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第五章 昨日の日付が、ノートにあった


2008年9月4日 午後4時21分 湖畔


湖に着いたとき、健二は、少女が先に来ていることに気づいた。


桟橋のいちばん端。


いつもの場所に腰を下ろして、膝の上にノートを広げている。


風が吹くたび、ページの端が小さく浮き上がった。


「おーい!」


健二が声をかけると、少女は顔を上げた。


それから、少しだけ目を細めた。


「遅い」


「まだ四時半にもなってないだろ」


「私の時計では遅いの」


「なんだよ、それ」


「ふふっ。冗談」


少女はノートを閉じた。


健二は隣に座り、釣り竿を取り出した。


水面は穏やかだった。


対岸の木々が、夕方の光に照らされている。


夏休みのころと比べると、風が少し冷たくなった。


ほんの数日前まで、日差しは肌にまとわりつくようだったのに。


季節は、誰にも断らずに先へ進んでいく。


「今日は釣れるかな」


健二が言った。


「釣れなかったら?」


「まあ、しょうがない」


「昨日もそう言ってた」


「昨日も釣れなかったからな」


「一昨日も」


「……よく覚えてるな」


「覚えてるよ」


少女は、当然のように言った。


「だって、一緒にいたもん」


健二は、返事をしなかった。


そんなことを、当たり前みたいに言われると、なんだか照れくさかった。


代わりに、青いルアーを取り出した。


光の角度によって、深い青にも、透き通った水色にも見えるルアー。


少女は、それを見ると、少しだけ表情を変えた。


「それ、今日も使うんだ」


「うん。なんか気に入った」


「……そっか」


「何?」


「ううん。なんでもない」


少女は水面に視線を戻した。


健二は、彼女が何かを知っているような気がした。


でも、聞かなかった。


聞けば、きっと教えてくれる。


そう思っていた。


そのころの健二は、まだ、聞かずにいられることが幸せなのだと知らなかった。


*


釣りを始めて三十分。


魚の気配は、まったくなかった。


健二がルアーを投げる。


水面に、小さな波紋が広がる。


巻き取る。


もう一度投げる。


また巻き取る。


それの繰り返しだった。


「ねえ、健二くん」


「ん?」


「釣りって、待つ時間が長いね」


「そういうもんだよ」


「何も起きない時間が、ずっと続くんだね」


「まあな」


「退屈じゃない?」


健二は考えた。


魚が釣れないのは、確かに退屈だ。


ゲームなら、ボタンを押せば何かが起こる。


テレビなら、チャンネルを変えれば違う番組が始まる。


でも、湖は違う。


投げても、投げても、何も起こらないことがある。


風が吹き、水が揺れ、雲が流れる。


それだけだ。


「……退屈なときもあるよ」


健二は正直に答えた。


「じゃあ、どうして続けるの?」


「いつか釣れるから」


「いつか?」


「うん。いつか」


少女は、その言葉を口の中で繰り返した。


「いつか、か」


「何だよ」


「ううん。いい言葉だなって」


健二は笑った。


「そんな大げさな」


「大げさじゃないよ」


少女は、まっすぐ湖を見ていた。


「いつかって言えるのは、すごいことだと思う」


その横顔には、さっきまでの笑顔がなかった。


健二は、何か言おうとした。


でも、何を言えばいいのかわからなかった。


だから、もう一度ルアーを投げた。


水面に、小さな波紋が生まれる。


波紋は広がり、やがて消えた。


少女は、それをずっと見つめていた。


*


「そうだ、ノート」


健二は思い出したように言った。


「昨日の続き、書いた?」


「……え?」


「歌詞。文化祭のやつ」


少女は、鞄を開けた。


「うん。少しだけ」


「見せてよ」


「いいけど……笑わない?」


「笑わないって」


「本当に?」


「本当」


少女はノートを開いた。


最初の数ページには、湖で見た景色や、釣りをした日のことが書かれている。


魚の大きさ。


天気。


風の向き。


その日の会話。


そして、ページの端には、小さな文字で日付が記されていた。


健二は、その日付を何気なく見た。


「……あれ?」


「どうしたの?」


「これ、昨日のページ?」


「うん」


「でも、日付……」


そこには、こう書かれていた。


2008年9月3日。


昨日の日付だった。


その次のページにも、同じ日付があった。


さらに、その次にも。


健二は、ページをめくった。


九月二日。


九月三日。


九月三日。


九月三日。


九月四日。


順番が、ところどころおかしい。


「なんだこれ」


少女の手が、ノートの上に重なった。


「……あ」


彼女は、少し困ったように笑った。


「間違えちゃった」


「何回も?」


「うん。たぶん」


「たぶんって……」


健二は、ノートを見直した。


字は、どれも少女のものだった。


日付以外の文章も、それぞれ違う。


湖の色。


風の音。


健二が釣り糸を絡ませたこと。


少女が笑いすぎて、しばらく何も話せなくなったこと。


書かれている内容は、確かに別々の日の出来事だった。


ただ、日付だけが、少しずつずれている。


「日記なんだから、ちゃんと書けよ」


