第三章 ノートの中の、まだ知らない歌
健二は、学校の帰り道をいつもより少しだけ急いでいた。
理由は、昨日と同じだった。
湖に行けば、あの少女に会えるかもしれない。
いや、昨日も会えたのだから、今日も来ている可能性は高い。
……高いはずだ。
そう考えながら、健二は通学鞄を肩にかけ直した。
学校の授業は、長かった。
夏休み明けの先生たちは、まるで生徒たちが一か月間、勉強というものを完全に忘れていたとでも思っているかのようだった。
国語では教科書の音読。
数学では、夏休みの宿題の答え合わせ。
社会では、先生が黒板いっぱいに書いた年号をノートに写す。
健二は授業中、何度も時計を見た。
午後四時十八分。
ようやく校門を出たとき、空には薄い雲が広がっていた。
風が吹くたびに、街路樹の葉が裏返る。
夏はまだ終わっていない。
けれど、真夏の勢いだけは、少しずつ失われ始めていた。
健二は走るのをやめ、歩きながら考えた。
少女は、今日もノートを持ってくるだろうか。
昨日、彼女は釣りのことを書いていた。
魚が一匹釣れたこと。
健二が教えてくれたこと。
魚が逃げていったこと。
そんなことを書いて、何が楽しいのだろう。
健二には、よくわからなかった。
でも、あのノートには、ほかにも何かが書かれているような気がした。
彼女が紙を押さえたとき、一瞬だけ見えた文字。
それは、普通の日記とは少し違う並び方をしていた。
短い言葉が、何行にも分かれていた。
まるで、歌の歌詞のように。
*
桟橋に着くと、少女はいた。
昨日と同じ場所。
昨日と同じように、膝の上にノートを置いている。
ただ、今日は釣り竿を持っていなかった。
「おーい」
健二が声をかけると、少女は顔を上げた。
「おかえり」
「……ただいま?」
思わず、健二はそう答えてしまった。
少女は笑った。
「なんか、変だった?」
「いや、別に」
健二は隣に腰を下ろした。
湖面には、細かな波が立っていた。
遠くを小さな船が通り過ぎる。
船のエンジン音は、すぐに風の向こうへ消えた。
「今日は釣りしないの?」
健二が尋ねると、少女はノートを閉じた。
「今日は、ちょっと書きたいことがあって」
「日記?」
「うーん。日記みたいなものかな」
「昨日も書いてたじゃん」
「うん」
「毎日書いてるの?」
少女は、少しだけ考えた。
「書ける日はね」
「書けない日もあるの?」
「あるよ」
彼女は湖を見た。
「書きたいことがあっても、言葉にならない日があるから」
健二は、なんとなくノートを見た。
「……何を書いてるんだよ」
「秘密」
「また秘密かよ」
「秘密が二つになったね」
「増やすなよ!」
少女は声を立てて笑った。
その笑い方が、昨日より少し自然になっていた。
健二は、それがうれしかった。
誰かと仲良くなるというのは、たぶん、こういうことなのだろう。
昨日よりも今日のほうが、少しだけ冗談を言いやすくなる。
相手が笑うタイミングがわかってくる。
何も話さなくても、隣に座っていられるようになる。
それは、何か大きな出来事が起こることとは違う。
けれど、小さな変化が積み重なることで、昨日まで他人だった相手が、いつの間にか自分の一日の一部になっていく。
健二は、そんなことを考えながら、石を拾って湖へ投げた。
ぽちゃん。
小さな波紋が広がった。
「ねえ、健二くん」
「ん?」
「歌って、好き?」
「歌?」
「うん」
「まあ、普通かな」
「どんな歌が好き?」
「ゲームの音楽とか」
「ゲーム?」
「そう。ゲームの最後に流れる曲とか、冒険してるときの曲とか」
少女は、興味深そうに聞いていた。
「最後の曲って、どんな感じ?」
「ゲームによるよ。明るいのもあるし、悲しいのもあるし……」
健二は、少し考えた。
「でも、いいゲームの音楽って、終わったあとも頭に残るんだよな」
「どうしてだと思う?」
「さあ。何回も聞いたからじゃない?」
「それだけかな」
少女はノートの表紙を指でなぞった。
「私はね、歌って、時間をしまっておく箱みたいなものだと思うんだ」
「箱?」
「うん」
彼女は、ゆっくり言葉を選んだ。
「そのときに聞いていた歌を、何年もあとに聞くと、そのときのことを思い出すでしょう?」
「……まあ、あるね」
「景色とか、匂いとか、一緒にいた人とか。忘れていたことまで、急に思い出したりする」
健二は黙っていた。
そういうことは、確かにあった。
昔遊んだゲームの音楽を聞くと、当時使っていたテレビや、部屋の明かりや、ゲーム機のコントローラーの感触まで思い出すことがある。
もう戻れない時間なのに、音楽を聞いている間だけ、そこへ戻れたような気がする。
「だから、私は歌を作ってみたいんだ」
少女は言った。
「誰かが、ずっとあとになって聞いても、そのときのことを思い出せるような歌」
「……作曲できるの?」
「ううん。全然」
「じゃあ、どうやって作るんだよ」
「それを、今考えてるところ」
少女は笑った。
「歌詞だけは、少し書いてるんだけどね」
健二の目が、ノートに向いた。
少女も、その視線に気づいた。
「……見たい?」
「えっ」
「歌詞」
健二は少し迷った。
秘密だと言っていたものを、見せてもらっていいのだろうか。
それに、誰かが一生懸命書いたものを読んで、何も感じなかったらどうしよう。
変な感想を言って、傷つけてしまったら。
そう考えると、軽々しく見せてとは言えなかった。
けれど少女は、ノートを開いた。
