第四章・続編 歌にならなかった言葉
2008年9月3日 午後4時02分 音楽室
少女は、ノートを開いたまま、しばらく黙っていた。
黒板の前に立つ彼女を、音楽室にいた全員が見ている。
たった数人だった。
それなのに、彼女は大きな舞台の真ん中に立たされているような顔をしていた。
「……そんなに見ないでよ」
少女が言った。
「いや、だって、聞かせてくれるんだろ?」
「聞かせるけどさ」
「じゃあ、いいじゃん」
「よくないよ。読むのと、読まれるのって、ぜんぜん違うんだから」
その言葉に、健二は少しだけ驚いた。
湖で彼女がノートを書いているとき、健二は何度も横からのぞき込んでいた。
彼女は嫌がらなかった。
むしろ、ときどき書いた文章を見せてくれた。
だから、誰かに読んでもらうことも平気なのだと思っていた。
違ったのだ。
自分で書いた言葉を、自分の声で誰かに渡す。
それは、ノートを見せることとは違う。
文字なら、読み手が好きな速さで読める。
途中でやめることもできる。
わからなければ、もう一度読み直せる。
でも、声にしてしまった言葉は、いったん自分の外に出ていく。
聞いた人の中に、どんな形で残るのか。
自分では決められない。
「……じゃあ、最初だけね」
少女はそう言った。
そして、ノートに目を落とした。
*
「夕方の湖に、風が吹く」
少女は、最初の一行を読んだ。
「昨日のことを、覚えている?」
次の一行。
「昨日の空も、昨日の声も、昨日の約束も」
そこで、彼女は止まった。
「……どうした?」
誰かが聞いた。
「ううん。なんでもない」
少女は、続きを読もうとした。
けれど、ページをめくる指が動かなかった。
健二は、彼女の手元を見た。
ノートの端が、少しだけ折れていた。
何度も開いて、何度も読み返した跡だった。
「そこ、いいと思う」
健二は、気がつくと口を開いていた。
少女が顔を上げる。
「え?」
「昨日の空とか、声とか。そういうの」
「……ほんと?」
「うん」
「どうして?」
「どうしてって……」
健二は困った。
うまく説明できない。
ただ、湖で過ごした時間を思い出したのだ。
魚が釣れなかった日。
少女が初めて小さな魚を釣った日。
帰り際に、彼女が振り返って「また明日」と言った日。
どれも、大きな出来事ではない。
誰かに話したところで、きっと「それだけ?」と言われるようなことばかりだ。
それでも、健二は覚えていた。
水面に映った夕焼けも。
少女が笑ったときの声も。
魚が逃げてしまったあと、ふたりで顔を見合わせたことも。
「……覚えてるから」
健二は言った。
「昨日のこと、覚えてるから。だから、いいと思う」
少女は、何も言わなかった。
ただ、ノートの文字を見つめていた。
やがて、ほんの少しだけ口元が緩んだ。
「そっか」
それから、彼女は続きを読まなかった。
代わりに、ノートを閉じた。
「ごめん。やっぱり、今日はここまで」
「えー、ここまでかよ」
「ごめんね」
「いや、謝ることじゃないけどさ」
周りの生徒たちは、少し残念そうだった。
それでも、無理に続きを求める者はいなかった。
少女はノートを鞄にしまった。
そして、健二の隣に戻ってきた。
「ありがとう」
「何が?」
「さっきの」
「覚えてるってやつ?」
「うん」
「別に、ほんとのことだし」
少女は、窓の外を見た。
校庭では、文化祭の看板を運んでいる生徒たちがいた。
夕方の光が、グラウンドの隅に長い影を作っている。
「……ねえ」
「ん?」
「もし、昨日のことを忘れちゃったら、どうする?」
健二は、彼女を見た。
「急になんだよ」
「ちょっと、聞いてみたかっただけ」
「忘れたら、思い出せばいいじゃん」
「思い出せなかったら?」
「……ノートに書いとけば?」
