第一章 明日が来ることを、疑わなかった
二〇〇八年八月三十一日。午後三時十七分。
夏休み最後の日というものは、どうしてあんなにも、世界全体が少しだけ寂しそうに見えるのだろう。
明日から学校が始まるから、というだけではない。
宿題が残っているとか、朝早く起きなければならないとか、そういう現実的な理由はもちろんあった。実際、健二の部屋の机には、最後の数ページが真っ白なままの読書感想文が置かれていたし、数学の問題集には、途中まで解いた計算式が鉛筆で雑に書き散らされていた。
けれど、それらは本当の理由ではなかった。
夏休みが終わるということは、夏休みが終わる前の自分には、もう二度と戻れないということだった。
昨日までは、明日も休みだった。
明日も湖に行ける。明日も昼まで寝ていられる。明日も、特別なことが起こらなくても、それだけで一日を無駄にしたことにはならない。
ところが、明日からは違う。
時間割があり、宿題があり、決められた席があり、決められた時間に帰らなければならない。
大人になった今なら、そんなものは人生のほんの一部だと笑えるかもしれない。
けれど、あの頃の健二にとって、夏休みの最後の日は、世界のどこかにあった小さな扉が、ゆっくり閉じていく日だった。
そして、その扉が閉じる直前に。
健二は、まだ知らない少女に出会った。
*
潮見町は、海と山のあいだに挟まれた、小さな町だった。
駅前には昔ながらの商店街があり、八百屋の軒先には段ボール箱に入ったスイカが並んでいた。午後になると、魚屋の前には水をまいた跡ができ、道路の端に集まった水たまりが、雲の切れ間から落ちる光を反射した。
大きなショッピングモールもなければ、最新のゲーム機を何台も試せる店もない。
町にある娯楽といえば、古いゲームセンターと、レンタルビデオ店と、図書館と、そして湖だった。
健二は、その湖が好きだった。
釣りをしている間は、何も説明しなくてよかったからだ。
魚が釣れなければ、釣れなかった。
風が強ければ、糸が流された。
水面に波紋が広がれば、その向こうに何かがいるのかもしれないと思った。
人間同士の会話みたいに、言葉の裏を読んだり、相手が何を期待しているのか考えたりする必要はなかった。
魚が食いつくかどうかは、最後まで魚の自由だった。
それが、健二には心地よかった。
「……今日は、釣れる気がするんだけどなあ」
誰に聞かせるでもなく、健二はつぶやいた。
返事をしたのは、岸辺の草むらから飛び出したバッタだった。
足元でぴょんと跳ね、石の隙間へ消えていく。
「お前じゃないんだよ」
健二は笑った。
その笑い声が、湖の上を少しだけ滑っていった。
夏の午後。
遠くの山には、白い雲が積み重なっていた。
水面は青というより、空の色を薄めて溶かしたような色をしていた。岸辺の浅いところでは、小さな魚が群れになって泳ぎ、時折、水面に銀色の背中を見せた。
健二は釣り竿を肩にかけ直し、いつもの釣具屋へ向かった。
目的は、青いルアーだった。
正確に言えば、青いルアーを買うことではなかった。
昨日、店の棚の隅で見つけた、妙に気になるルアーがあったのだ。
ほかのルアーは、もっと派手だった。
赤と金の模様が入ったもの。魚の目が大きく描かれたもの。虹色に光るもの。小さな羽根がついていて、動かすと水面でくるくる回るもの。
それらに比べて、その青いルアーは地味だった。
背中は深い青。腹の部分は銀色。光の角度によって、青の中に緑が混じって見える。
魚の形をしているのに、どこか本物の魚とは違っていた。
まるで、湖の底に沈んでいた小さな空を、誰かが拾い上げてきたようだった。
健二は昨日、そのルアーを手に取った。
店の奥から老人の声がした。
「それ、気に入ったか」
「……まあ、ちょっと」
「ちょっと、か」
老人は、なぜか楽しそうに笑った。
「ちょっと気になるものってのは、案外、長く手元に残るもんだ」
健二には意味がよくわからなかった。
ただ、その言葉だけが、なぜか頭の片隅に残っていた。
だから今日、もう一度来た。
