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第六章 明日になったら、話すから


2008年9月5日 午前7時18分


健二は、目覚まし時計が鳴る前に目を覚ました。


カーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいる。


いつもなら、もう少し寝ていたいと思う時間だった。


学校へ行くまでには、まだ余裕がある。


布団から出る理由なんて、特にない。


それでも、健二は起き上がった。


机の上には、昨日の宿題と、読みかけの漫画。


その横に、青いルアーが置いてあった。


健二はそれを手に取り、窓から入る光にかざした。


青い塗装の表面に、小さな傷が見える。


釣具屋の老人は、どうしてこれを自分に渡したのだろう。


どうして、あの少女も、この文字を見たときに、少しだけ寂しそうな顔をしたのだろう。


考えても、答えは出なかった。


「……まあ、いいか」


健二はルアーを机に戻した。


今日は学校が終わったら、湖へ行こう。


少女は、話したいことがあると言っていた。


それが何なのか、気になって仕方がなかった。


でも、少しだけ楽しみでもあった。


彼女が自分に何かを話してくれる。


それは、彼女のことをもう少し知ることができるということだから。


健二は制服に着替え、階段を下りた。


台所から、朝食の匂いがしていた。


いつもと変わらない朝だった。


この日が、あとから何度も思い返すことになる一日だとは、まだ知らなかった。


*


午後四時十二分。


健二は、湖へ続く道を歩いていた。


学校では、文化祭の準備が本格的に始まっていた。


廊下には色紙や段ボールが積まれ、教室のあちこちから、作業をする生徒の声が聞こえた。


音楽室では、昨日の男子生徒がピアノを練習していた。


少女の歌詞に曲をつけるかもしれない、と言っていた彼だ。


健二は、少しだけ立ち止まった。


扉の向こうから、同じ旋律が聞こえてくる。


短いフレーズ。


ゆっくりしたテンポ。


途中で音が途切れ、また最初から始まる。


まだ、完成した曲ではなかった。


それでも、どこかで聞いたことがあるような気がした。


もちろん、初めて聞く旋律のはずだった。


なのに、胸の奥に、懐かしいものが触れたような感覚があった。


「……気のせいか」


健二は首を振った。


そして、学校を出た。


湖へ向かう道には、秋の気配が少しずつ混じっていた。


*


少女は、桟橋の入口に立っていた。


健二の姿を見つけると、手を振った。


「おーい!」


「待った?」


「ううん。今来たところ」


「本当か?」


「本当だよ」


彼女は笑った。


その笑顔を見て、健二は少し安心した。


昨日の帰り際、彼女はどこか不安そうだった。


今日も同じ顔をしていたら、何を聞けばいいのかわからなくなっていたかもしれない。


「で、話って?」


健二が聞くと、少女はすぐには答えなかった。


代わりに、桟橋の先を指さした。


「先に、釣りしようよ」


「話は?」


「逃げないよ」


「昨日もそんなこと言ってたような……」


「今日は本当に逃げないから」


少女は、いたずらっぽく笑った。


健二はため息をついた。


「……わかったよ」


ふたりは並んで桟橋を歩いた。


湖は、昨日より少しだけ風が強かった。


水面に細かな波が立ち、対岸の景色が揺れて見える。


健二は釣り竿を準備し、少女は隣でノートを開いた。


「今日は何を書くんだ?」


「今日のこと」


「まだ何もしてないじゃん」


「今、健二くんがそう言ったことを書いた」


「早いな!」


「忘れないうちにね」


少女は笑いながら、ノートに文字を書いた。


健二は、その横顔を見ていた。


昨日、日付がずれていたページ。


何度も同じ日付が書かれていたこと。


少女が「自分の記憶が間違っているときも?」と聞いたこと。


気になることは、たくさんあった。


でも、今はまだ聞かなかった。


彼女が話してくれると言ったのだから。


その言葉を信じて、待ってみようと思った。


*


しばらくして、少女がノートを閉じた。


「……ねえ、健二くん」


「ん?」


「私ね、忘れたくないことがあるんだ」


