね」
健二は、返事ができなかった。
彼女の言葉が、褒め言葉なのか、別の何かなのか、わからなかったからだ。
しばらく歩いてから、少女は小さく笑った。
「ごめんね。変なことばっかり言って」
「だから、謝らなくていいって」
「うん」
彼女は、鞄の中からノートを取り出した。
歩きながら、何かを書き込んでいる。
「危ないぞ」
「大丈夫」
「転ぶなよ」
「転ばないよ」
「前、見ろって」
「はーい」
少女は笑いながら、ノートを閉じた。
そして、健二の顔を見た。
「……今の、覚えててね」
「何を?」
「歌が完成したら、また歌えばいいって言ったこと」
「そんなの、覚えてるよ」
「本当?」
「本当だって」
少女は、うれしそうに笑った。
「じゃあ、約束」
「また約束かよ」
「約束は、何回してもいいんだよ」
健二は、思わず笑った。
「……そうだな」
ふたりは、また歩き始めた。
*
その夜、少女は自分の部屋でノートを開いていた。
机の上には、昼間もらった楽譜の写しが置いてある。
まだ途中までしか完成していない。
歌詞も、最後まで書けていない。
それでも、彼女は何度も楽譜を見つめた。
自分の言葉に、音がついた。
誰かが、自分の書いた言葉を読んで、考えて、旋律にしてくれた。
それが、うれしかった。
とても、うれしかった。
彼女は、ノートの新しいページを開いた。
日付を書く。
2008年9月6日。
その下に、今日のことを書き始めた。
音楽室のこと。
ピアノの音。
健二が「湖みたいだ」と言ったこと。
そして、帰り道に交わした約束。
――歌が完成したら、また歌えばいい。
少女は、その言葉を書き終えると、鉛筆を止めた。
ページの下には、まだ余白があった。
彼女は、その余白を見つめた。
書きたいことは、まだあった。
伝えたいことも、あった。
でも、それを書いてしまったら。
自分の中にある不安を、文字にしてしまったら。
それが本当のことになってしまうような気がした。
少女は、ノートを閉じた。
そして、机の上の楽譜をそっと手に取った。
小さな声で、メロディーを口ずさんでみる。
最初の数音だけ。
まだ、歌詞の途中まで。
それでも、確かに歌だった。
「……また、あした」
彼女は、最後の言葉をつぶやいた。
その言葉だけは、最初から決まっていた。
どうしてその言葉でなければいけないのか。
どうして、ほかの言葉ではだめなのか。
少女自身にも、うまく説明できなかった。
ただ、いつか誰かに伝えなければならない気がしていた。
そして、その誰かは、きっと。
あの湖で出会った少年なのだと。
彼女は、もう気づき始めていた。