宿題をやらなければならないことも、夕方までには帰らなければならないことも、いったん忘れることにして。
健二は釣具屋の引き戸に手をかけた。
からん、と。
戸口の小さな鈴が鳴った。
*
店の中は、外よりも少し涼しかった。
天井には古い扇風機が回っていて、ゆっくりと首を振るたびに、吊るされた釣り糸がかすかに揺れた。
壁には魚の写真が飾られていた。
どれも、ずいぶん昔に撮られたものらしかった。
大きな魚を抱えて笑っている若者。湖の岸辺で並んで立つ三人の男。帽子をかぶった少年が、小さな魚を両手で持っている写真。
その写真の少年は、今の健二よりも少し年下に見えた。
健二は、その写真を見ながら思った。
この人たちも、昔は夏休みが終わるのを嫌がったりしたのだろうか。
宿題を忘れて怒られたり、友達とくだらないことで笑ったりしたのだろうか。
今はもう、写真の中の人たちが何を考えていたのか、誰にもわからない。
それでも、写真は残っている。
あの瞬間、確かにそこにいたということだけは、残っている。
「おう。来たか」
老人が、カウンターの向こうから顔を出した。
白髪は短く刈られていて、日に焼けた顔には深いしわが刻まれていた。
けれど、目だけは妙に若かった。
魚が食いつく瞬間を待つ釣り人の目。
何かを知っていて、まだ教えるつもりはない人の目。
「昨日の青いやつ、まだありますか」
「あるぞ」
老人は棚の下から小さな箱を取り出した。
「お前さんが来るような気がしてな」
「……なんでですか」
「なんとなくだ」
「適当だなあ」
「釣りなんて、だいたい適当だ」
老人は真顔で言った。
「天気予報を見て、潮を読んで、魚の動きを考えて、道具をそろえて。それでも釣れんときは釣れん。反対に、何も考えずに投げたら釣れることもある」
「じゃあ、考える意味ないじゃん」
「考える意味はある。考えたからって、全部が思いどおりになるわけじゃないってことだ」
健二は、少しだけ黙った。
老人は箱を開け、青いルアーを取り出した。
その表面に、店の窓から差し込んだ光が滑った。
「これ、いくらですか」
「今日は売らん」
「えっ」
「代わりに、ちょっと頼まれてくれ」
「……何を?」
老人はカウンターの下から、小さな布袋を取り出した。
中には、細い金属の針と、小さな工具が入っていた。
「このルアーの腹に、文字を刻みたい」
「文字?」
「ああ」
「なんで、ルアーに?」
「忘れんためだ」
老人は、青いルアーを指先でつまんだ。
「人間はな、何かを大切にしようと思っても、いつまでも同じ気持ちでいられるとは限らん。時間が経てば、忘れることもある。別のことに夢中になることもある。大切だったものが、いつの間にか、どこにしまったかわからなくなることもある」
老人は工具を手に取った。
「だから、形にして残すんだ」
健二は、青いルアーを見つめた。
「……何を刻むんですか」
老人はすぐには答えなかった。
窓の外では、湖から吹いてきた風が、店先ののぼりを揺らしていた。
やがて老人は、ゆっくりと口を開いた。
「また、あした」
その言葉を聞いた瞬間、健二はなぜか、胸の奥が少しだけくすぐったくなるのを感じた。
特別な言葉ではない。
友達と別れるときにも使う。
家族と寝る前に交わすこともある。
明日も学校で会う相手に、何気なく言うこともある。
それなのに。
老人の声で聞いたその言葉は、どこか遠い場所から届いた手紙のように聞こえた。
「……それ、誰に向けた言葉なんですか」
健二が尋ねると、老人は笑った。
「それを決めるのは、わしじゃない」
そして、青いルアーの腹に、細い針を当てた。
金属が、かすかに鳴った。
ひと文字ずつ。
急がず、丁寧に。
老人は、ルアーに言葉を刻んでいった。
また。
あした。
最後の点を打ち終えると、老人はそれを健二の手のひらに置いた。
「持っていけ」
「えっ。でも、まだお金……」
「いらん」
「いや、でも」
「その代わり」
老人は、健二の目を見た。
「いつか、誰かに渡してやれ」
健二は困った。
誰かに渡す?