少女は、少しだけ笑った。
「そっか。ノートに書いとけばいいんだ」
「お前、いつも書いてるじゃん」
「そうだね」
彼女は鞄を抱きしめた。
「でもね、健二」
「なに?」
「書いたことと、覚えていることって、同じじゃないんだよ」
健二は返事をしなかった。
よくわからなかったからだ。
ノートに書いてあるなら、忘れたって読み返せばいい。
そうすれば、何があったのかはわかる。
それで十分じゃないのか。
当時の健二には、それ以上のことを考えられなかった。
少女は、そんな健二の顔を見て、困ったように笑った。
「……今は、わからなくてもいいよ」
*
文化祭の演奏曲を決める話し合いは、結局、夕方まで続いた。
明るい曲を最後にするか。
みんなが知っている曲にするか。
それとも、少し静かな曲を選ぶか。
意見はまとまらなかった。
「最後にオリジナル曲をやるのはどう?」
誰かが言った。
少女が、ぴくりと顔を上げた。
「オリジナル?」
「うん。自分たちで作った曲なら、文化祭っぽいじゃん」
「作れる人、いるの?」
「それを今から考えるんだよ」
笑い声が起きた。
けれど、少女は笑わなかった。
鞄の中にしまったノートを、そっと押さえていた。
「……歌詞なら」
彼女が、小さな声で言った。
「歌詞なら、あるよ」
音楽室が静かになった。
「さっきの?」
少女はうなずいた。
「まだ、途中だけど」
「曲は?」
「ない」
「じゃあ、誰かに作ってもらえばいいじゃん」
「でも……」
「いいんじゃない? 文化祭まで、まだ時間あるし」
少女は、すぐには答えなかった。
健二には、彼女が何を迷っているのかわからなかった。
歌を作りたいと言っていた。
歌詞も書いている。
それなら、みんなに手伝ってもらえばいい。
何も難しいことはないように思えた。
けれど、少女にとっては違った。
彼女が恐れていたのは、歌が完成しないことだけではなかった。
完成してしまったあとに、何が起こるのか。
それを、彼女はまだ誰にも話せなかった。
「……少し、考えさせて」
少女は言った。
「もちろん」
伴奏を練習していた男子生徒が、ピアノの椅子から立ち上がった。
「俺、簡単な曲なら作れるかもしれない。歌詞、今度見せてくれる?」
「……うん」
「じゃあ、決まり。文化祭の候補ってことで」
誰かが黒板に、仮の曲名を書こうとした。
「タイトルは?」
少女は、口を開きかけた。
けれど、声が出なかった。
彼女の頭の中には、ひとつの言葉があった。
何度もノートに書いて、何度も消して、それでも最後に残してきた言葉。
それを口にすれば、歌は本当に始まってしまう気がした。
だから彼女は、別の言葉を選んだ。
「……まだ、ないよ」
黒板には、仮に『文化祭オリジナル曲』と書かれた。
その文字を見て、健二は思った。
いつか、ちゃんとしたタイトルがつくのだろう。
その歌には曲がついて、みんなで練習して、文化祭の日に演奏する。
きっと、そうなる。
そのときの健二は、まだ知らなかった。
その歌が、最後まで歌われることのない歌になるかもしれないなんて。
*
帰り道、健二と少女は一緒になった。
校門を出ると、空は薄い橙色に染まっていた。
夏の終わりの風が、制服の袖を揺らしている。
「びっくりしたよ」
健二が言った。
「何が?」
「お前が音楽室にいるなんて」
「私だって、学校に来るよ」
「いや、それはわかってるけど」
「じゃあ、どういう意味?」
「……なんか、湖にいるイメージだったから」
少女は、しばらく黙った。
それから、笑った。
「なにそれ。私、魚じゃないんだけど」
「知ってるよ」
「湖にしかいない人みたいに言わないでよ」
「そんなつもりじゃないって」
「ふふっ」
彼女の笑い声が、夕方の道に響いた。
健二は、その声を聞いて、なぜだか安心した。