健二は、竿を持つ手を止めた。


「何を?」


「いろいろ」


「いろいろって……」


「湖のこととか、今日のこととか。昨日のこととか」


少女は、ひとつずつ数えるように言った。


「誰かが笑ったこと。何かを約束したこと。何でもない日に、何でもない話をしたこと」


健二は黙って聞いていた。


「そういうのって、すごく大切だと思うの」


「……うん」


「でもね、どれだけ大切でも、ずっと同じ形で覚えていられるわけじゃないんだよ」


少女は、ノートの表紙を指でなぞった。


「最初は、声まで覚えてる。顔も、表情も、そのときの風の匂いまで覚えてる気がする」


彼女は、少し笑った。


「でも、何年もたったら、どうなるんだろうね」


「忘れるんじゃない?」


「うん。忘れると思う」


あっさりした答えだった。


健二は、少し拍子抜けした。


「じゃあ、ノートに書いておけばいいじゃん」


「そうだね」


「写真を撮るとかさ」


「うん」


「録音するとか」


「……うん」


少女は、どれにも反対しなかった。


それなのに、表情は晴れなかった。


「でも、それだけじゃ足りない気がするんだ」


「何が?」


「……ううん。まだ、うまく言えない」


彼女は湖を見た。


風が吹き、髪が頬にかかった。


健二は、何か言おうとした。


そのとき、竿先が揺れた。


「おっ、来た!」


健二は慌ててリールを巻いた。


少女が笑った。


「また魚?」


「今度こそ大物かもしれない!」


「昨日も聞いたよ、それ」


「今日は違うって!」


魚は結局、途中で逃げてしまった。


健二は肩を落とした。


少女は、声を上げて笑った。


「残念!」


「笑うなよ!」


「だって、健二くん、すごい真剣な顔してたから!」


「釣りは真剣にやるもんだろ!」


「そうだね」


彼女は笑いながら、目元を拭った。


その笑顔を見て、健二も笑った。


さっきまでの話は、いったんどこかへ消えていた。


ただ、ふたりで魚を逃がした。


それだけのことだった。


けれど、少女はノートを開くと、その出来事を丁寧に書き留めた。


魚が逃げたこと。


健二が悔しがったこと。


自分が笑ったこと。


そして、そのとき、湖に風が吹いていたこと。


*


午後五時二十六分。


太陽が山の向こうへ傾き始めていた。


少女は、ようやくノートを鞄にしまった。


「……話してもいい?」


健二はうなずいた。


「うん」


彼女は、少し離れた水面を見つめた。


「私ね、最近、変な夢を見るんだ」


「夢?」


「うん」


「どんな?」


少女は、答えるまでに時間をかけた。


「学校にいるの」


「うん」


「文化祭の準備をしてる。みんなが笑ってて、音楽が聞こえてて……」


彼女は、膝の上で手を握った。


「でも、誰も私に気づかないの」


健二は、眉をひそめた。


「……どういうこと?」


「そこにいるのに、誰も私を見ない。話しかけても、声が届かない」


「夢なんだろ?」


「うん。夢だよ」


少女はうなずいた。


「目が覚めたら、ちゃんと覚えてる。夢だったってわかる」


「だったら……」


「でもね」


彼女は、健二を見た。


「目が覚めたあとも、ときどき、夢の続きを見ている気がするの」


風が止まった。


少なくとも、健二にはそう感じられた。


湖の水面が、夕方の光を映して静かに揺れていた。


「……それ、怖いのか?」


健二は聞いた。


少女は、少し考えた。


「怖い、というより……」


言葉を探すように、彼女は視線を落とした。


「寂しいのかな」


健二は、何も言えなかった。


「夢の中では、みんながいるの。友達も、先生も、音楽室も、教室も」


少女は、ゆっくり話した。


「全部、いつもと同じ。でも、私だけが、そこから少しずれているみたいなの」


「……ずれてる?」


「うん。時計の針が、ほんの少しだけ合っていないみたいに」


その言葉を聞いた瞬間、健二は昨日のノートを思い出した。


日付がずれていたページ。


九月二日と九月三日。


そして、彼女が書き込んでいた、いくつもの記録。


健二は、思わず聞いた。


「それって、ノートの日付と関係あるの?」


少女の表情が変わった。


驚いたような。