どうして?
せっかく気に入ったルアーなのに。
けれど老人の顔を見ると、冗談を言っているようには思えなかった。
「……なくしたら、どうするんですか」
「そりゃあ、困るな」
「ですよね」
「だがな」
老人は、店の奥にある古い時計を見上げた。
時計の針は、午後三時二十九分を指していた。
「なくすことと、なくなることは、少し違うんだ」
健二は、その言葉の意味を理解できなかった。
ただ、青いルアーの冷たさだけが、手のひらに残った。
*
釣具屋を出ると、空の色が少し変わっていた。
雲の端が金色になり、湖の向こうから吹いてくる風が、さっきよりも涼しくなっている。
健二はルアーをポケットにしまい、岸辺へ向かった。
新しいルアーを使うときは、いつも少しだけ緊張する。
魚が釣れるかどうかよりも、最初の一投を失敗したくないという気持ちのほうが強かった。
湖の岸辺には、誰もいなかった。
いや、最初は、誰もいないと思った。
水辺へ伸びた古い桟橋の先に、ひとりの少女が座っていた。
白い半袖のシャツ。
紺色のスカート。
肩にかかる黒い髪が、風に揺れていた。
少女は、膝を抱えるようにして座り、湖を眺めていた。
その横には、小さな鞄が置かれている。
足元には、飲みかけの麦茶。
そして、木の板の上に、開いたままのノートがあった。
少女は、健二が近づいてくるのに気づいていたはずだった。
けれど、振り向かなかった。
まるで、誰かが来るのを待っていたように。
健二は、少し離れたところで立ち止まった。
声をかけようか。
そのまま通り過ぎようか。
釣りをするだけなら、わざわざ話しかける必要はない。
それに、知らない人に声をかけるのは、少し苦手だった。
何を話せばいいのかわからない。
返事がなかったら気まずい。
変な人だと思われたら嫌だ。
そんなことを考えているうちに、時間だけが過ぎていく。
いつもなら、健二はそのまま釣りを始めていただろう。
けれど、その日は違った。
少女のノートが、風にめくられたのだ。
一枚の紙が、ふわりと宙に浮いた。
「あっ!」
少女が立ち上がった。
紙は桟橋の端を越え、湖へ落ちそうになった。
健二は、考えるより先に走っていた。
桟橋の上を駆け、手を伸ばす。
紙の端が、指先に触れた。
あと少し。
あと少しで届く。
健二は身体を傾け、紙をつかんだ。
その勢いで、釣り竿が肩から滑り落ちた。
竿は木の板にぶつかり、乾いた音を立てた。
「危ない!」
少女が叫んだ。
健二は、紙を握りしめたまま、なんとか体勢を立て直した。
心臓が、どきどきしていた。
水面が、すぐそこにある。
もし、もう少し勢いが強かったら。
もし、足を滑らせていたら。
健二は思わず、苦笑した。
「……あぶねえ」
少女は、しばらく何も言わなかった。
やがて、ゆっくりと近づいてきた。
「それ……」
「ああ、これ?」
健二は、握っていた紙を差し出した。
「飛んでいきそうだったから」
少女は紙を受け取った。
そして、両手でそっと押さえた。
紙の端は少し折れていたが、破れてはいなかった。
「ありがとう」
その声は、思っていたよりも小さかった。
けれど、はっきりと聞こえた。
「別に。たまたまだよ」
「たまたまでも、ありがとう」
少女はそう言って、紙をノートにはさんだ。
それから、健二の顔を見た。
初めて、目が合った。
健二は、何か言おうとした。
釣りに来たのか、とか。
この辺に住んでいるのか、とか。
そんな、どこにでもある質問を。
けれど少女の目を見た瞬間、なぜか、そのどれもが違うような気がした。
少女の瞳には、夕方の湖が映っていた。
その向こうに、まだ来ていない明日があるように見えた。
「ねえ」
少女が言った。
「明日も、ここに来る?」
健二は、すぐには答えられなかった。
明日は九月一日だ。
学校が始まる。
朝から授業がある。
帰りは、いつもより遅くなるかもしれない。
だから、絶対に来られるとは言えなかった。