学校で会っても、湖で会っても、彼女は彼女だった。
当たり前のことなのに、それが少しうれしかった。
「……ねえ、健二」
「今度は何?」
「文化祭、来る?」
「そりゃ、学校の文化祭だし」
「そうじゃなくて」
少女は歩く速度を落とした。
「私が歌うかもしれないんだよ」
健二は、彼女を見た。
「……歌うの?」
「まだ、決まってないけどね」
「歌えばいいじゃん」
「簡単に言うなあ」
「だって、歌詞を書いたんだろ?」
「うん」
「だったら、聞いてみたいよ」
少女は、足を止めた。
健二も止まった。
ふたりの前を、自転車に乗った生徒が通り過ぎていった。
遠くで、踏切の警報音が聞こえた。
「……聞きたい?」
少女が聞いた。
「うん」
「途中まででも?」
「いいよ」
「最後まで歌えなくても?」
健二は、少し考えた。
「……最後まで歌えるように、練習すればいいじゃん」
少女は笑わなかった。
その代わり、健二の顔をじっと見た。
まるで、彼が言った言葉を、ひとつずつ確かめているようだった。
「そっか」
やがて彼女は、小さくうなずいた。
「じゃあ、約束ね」
「何の?」
「文化祭の日。私が歌ったら、ちゃんと聞いてて」
「わかった」
「途中で帰っちゃだめだよ」
「帰らないって」
「ほかのところを見に行くのもだめ」
「わかったってば」
「……絶対?」
健二は、少し笑った。
「絶対」
少女は、ようやく笑った。
「じゃあ、約束」
彼女は小指を差し出した。
健二は一瞬だけ戸惑ったあと、自分の小指を絡めた。
子どもみたいな約束だった。
けれど、そのときのふたりにとっては、十分に大切な約束だった。
指を離したあと、少女は空を見上げた。
「……文化祭、晴れるといいね」
「まだ先だろ」
「うん。でも、晴れてほしいな」
「雨だったら?」
「雨でも歌うよ」
「じゃあ、いいじゃん」
「……そうだね」
彼女は、そう言った。
それから、ほんの少しだけ声を落とした。
「雨でも、歌えたらいいな」
健二には、その言葉の意味がわからなかった。
ただ、彼女が文化祭を楽しみにしているのだと思った。
だから、何も聞かなかった。
聞いておけばよかったと、いつか思うことになるのに。
*
その夜、健二は机に向かっていた。
宿題を終わらせようとしていたのだが、どうにも集中できなかった。
頭の中に、少女の歌詞が残っている。
夕方の湖に、風が吹く。
昨日のことを、覚えている?
それだけの言葉なのに、何度も思い出してしまう。
健二は、机の端に置いていた青いルアーを手に取った。
金属の表面には、小さな傷がいくつもついていた。
光の当たり方によって、青が濃くなったり、薄くなったりする。
刻まれた文字を、指先でなぞる。
――また、あした。
「……変なの」
健二はつぶやいた。
どうして、こんな言葉をルアーに刻んだのだろう。
釣具屋の老人は、詳しく教えてくれなかった。
ただ、いつか誰かに渡してほしいと言っただけだ。
少女の歌にも、同じ言葉があった。
偶然だろうか。
それとも、どこかでつながっているのだろうか。
健二は、ルアーを机に戻した。
そして、明日のことを考えた。
明日も、湖に行こう。
少女が来るかどうかはわからない。
でも、約束したわけではなくても、行ってみようと思った。
魚が釣れなくてもいい。
何も起こらなくてもいい。
ただ、今日の続きを過ごしたかった。
明日も、その次の日も。
そんな日々が、ずっと続くような気がしていた。
窓の外では、夜風がカーテンを揺らしていた。
机の上の青いルアーが、街灯の光を受けて、かすかに輝いた。
その文字を、健二はもう一度見た。
――また、あした。
その約束が、どれほど遠い未来まで届く言葉なのか。
このときの健二は、まだ知らなかった。