「まだ途中だからね。笑わないでよ」
「……笑わないよ」
彼女は、数ページめくった。
鉛筆で書かれた文字が並んでいる。
何度も書き直した跡があった。
消しゴムで消した部分が薄く汚れ、行の途中で言葉が途切れているところもある。
その中に、健二は一つの言葉を見つけた。
――また、あした。
昨日、釣具屋の老人が青いルアーに刻んだ言葉と、同じだった。
「……これ」
健二は思わず指を伸ばしかけ、途中で止めた。
「この言葉、どういう意味?」
少女は、ノートを見つめた。
すぐには答えなかった。
湖の向こうで、風が強くなった。
水面の波が、少しずつ大きくなる。
「……まだ、わからない」
少女は言った。
「でも、最後には、この言葉を書きたいんだ」
「歌の最後に?」
「うん」
「なんで?」
少女は、困ったように笑った。
「ちゃんと終わる歌にしたいから」
健二は、首をかしげた。
「最後の言葉が決まってるのに、まだ終わってないの?」
「うん。最後が決まっていても、そこへ行くまでの言葉が見つからないことってあるんだよ」
彼女は、鉛筆を手に取った。
「それに……」
「それに?」
少女は、ノートを閉じた。
「最後まで書いてしまったら、本当に終わっちゃうような気がするから」
健二には、その気持ちがよくわからなかった。
歌は、完成したほうがいい。
最後まで書けたほうが、うれしいに決まっている。
そう思った。
けれど、少女の表情を見ていると、簡単にそう言うことはできなかった。
彼女は、完成させたいと思っている。
同時に、完成させることを、少しだけ怖がっている。
その二つの気持ちが、同じ顔の中にあった。
「……変なの」
健二は、いつもの言葉を口にした。
少女は笑った。
「うん。変だね」
それから、彼女はノートを鞄にしまった。
「でも、いつか完成させるよ」
健二は湖を見た。
水面には、さっき投げた石の波紋が、もう残っていなかった。
「……完成したら、聞かせてよ」
何気なく言った言葉だった。
深い意味はなかった。
完成したら聞きたい。
それだけだった。
少女は、顔を上げた。
「ほんとう?」
「うん」
「絶対?」
「……できるだけ」
健二がそう答えると、少女はうれしそうに笑った。
「じゃあ、約束ね」
健二は、うなずいた。
「約束」
その言葉を、青いルアーと一緒に、胸の奥へしまった。
いつか、歌が完成する。
いつか、彼女が聞かせてくれる。
そのときは、どんな曲なのだろう。
明るい曲だろうか。
悲しい曲だろうか。
ゲームの最後に流れるような、少し寂しくて、それでも希望の残る曲だろうか。
健二は、まだ何も知らなかった。
歌詞の続きを知らなかった。
少女が、なぜ「また、あした」という言葉にこだわるのかも知らなかった。
そして、その約束が、いつか自分にとって、歌を聞くこと以上の意味を持つようになることも。
ただ、完成した歌を聞くのが楽しみだった。
*
日が傾き始めたころ、少女はふと思い出したように言った。
「ねえ、健二くん」
「ん?」
「もし、ずっと忘れたくないことがあったら、どうする?」
健二は、釣り糸を巻きながら答えた。
「忘れなきゃいいんじゃない?」
「……簡単だね」
「だって、忘れたくないんだろ?」
少女は、何も言わなかった。
健二は、少しだけ得意になった。
自分でも、なかなかいい答えだったと思った。
けれど、少女は笑わなかった。
ただ、湖の向こうを見つめていた。
「忘れたくなくても、忘れちゃうことってあるんだよ」
その声は、風に消えそうなほど小さかった。
「大切だったことも、毎日考えていたことも。いつか、少しずつ遠くなっていく」
健二は、返事をしなかった。
何と言えばいいのか、わからなかったからだ。
少女は、すぐにいつもの表情に戻った。
「……ごめんね。変な話ばっかり」
「別に」
「今日は、釣りもしなかったし」
「昨日も、ほとんど釣れてないけどな」
「一匹釣れたよ」
「小さかったじゃん」
「でも、一匹も、だよ」
少女は、昨日と同じ言葉を繰り返した。
健二は笑った。
「……そうだな」
ふたりは、桟橋から立ち上がった。
帰り道は、昨日と同じだった。
けれど、昨日とは少し違っていた。
昨日は、知らない少女と出会った日だった。
今日は、その少女が作っている歌を知った日だった。
ほんの少しだけ、彼女のことを知った。
ほんの少しだけ、彼女の知らない部分が増えた。
人を知るというのは、不思議なことだ。
何かを知るたびに、その人のことがわかったような気がする。
けれど、知れば知るほど、まだ知らないことがあると気づく。
健二は、その帰り道で初めて、少女の歌が完成する日を想像した。
そして、いつかその歌を聞いたら、きっと今日のことを思い出すのだろうと思った。
湖の風。
ノートの鉛筆の跡。
魚が一匹も釣れなかったこと。
少女が「最後まで書いてしまったら、本当に終わっちゃうような気がする」と言ったときの、少し困ったような笑顔。
そのすべてが、歌の中に残るのかもしれない。
そう思うと、なんだか楽しみだった。
明日も、会える。
明日も、話せる。
歌の続きを、少しずつ聞ける。
その当たり前のような未来を、健二は疑わなかった。
青いルアーは、ポケットの中で静かに揺れていた。
刻まれた言葉は、まだ何も変わっていない。
けれど、その言葉が結ぶ約束は、少しずつ増えていた。
また、あした。
そして、また、その次の日も。