それなのに。
少女の問いかけは、明日の予定を聞いているだけではないように思えた。
まるで、明日というものが、本当にやって来るのかを確かめているようだった。
健二はポケットの中に手を入れた。
指先が、青いルアーに触れた。
そこには、今日、初めて刻まれた言葉がある。
また、あした。
健二は、その文字を確かめるように、ルアーを握った。
そして、顔を上げた。
「……来るよ」
少女は、目を丸くした。
「ほんとう?」
「うん。朝はちょっと遅くなるかもしれないけど」
健二は、少しだけ笑った。
「たぶん、来る」
少女は、すぐには笑わなかった。
その代わり、ほんの一瞬だけ、泣きそうな顔をした。
けれど次の瞬間には、いつもの顔に戻っていた。
「そっか」
彼女は、湖を振り返った。
「じゃあ、私も来る」
風が吹いた。
桟橋の上で、ノートのページが一枚だけめくれた。
少女はそれを押さえながら、健二に尋ねた。
「ねえ。約束って、どうしてするんだと思う?」
健二は困った。
「……守るため?」
「うん。それもあるね」
「ほかにあるの?」
少女は、少し考えた。
「たぶんね」
彼女は、夕日の差す水面を見つめた。
「ひとりじゃないって、思えるから」
その言葉を聞いたとき、健二には何もわからなかった。
約束は、約束だ。
明日会うと決めたら、明日会う。
それだけのことだと思っていた。
約束をすることで、誰かが安心できることも。
たった一言が、誰かにとって一日を生きる理由になることも。
その一言を、何十年経っても忘れられないことがあるのも。
まだ、知らなかった。
だから健二は、いつもの調子で答えた。
「……変なの」
少女は笑った。
「そうかな」
「そうだよ」
「じゃあ、変な約束ってことで」
「なんだよ、それ」
ふたりは、少しだけ笑った。
湖の向こうで、雲が夕日の光を受けていた。
その瞬間のことを、健二は長いあいだ覚えていることになる。
少女が何を着ていたのか。
どんな声で笑ったのか。
風がどちらから吹いていたのか。
そして、彼女が最後に、どんな顔をしていたのか。
忘れてしまうこともあるだろう。
思い出せなくなることもあるだろう。
けれど、あのとき交わした約束だけは。
何度も、何度も。
健二のもとへ戻ってくることになる。
まるで、湖が忘れ物を返してくれるように。
*
帰り道、健二は釣具屋の前で立ち止まった。
店の明かりは、もう消えていた。
戸口には、小さな紙が貼られている。
老人の字だった。
『明日は、明日の魚がいる。』
健二は、その文字を見て笑った。
「……なんだそれ」
そして、ポケットから青いルアーを取り出した。
腹に刻まれた文字を、夕暮れの光に透かして見る。
また、あした。
その言葉は、ただの約束だった。
明日、湖で少女に会う。
それだけのことだった。
明日が来ることを疑っていなかった。
明日も、明後日も、その先も。
いつまでも、今日の続きを生きていけると思っていた。
だから健二は、知らなかった。
この小さな青いルアーが、いつか自分の人生を何度も立ち止まらせることを。
存在しない日付に迷い込んだとき、手の中に残された唯一の手がかりになることを。
午前九時十三分。
もう鳴るはずのない電話から、あの声が聞こえてくることを。
そして、少女の最後の歌が、誰かの祈りによって、もう一度だけ始まることを。
健二はルアーをポケットにしまい、家へ向かって歩き出した。
夕日が、町の屋根を金色に染めていた。
遠くから、夕飯の支度をする音が聞こえた。
自転車のベルが鳴った。
犬が吠えた。
どこかの家から、ラジオの音が漏れていた。
何もかもが、いつもどおりだった。
だからこそ、その日は特別だった。
特別だと気づかないまま過ぎていく一日こそが、あとになって、いちばん大切な思い出になることがある。
健二は、まだそれを知らなかった。
ただ、明日が楽しみだった。
それだけで、十分だった。