健二は、冗談めかして言った。


「そうだね」


少女も笑った。


けれど、その笑顔は、どこかぎこちなかった。


「……ねえ、健二くん」


「ん?」


「もし、自分が間違ってるってわかったら、直したほうがいいと思う?」


「そりゃ、そうだろ」


「自分の記憶が間違ってるときも?」


「……どういう意味?」


少女は、答えなかった。


ノートを閉じ、両手でそっと押さえた。


「なんでもない」


「またそれかよ」


「ごめんね」


「謝らなくていいって」


健二は湖に視線を戻した。


何か事情があるのだろう。


でも、今は話したくないのかもしれない。


そう考えて、深く追及しなかった。


少女は、そんな健二を見ていた。


そして、小さな声で言った。


「……ありがとう」


「だから、何が?」


「聞かないでいてくれること」


健二には、その言葉がよくわからなかった。


けれど、彼女が本当にありがとうと思っていることだけは、伝わってきた。


*


午後五時を過ぎるころ、健二の竿が小さく揺れた。


「おっ!」


思わず声が出た。


竿先が、もう一度揺れる。


健二は慌ててリールを巻いた。


「来た、来た!」


「本当に?」


「たぶん!」


「たぶんって何?」


「魚かもしれないってこと!」


「それ、さっきまでと同じじゃん!」


少女が笑った。


健二は必死にリールを巻いた。


水面の向こうに、小さな魚影が見えた。


銀色の魚が、水しぶきを上げる。


「やった!」


健二は、魚を岸へ引き寄せた。


大きくはなかった。


けれど、今日はじめて釣れた魚だった。


少女は、立ち上がって拍手した。


「おめでとう!」


「やっと釣れた!」


「よかったね!」


ふたりは顔を見合わせて笑った。


健二は魚を傷つけないように針を外し、そっと水に戻した。


魚は一瞬だけ水面にとどまり、それから、湖の奥へ泳いでいった。


「……行っちゃったね」


少女が言った。


「うん」


「もう、会えないかな」


「魚なんだから、また会えるかもしれないだろ」


「同じ魚だって、わかる?」


「わかんないよ」


「じゃあ、会えたかどうかもわからないね」


健二は、少し考えた。


「……そうだな」


少女は、笑った。


「でも、いいね」


「何が?」


「さっきの魚。ちゃんと、ここにいたんだもん」


彼女は、水面を見つめていた。


「私たちが覚えてなくても、魚は泳いでいくんだね」


その言葉は、風に消えそうなくらい小さかった。


健二は、青いルアーを手のひらに乗せた。


「……また来ればいいよ」


少女が顔を上げた。


「え?」


「明日も来ればいいじゃん。そしたら、また何か釣れるかもしれないし」


少女は、健二を見つめた。


ほんの一瞬、何かを言いかけたようだった。


けれど、結局、彼女は笑った。


「うん」


そして、いつもの言葉を口にした。


「また、あした」


*


帰り際、少女は桟橋の入口で立ち止まった。


「健二くん」


「ん?」


「今日のこと、覚えててね」


「今日のこと?」


「魚が釣れたこと」


「そりゃ、覚えてるよ」


「ノートにも書くけど」


「じゃあ、いいじゃん」


「……うん」


少女は、鞄からノートを取り出した。


新しいページを開き、鉛筆を走らせる。


健二は、少し離れた場所で待っていた。


やがて、少女は書き終えた。


ノートを閉じる前に、彼女は日付を書いた。


2008年9月4日。


今日は、間違えなかった。


それなのに、少女は、その数字を見つめたまま、しばらく動かなかった。


「……ねえ、健二くん」


「今度は何だよ」


「もし明日、私が今日のことを忘れていたら」


彼女は、そこで言葉を切った。


「……ううん。なんでもない」


「おい、気になるだろ」


「ごめん」


少女はノートを鞄にしまった。


「明日、ちゃんと話すね」


「何を?」


「今日、話せなかったこと」


健二はうなずいた。


「わかった」


それだけだった。


それだけの約束だった。


けれど、少女は、その返事を聞くと、安心したように目を閉じた。


「……よかった」


「何がよかったんだよ」


「なんでもない」


彼女は笑った。


そして、手を振って帰っていった。


健二は、その背中が見えなくなるまで、桟橋に立っていた。


夕焼けの湖に、風が吹いていた。


水面には、いくつもの波紋が生まれては消えていく。


健二は、青いルアーを握りしめた。


そのとき、ふと思った。


少女のノートには、これまで何が書かれてきたのだろう。


自分が知らない、彼女の時間。


自分が知らない、彼女の記憶。


そして、自分が知らない、彼女の明日。


――明日、ちゃんと話すね。


健二は、その約束を信じていた。


明日になれば、彼女はきっと話してくれる。


そう思っていた。


湖の向こうで、最後の光が消えた。


その夜、少女のノートには、もう一行だけ、文字が増えた。


健二は知らない。


そのページに、どんな言葉が書かれていたのかを。


ただ、もし彼がその一行を読んでいたなら。


明日という言葉を、今までと同じようには信じられなかったかもしれない。


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