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第二十一章 写真の中の、三人目


2008年9月20日(土) 午前8時32分


夢の中で、誰かが僕の名前を呼んでいた。


健二。


健二。


何度も、何度も。


けれど、その声は、僕の名前を呼んでいるはずなのに、僕のことを呼んでいるようには聞こえなかった。


まるで、ずっと昔に失くしたものを、ようやく見つけた人の声だった。


目を開けると、カーテンの隙間から朝の光が差し込んでいた。


枕元の時計は、午前八時三十二分。


僕は、しばらく天井を見つめていた。


夢の中で、誰かが泣いていた。


顔は思い出せない。


声も、もう思い出せない。


ただ、その人が最後に言った言葉だけは、覚えていた。


『今度こそ、忘れないでね』


僕は起き上がり、机に向かった。


水色のノートを開く。


昨日までの文章の下に、新しい文字があった。


『二十一回目。写真を見る。』


その下には、いつもと違う一文が書かれていた。


『今日は、思い出す日ではない。見つける日だ。』


僕は、何度もその文章を読み返した。


思い出すのではなく、見つける。


何が違うのだろう。


思い出すということは、自分の中にあるものを取り戻すことだ。


でも、見つけるということは。


自分が知らなかったものを、初めて見つけることなのかもしれない。


僕は、昨日の釣具店を思い出した。


古い棚。


二つの湯飲み。


若い店主。


そして、あの写真。


僕は鞄を引き寄せた。


けれど、写真は入っていなかった。


あの写真は、店に置いたままだ。


僕は、青いルアーを手に取った。


側面に刻まれた文字を、指でなぞる。


また、あした。


昨日、店主は言った。


次に来るときは、写真を持っておいで。


そして、写真の表側をよく見てごらん、と。


僕は立ち上がった。


今日は、もう一度、あの店へ行こう。


今度こそ、写真の中の三人目を見つけるために。


*


湖へ向かう道で、僕は何度も携帯電話を確かめた。


少女からの連絡はなかった。


こちらから電話をかけようかとも思った。


けれど、昨日の彼女の声を思い出して、やめた。


『その名前を呼んだら、今までの夏が、全部つながってしまうかもしれないから』


あのとき、彼女は何を恐れていたのだろう。


夏がつながる。


その意味を、僕はまだ知らない。


ただ、ひとつだけわかることがあった。


彼女は、何かを隠している。


でも、それは僕をだますためではない。


彼女自身も、何かを思い出せずにいるのだ。


だから、あんなふうに言ったのだろう。


覚えていることと、覚えていないことが混ざっている、と。


僕は、湖の岸に出た。


水面は穏やかだった。


いつもの釣り場には、誰もいなかった。


僕は、しばらく水面を眺めた。


この湖には、いくつもの時間が沈んでいるような気がした。


僕たちが一緒に釣りをした時間。


文化祭の歌を作った時間。


名前を忘れかけた時間。


そして、僕がまだ知らない、もっと昔の時間。


水面に、小さな波紋が広がった。


僕は、青いルアーをポケットにしまい、湖の向こうへ続く石段を下りた。


*


古い釣具店の扉は、昨日と同じように開いた。


ギイ、と音がした。


「……こんにちは」


返事はなかった。


店内には、昨日と同じ匂いが残っていた。


古い木材と、乾いた釣り糸と、長い時間の匂い。


僕は、まっすぐ棚へ向かった。


写真立ては、昨日と同じ場所にあった。


僕は写真を手に取った。


女の子。


男の子。


二人とも、湖を背にして笑っている。


女の子の手には、青いルアー。


男の子は、何かを言いかけたように口を開いている。


僕は、写真を窓の光にかざした。


何も変わらなかった。


角度を変えた。


それでも、二人しか見えない。


僕は、写真の端を指でなぞった。


右端。


左端。


上の隅。


下の隅。


やはり、二人だけだった。


「……いないじゃないか」


思わず、声が漏れた。


そのときだった。


「誰が?」


背後から声がした。


振り返ると、昨日の店主が立っていた。


昨日よりも少し年を取ったようにも見えたし、まったく同じようにも見えた。


「……三人目が」


僕は写真を見せた。


「昨日、三人目を見つけろって、ノートに書いてあったんです。でも、二人しか写っていない」


店主は写真を受け取らなかった。


ただ、僕の手元を見つめていた。


「君は、何を見ようとしているんだい?」


「……え?」


「三人目を見つけようとしているんだろう?」


「はい」


「じゃあ、どうして二人しか見えないんだと思う?」


僕は、答えられなかった。


店主は、窓の外へ目を向けた。


「写真にはね、写した人の見ていたものが残るんだ」


「……見ていたもの?」