困ったような。


そして、ほんの少しだけ、悲しそうな顔だった。


「……気づいてたんだ」


「そりゃ、あれだけ違ってたら」


「そうだよね」


彼女は笑おうとした。


でも、うまく笑えなかった。


「ごめんね。変なことばっかり言って」


「別に、変じゃないよ」


「本当?」


「うん。ただ……」


健二は、言葉を選んだ。


「ひとりで抱えなくてもいいんじゃないか、とは思う」


少女は、顔を上げた。


健二は続けた。


「よくわかんないけどさ。夢が怖いなら、怖いって言えばいいし。ノートが変なら、変だって言えばいいし」


自分でも、うまいことを言っているとは思わなかった。


それでも、言わずにはいられなかった。


「俺にできることがあるかはわかんないけど、話くらいなら聞けるよ」


少女は、黙っていた。


やがて、彼女は小さく息を吐いた。


「……健二くんって、時々、ずるいね」


「はあ?」


「そういうこと、簡単に言うんだもん」


「簡単じゃないって。けっこう考えたぞ」


少女は、ようやく笑った。


今度の笑顔は、さっきより少しだけ自然だった。


「ありがとう」


「うん」


「じゃあ、ひとつだけ、聞いてもいい?」


「何?」


彼女は、まっすぐ健二を見た。


「もし、私が明日、ここに来なかったら……健二くんは、どうする?」


健二は、すぐに答えた。


「待つよ」


「どのくらい?」


「来るまで」


「一日?」


「うん」


「二日だったら?」


「待つ」


「一週間だったら?」


健二は、少しだけ考えた。


「……一週間、毎日来るかもしれない」


少女は、目を見開いた。


「毎日?」


「だって、何かあったのかもしれないだろ」


「……そっか」


「でも、何かあったなら、連絡くらいしてほしいけどな」


「ふふっ。そうだね」


彼女は笑った。


それから、視線を落とした。


「……じゃあ、もし、ずっと来なかったら?」


健二は、彼女の顔を見た。


冗談を言っているようには見えなかった。


「……探すよ」


健二は言った。


「どこにいるか、探す」


少女は、唇を結んだ。


何かをこらえるように、目を伏せた。


それから、小さくうなずいた。


「……ありがとう」


その声は、いつもの声よりも、ずっと小さかった。


*


帰る時間になった。


少女は、桟橋の入口で立ち止まった。


「健二くん」


「ん?」


「今日、話せてよかった」


「……うん」


「まだ、全部じゃないけどね」


「わかってる」


「いつか、ちゃんと話すから」


彼女は、健二の目を見た。


「だから、そのときまで……待っててくれる?」


健二は、うなずいた。


「いいよ」


少女は、安心したように笑った。


「ありがとう」


それから、彼女は歩き出した。


数歩進んだところで、振り返った。


「……あ、そうだ!」


「何?」


「明日も、ここに来るからね!」


「わかった!」


「絶対だよ!」


「はいはい!」


少女は、笑いながら手を振った。


健二も手を振り返した。


彼女の姿が、木々の向こうへ消えていく。


健二は、しばらくその場に立っていた。


そして、青いルアーを見下ろした。


刻まれた文字は、昨日と同じだった。


――また、あした。


何も変わっていない。


少なくとも、見た目には。


けれど、健二は、少しだけわかった気がした。


少女が怖がっているのは、夢そのものではないのかもしれない。


忘れてしまうこと。


誰にも気づかれなくなること。


自分が確かにここにいたのに、そのことが、なかったことのようになってしまうこと。


それが、彼女の不安なのかもしれない。


健二には、まだ何もできない。


でも、ひとつだけできることがある。


明日も、湖に来ること。


彼女が来たら、隣に座ること。


そして、今日の話を覚えていること。


健二は、青いルアーを握りしめた。


「……また明日」


誰もいない湖に向かって、そう言った。


風が吹いた。


水面に、夕焼けの最後の光が揺れた。


その光は、まるで誰かが遠くから、小さく手を振っているように見えた。


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