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第二章 魚が釣れない日の約束


2008年9月1日 — 夏休みが終わった、その翌朝。


目覚まし時計が鳴る五分前に、健二は目を覚ました。


理由はわかっていた。


今日は、湖へ行く約束をしたからだ。


学校がある。宿題も残っている。昨日の夜、母親には「明日からちゃんとしなさい」と念を押された。


それでも、健二の頭の中には、昨日の少女の顔が浮かんでいた。


――じゃあ、私も来る。


あのとき、彼女は確かにそう言った。


けれど、名前も知らない。


何年生なのかも知らない。


この町の子なのかどうかさえ、わからない。


そもそも、明日も来るという約束を、本当に覚えているのだろうか。


「……来なかったら、どうすんだよ」


布団の中でつぶやいた。


返事はない。


枕元の時計は、午前六時十二分を示していた。


健二は起き上がり、窓を開けた。


朝の空気が入ってくる。


夏の終わりの風は、昨日よりほんの少しだけ冷たかった。


それでも、空はよく晴れていた。


「……よし」


健二は釣り竿を手に取った。


今日は、絶対に一匹釣ってやる。


少女に自慢するためではない。


いや、ほんの少しは、そうかもしれない。


けれど、本当の理由は別にあった。


昨日、彼女と交わした約束を、ただの偶然で終わらせたくなかったのだ。


*


潮見湖に着いたのは、午前七時を少し回ったころだった。


湖面には朝靄が残っていた。


岸辺の草には露がつき、蜘蛛の巣には小さな水滴が並んでいた。遠くで鳥が鳴いている。水面を割る小さな音がして、魚が跳ねた。


健二は桟橋へ向かった。


少女は、まだ来ていなかった。


「……まあ、そりゃそうか」


自分に言い聞かせるようにつぶやき、釣り道具を置いた。


約束したのは明日も来る、ということだけだ。


朝七時に来るとは言っていない。


健二は自分の早起きを、少しだけ後悔した。


それでも帰る気にはなれなかった。


青いルアーを取り出す。


腹に刻まれた文字を指でなぞった。


また、あした。


「……今日なんだけどな」


思わず笑ってしまった。


健二は糸を結び、湖へ向かって第一投を放った。


ルアーが水面に落ちる。


小さな水音。


糸が伸び、リールが回る。


健二は、ゆっくり巻き始めた。


一投目。


何も起きない。


二投目。


何も起きない。


三投目。


ルアーが水草に引っかかった。


「うわっ、ちょっと待て! おい、初日からそれはないだろ!」


竿を慎重に動かす。


糸を少し緩めて、もう一度引く。


なんとか外れた。


「……危なかった」


健二は胸をなで下ろした。


釣りというのは、魚が釣れない時間のほうが長い。


頭ではわかっている。


それでも、何も起きない時間が続くと、少しずつ落ち着かなくなる。


自分のやり方が間違っているのか。


魚がいないのか。


ルアーを変えるべきなのか。


考え始めると、きりがない。


けれど、その日は不思議と、退屈ではなかった。


待っている相手がいたからだ。


魚ではない。


少女だった。


午前七時三十分。


まだ来ない。


午前七時四十五分。


まだ来ない。


健二はとうとう、桟橋の入口まで戻ってきた。


「……やっぱり、来ないか」


そう言った瞬間だった。


「おはよう」


背後から声がした。


健二は、驚いて振り返った。


少女が立っていた。


昨日と同じ白いシャツに、紺色のスカート。


今日は、髪を小さな青いピンで留めていた。


肩には鞄をかけている。


少し息が上がっていた。


「ごめん。遅くなっちゃった」


健二は、返事をしようとして、なぜか言葉に詰まった。


来た。


本当に来た。


たったそれだけのことなのに、胸の奥がふっと軽くなった。


「……いや。別に」


「待った?」


「待ってない」


「ほんとう?」


「……ちょっとだけ」


少女は笑った。


「そっか。じゃあ、ちょっとだけ待たせちゃったね」


健二は、なんだか悔しくなった。


「お前、名前は?」


少女は一瞬、きょとんとした。


それから、思い出したように言った。


「そういえば、まだ言ってなかったね」


彼女は湖を振り返った。


「名前って、いつ教えるのが正解なんだろうね」


「普通、最初じゃない?」


「そっか。じゃあ、失敗しちゃった」


「失敗って……」


少女は、いたずらっぽく笑った。


「もう少しだけ、秘密にしておいてもいい?」


健二は呆れた。


「なんだよ、それ」


「だめ?」


そう言われると、強くは言えなかった。


「……別に、いいけど」


「ありがとう」


少女は、桟橋の上に鞄を置いた。


そして、健二の釣り道具を見た。


「ねえ。それ、釣り?」


「見ればわかるだろ」


「うん。そうなんだけど」


彼女は、少しだけ身を乗り出した。


「私も、やってみたい」


健二は目を丸くした。


「釣りを?」