「そう。目の前にいたものだけじゃない。そこにいてほしかったものや、いなくなってほしくなかったものまでね」


僕は、写真を見つめた。


写した人が、そこにいてほしかったもの。


いなくなってほしくなかったもの。


では、この写真を撮った人は、何を残そうとしたのだろう。


僕は、もう一度、二人の子どもを見た。


女の子は笑っている。


男の子も笑っている。


けれど、よく見ると、女の子の視線はカメラに向いていなかった。


少しだけ、右を向いている。


まるで、カメラのすぐ横にいる誰かを見ているように。


男の子も、同じだった。


口を開き、何かを言おうとしている。


その視線は、写真を撮った人の顔ではなく、もっと低い位置に向けられていた。


僕は、写真を近づけた。


女の子の目。


男の子の目。


二人の視線が向かう先。


そこには、何も写っていない。


けれど。


僕は、急に胸が苦しくなった。


この二人は、カメラを見ているのではない。


カメラの向こう側にいる誰かを、見ている。


僕は、息を吸った。


「……この写真を撮った人は、どこにいたんですか?」


店主は、静かに答えた。


「君が今、立っている場所だよ」


僕は、足元を見た。


古い木の床。


写真立てが置かれた棚。


窓から差し込む光。


この場所で、誰かがカメラを構えた。


そして、二人の子どもを撮った。


でも、その二人は、カメラではなく、その向こうにいる誰かを見ていた。


僕は、ゆっくりと顔を上げた。


「……じゃあ、三人目は」


言葉が止まった。


店主は、僕の目を見ていた。


「そう。君が考えているとおりかもしれない」


僕は、写真を握りしめた。


けれど、まだ確信はなかった。


僕が三人目なのだろうか。


1992年8月32日に、この場所にいたのだろうか。


そんなはずはない。


僕は、まだ生まれていなかった。


それなのに。


僕は、この店の床を知っているような気がした。


この窓から差し込む光を、知っているような気がした。


そして、写真の中の二人が、僕に向かって何かを伝えようとしているように見えた。


僕は、写真を裏返した。


『1992年8月32日。明日も、三人で会えますように。』


その文字を見つめる。


そして、ふと気づいた。


文章の最後に、小さな点があった。


昨日は、気づかなかった。


鉛筆でつけられた、小さな点。


その下に、薄く消された文字があった。


僕は、写真を窓の光にかざした。


消された文字が、少しずつ見えてきた。


『……けんじ』


僕は、息を止めた。


健二。


僕の名前だった。


僕は、写真を取り落としそうになった。


「……どうして」


声が震えた。


「どうして、僕の名前が……」


店主は、何も言わなかった。


僕は、何度も文字を見た。


間違いない。


そこには、僕の名前が書かれていた。


1992年8月32日。


僕がまだ生まれていないはずの日付。


その写真の裏に。


僕の名前が。


「……僕は、ここに来たことがあるんですか?」


店主は、ゆっくりと目を閉じた。


「それを、私が答えてはいけないんだ」


「どうしてですか!」


思わず、声が大きくなった。


店主は、僕を責めなかった。


ただ、静かに言った。


「君自身が、思い出さなければならないことだからだよ」


僕は、うつむいた。


思い出す。


また、その言葉だ。


けれど、ノートには書いてあった。


今日は、思い出す日ではない。


見つける日だ。


僕は、写真をもう一度見た。


女の子。


男の子。


そして、二人が見つめている、写真の外側。


僕は、ゆっくりと顔を上げた。


「……店主さん」


「なんだい?」


「この写真を撮ったのは、誰ですか?」


店主は、長い間、黙っていた。


やがて、静かに答えた。


「この写真を撮ったのは――」


その瞬間。


店の奥で、電話が鳴った。


ジリリリリリ。


古い黒電話だった。


店主の表情が変わった。


僕は、電話を見た。


壁に掛けられた時計は、午後四時三十二分を指していた。


文化祭の録音を聴いた、あの時刻。


歌が終わった、あの時刻。


店主は、電話に近づかなかった。


僕も、動けなかった。


電話は鳴り続けた。


ジリリリリリ。


やがて、店主が小さく言った。


「……出てはいけない」


僕は、電話を見つめた。


「どうして?」


店主は、答えなかった。


電話が鳴り止んだ。


店内が静かになった。


その直後、受話器から、かすかな声が漏れた。


『……健二?』


僕は、息を止めた。


その声を、知っていた。


少女の声ではない。


店主の声でもない。


僕自身の声でもない。


それなのに。


僕は、その声を聞いたことがあった。


夢の中で。


湖のほとりで。


そして、歌の最後の一行で。


受話器から、もう一度声がした。


『……今度は、ちゃんと来てくれたんだね』


僕は、一歩、電話に近づいた。


