第四章 あの日、音楽室に風が吹いた
2008年9月3日 — 午後3時46分。
その日、健二は放課後の音楽室にいた。
別に、音楽が得意だったわけではない。
歌がうまいわけでも、楽器が弾けるわけでもなかった。
ただ、文化祭の準備を手伝うことになったのだ。
教室の後ろに貼るポスターを運んだり、机を並べたり、使い終わった段ボールを片づけたり。
そういう仕事なら、健二にもできた。
音楽室の扉を開けると、ピアノの音がした。
誰かが、同じフレーズを何度も弾いている。
間違えて、止まる。
最初から弾き直す。
また、止まる。
窓の外では、運動部の掛け声が聞こえていた。
廊下には、文化祭の看板を作る生徒たちの声が響いている。
学校全体が、いつもより少しだけ浮き足立っていた。
健二は、抱えていた段ボールを壁際に置いた。
「……何やってんの?」
ピアノの前にいた男子生徒が、振り返った。
「文化祭の曲。伴奏の練習」
「同じところばっかりじゃん」
「そこが弾けないんだよ!」
「大変だな」
「お前、手伝いに来たんじゃないのかよ」
「来たよ。段ボール運んできた」
「じゃあ、そこの譜面台、並べてくれ」
健二は、言われたとおりに譜面台を運び始めた。
窓から風が入ってきた。
机の上に置かれていた楽譜が、一枚だけ床に落ちた。
拾おうとしたとき、健二は、その紙に書かれた文字を見た。
音符の隙間に、鉛筆で小さな書き込みがある。
歌詞だった。
印刷された楽譜のものではない。
誰かが、自分で書き足したらしい。
健二は、なぜかその言葉が気になった。
けれど、読む前に、別の生徒が声をかけてきた。
「それ、こっちに置いといて!」
「あ、うん」
健二は楽譜を譜面台に戻した。
そのときは、それだけだった。
まさか、あの何気ない午後が、あとになって何度も思い出すことになるとは、考えもしなかった。
*
午後四時を過ぎるころ、音楽室には数人の生徒が集まっていた。
文化祭で演奏する曲を決めているらしい。
明るいポップス。
誰もが知っている合唱曲。
少し古い映画の主題歌。
黒板には曲名がいくつも書かれ、消された跡が白く残っていた。
「最後の一曲、どうする?」
「盛り上がるやつがいいよな」
「みんなで歌えるやつ」
「じゃあ、これでよくない?」
意見が飛び交う。
健二は、壁際の椅子に座って聞いていた。
音楽のことはよくわからない。
だから、口を挟むつもりもなかった。
そのとき、音楽室の扉が開いた。
入ってきたのは、少女だった。
健二は、思わず顔を上げた。
「……あれ?」
少女も、健二に気づいた。
一瞬だけ驚いた顔をして、それから、いつもの笑顔になった。
「こんにちは」
「……なんで、ここに?」
「それ、私が聞きたいよ」
「いや、だって……」
健二は言葉に詰まった。
湖で会う少女が、学校の音楽室にいる。
考えてみれば、学校に通っているのなら、ここにいても不思議ではない。
それなのに、健二は、彼女が湖以外の場所にいる姿を想像していなかった。
湖の桟橋。
釣り竿。
ノート。
自分の中で、彼女の姿はその三つと結びついていた。
少女は、健二の隣まで歩いてきた。
「何してるの?」
「文化祭の手伝い」
「へえ」
「そっちは?」
「……ちょっと、用事」
彼女はそう言って、黒板の前に立った。
そこにいた生徒のひとりが、声をかける。
「来てくれたんだ。ちょうどよかった」
「うん」
「この前の話、考えてくれた?」
少女は、小さくうなずいた。
「まだ、途中だけど」
「途中でもいいから、聞かせてよ」
健二は、ふたりの会話を聞いていた。
何の話なのか、わからない。
少女は鞄からノートを取り出した。
湖で見せてくれた、あのノートだった。
ただし、今日は釣りのページではなく、もっと後ろのページを開いていた。
彼女は、そこに書かれた言葉を見つめた。
そして、静かに言った。
「……歌詞を書いてきたの」
音楽室が、少しだけ静かになった。
健二は、少女の横顔を見た。
あの湖で、彼女は言っていた。
歌を作ってみたい、と。
まだ完成していない、と。
最後の言葉だけは決まっている、と。
その歌を、いま、ここで誰かに見せようとしている。
健二は、知らないうちに背筋を伸ばしていた。
「曲は、まだないんだけどね」
少女は、少し照れたように笑った。
「だから、歌詞だけ」
「いいよ。読んでみて」
誰かが言った。
少女は、ノートを持ち直した。
そして、一行目を読み始めた。
その声は、思っていたよりも小さかった。
けれど、音楽室の窓から吹き込む風が、その言葉を誰にも届かない場所へ運んでしまうことはなかった。
健二は、じっと耳を傾けた。
少女の声が、ひとつの言葉を読み上げる。
それは、いつか完成する歌の、まだ誰も知らない始まりだった。