「うん」


「やったことないの?」


「ないよ」


「……魚、触れる?」


「たぶん」


「たぶんってなんだよ」


少女は笑った。


「だって、触ったことないんだもん」


健二はため息をついた。


けれど、嫌ではなかった。


むしろ、少しうれしかった。


「じゃあ、教えてやるよ」


「ほんとう?」


「ただし、魚が釣れるとは限らないからな」


「うん。知ってる」


少女は、湖を見た。


「釣れなくても、いいよ」


その言い方が、健二には少し不思議だった。


普通なら、魚を釣りたいから釣りをする。


釣れなくてもいいなら、どうして釣りをしたいのだろう。


けれど、健二は尋ねなかった。


いつか、わかるかもしれないと思ったからだ。


*


最初の一時間、魚は一匹も釣れなかった。


少女はキャスティングに失敗し、ルアーを手前の水草へ飛ばした。


健二は糸をほどきながら、何度も説明した。


「もっと力を抜いて。腕だけで投げようとすると、変な方向に飛ぶんだよ」


「こう?」


「違う違う! そっちは後ろ!」


「えっ、あっ!」


ルアーが、健二の足元に落ちた。


ふたりは顔を見合わせた。


そして、同時に笑い出した。


「……お前、ほんとに初めてなんだな」


「だから、そう言ってるじゃない」


「いや、ここまでとは思わなかった」


「ひどいなあ」


少女は頬を膨らませた。


けれど、すぐに笑った。


その笑顔を見て、健二は思った。


この子といると、変な感じがする。


ずっと前から知っていたような気もするし、今日初めて会ったばかりのような気もする。


言葉が途切れても、気まずくない。


何かを話さなければと焦る必要もない。


ただ、同じ湖を見ているだけで、時間が過ぎていく。


それは、健二にとって初めての感覚だった。


昼近くになって、少女のルアーに小さな魚が食いついた。


「えっ、えっ、なにこれ!」


「魚だよ! 巻いて、巻いて!」


「どうやって!?」


「リール! そこのリール!」


「これ!?」


「そう、それ!」


少女は夢中になって糸を巻いた。


水面が跳ねる。


銀色の魚体が、朝の光を反射した。


やがて、小さな魚が岸辺に上がった。


少女は、息を止めたように魚を見つめた。


「……釣れた」


その声は、驚くほど静かだった。


「釣れたね」


健二が言った。


少女は、魚に触れようとして、手を止めた。


「……ちょっと、こわい」


「無理しなくていいよ」


「でも、せっかくだから」


彼女は、そっと指先を伸ばした。


魚が、ぴちっと跳ねた。


「ひゃっ!」


少女は飛び上がった。


健二は吹き出した。


「笑わないでよ!」


「ごめん、ごめん!」


ふたりの笑い声が、湖の上に広がった。


そのあと、健二は魚を水へ戻した。


魚は一瞬だけ水面にとどまり、やがて青い影になって泳ぎ去った。


少女は、その姿をいつまでも見つめていた。


「……帰っちゃったね」


「うん」


「また、会えるかな」


健二は、少し考えた。


「同じ湖にいるんだから、会えるんじゃない?」


少女は、ほほえんだ。


「そっか」


それから、小さな声でつぶやいた。


「……そうだといいな」


健二は、その言葉の意味を聞かなかった。


ただ、次に来たときは、もっと大きな魚を釣らせてやろうと思った。


その約束もまた、口に出さないまま、胸の中にしまった。


*


帰り際、少女はノートを開いた。


健二が尋ねた。


「何書いてるんだ?」


「今日のこと」


「釣りの?」


「うん」


「魚、一匹釣れただけだぞ」


「一匹も、だよ」


少女は、鉛筆を動かしながら言った。


「初めて釣りをしたこと。健二くんが、教えてくれたこと。魚が逃げていったこと」


「……俺の名前、知ってたの?」


少女の鉛筆が止まった。


ほんの一瞬。


それから、彼女は笑った。


「昨日、誰かが呼んでたのを聞いたんだよ」


「……そうだっけ?」


「そうだよ」


少女はノートを閉じた。


「ねえ、健二くん」


「ん?」


「明日も、来る?」


健二は、釣り竿を肩にかけ直した。


「学校が終わったら、たぶん」


「たぶん?」


「絶対って言うと、嘘になるから」


少女は、その答えを聞いて、少しだけ安心したように見えた。


「うん。それでいいよ」


そして、昨日と同じように言った。


「じゃあ、また明日」


健二は手を振った。


「また明日」


少女は、桟橋の向こうへ歩いていった。


健二は、その後ろ姿を見送った。


ポケットの中で、青いルアーが小さく揺れた。


また、あした。


その言葉は、昨日より少しだけ、重くなっていた。


けれど、まだ。


まだ、その重さの意味を知らなくてもよかった。


明日は、きっと来る。


明日も、きっと会える。


そう信じられる時間が、確かにそこにあったのだから。


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