店主が言った。


「……やめなさい」


でも、僕の足は止まらなかった。


受話器に手を伸ばした。


指先が触れた。


その瞬間、電話の向こうから、声がした。


『……悠真だよ』


僕は、動けなくなった。


悠真。


その名前を、今度こそ、はっきりと聞いた。


電話の向こうの少年は、少し笑った。


『ねえ、健二』


僕は、声を出せなかった。


『僕のこと、覚えてる?』


僕の目から、涙がこぼれた。


なぜ泣いているのか、わからなかった。


悠真に会ったことなど、ないはずだった。


その顔も知らない。


どんな声で笑うのかも知らない。


それなのに。


僕は、ずっとこの声を探していたような気がした。


電話の向こうで、悠真が言った。


『……僕たち、明日も会えるかな』


僕は、受話器を握りしめた。


答えようとした。


けれど、声が出なかった。


すると、悠真が、あの歌のメロディーを口ずさんだ。


まだ完成していない歌。


最後の一行だけが、どうしても書けなかった歌。


僕は、気づいた。


そのメロディーは、僕が昨日、無意識に歌ったものと同じだった。


そして。


僕は、とうとう思い出した。


歌の最後に、何が続くはずだったのかを。


僕の口が、勝手に動いた。


「……また、あした」


電話の向こうで、悠真が笑った。


『うん』


そして、声が小さくなった。


『……今度こそね』


電話が切れた。


僕は、受話器を握ったまま、しばらく動けなかった。


店主は、静かに僕を見ていた。


その顔は、悲しそうだった。


そして、少しだけ、安心したようにも見えた。


「……聞こえたんだね」


僕は、うなずいた。


「……はい」


店主は、窓の外を見た。


「じゃあ、もうすぐだ」


「……何が?」


店主は、答えなかった。


ただ、写真を指さした。


「もう一度、見てごらん」


僕は、写真を手に取った。


女の子。


男の子。


二人の子ども。


そして、写真の隅。


さっきまで何もなかったはずの場所に、小さな影が写っていた。


湖のほとり。


二人の子どものすぐ後ろ。


こちらを向いている、小さな男の子。


顔は、光で白く飛んでいた。


けれど、その手には。


青いルアーが握られていた。


僕は、自分のポケットを確かめた。


青いルアーは、そこにあった。


写真の中の男の子と、同じもの。


同じ形。


同じ色。


同じ傷。


そして、同じ文字。


また、あした。


僕は、写真を見つめた。


写真の中の男の子は、僕に向かって笑っていた。


その顔は、光に隠れて見えない。


それでも、なぜか、わかった。


その男の子は。


僕だった。


*


店を出ると、湖の向こうから風が吹いてきた。


僕は、写真の裏側をもう一度見た。


消された文字。


健二。


そして、その下に、もう一つの文字が浮かび上がっていた。


『ゆうま』


僕は、二つの名前を見つめた。


健二。


悠真。


二つの名前の間には、小さな線が引かれていた。


その線の下に、細い字で、こう書かれていた。


『ふたりで、ひとつの約束をした。』


僕は、写真を胸に抱えた。


まだ、わからないことばかりだった。


どうして僕が写真の中にいるのか。


どうして1992年8月32日という日付があるのか。


どうして悠真は、僕のことを知っているのか。


そして、どうして僕は、悠真の名前を聞くたびに、泣きたくなるのか。


答えは、まだ見つからない。


でも、ひとつだけ。


僕は、もう、あの名前を呼ぶことが怖くなかった。


湖のほとりに立ち、空を見上げた。


そして、小さくつぶやいた。


「……悠真」


風が吹いた。


湖面に、波紋が広がった。


遠くで、誰かが笑ったような気がした。


僕は、もう一度、名前を呼んだ。


「……悠真」


今度は、はっきりと。


すると、どこからか、声が聞こえた。


『……うん』


僕は、目を閉じた。


その声は、すぐそばにいるようにも、遠い昔から聞こえてくるようにも思えた。


僕は、青いルアーを握りしめた。


また、あした。


その言葉を、今度は、心の中で繰り返した。


そして、思った。


明日が来るかどうかわからなくても。


明日、会えるかどうかわからなくても。


それでも、僕は、もう一度会いたい。


あの子に。


悠真に。


そして、まだ名前を思い出せない、あの少女に。


僕は、湖を振り返った。


水面の向こうに、三人の影が見えた気がした。


女の子。


男の子。


そして、もう一人。


その三人は、夕日の中で笑っていた。


僕は、手を振った。


すると、三人のうちの一人が、こちらに手を振り返した。


誰だったのかは、わからなかった。


でも、その笑顔だけは。


なぜか、忘れたくないと思った。


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