第二十章 湖の向こうの釣具店
2008年9月19日(金) 午前8時32分
朝、僕は青いルアーをポケットに入れた。
水色のノートも、鞄にしまった。
今日は、湖の向こうへ行く。
あの古い釣具店を探すために。
そして、悠真という名前を呼ぶために。
昨夜、電話で少女が言った言葉が、ずっと耳に残っていた。
『あの子は、ずっと待っているから』
あの子。
少女は、悠真のことをそう呼んだ。
過去の人を懐かしむような声ではなかった。
今もそこにいる人に話しかけるような声だった。
僕は、机の上のノートを開いた。
昨日までの記録の下に、新しい文章が浮かんでいた。
『二十回目。湖の向こうへ。』
そして、その下には。
『店主に会っても、最初に名前を尋ねないこと。』
僕は首をかしげた。
「……また、名前か」
この物語では、名前が何度も出てくる。
思い出せない名前。
消された名前。
呼ばれなくなった名前。
そして、呼んではいけない名前。
名前を呼ぶことは、誰かを思い出すことなのだろうか。
それとも、誰かを、もう一度この世界につなぎとめることなのだろうか。
僕には、まだわからなかった。
ただ、ひとつだけ確かなことがあった。
僕は、悠真という名前を忘れたくなかった。
そして、少女の名前も。
僕はノートを閉じ、玄関へ向かった。
今日は学校が終わったら、湖の向こうへ行こう。
その前に、彼女に会えるだろうか。
そう考えた瞬間、鞄の中で、何かがかすかに鳴った。
携帯電話だった。
画面には、見覚えのない番号が表示されていた。
時刻は午前九時十三分。
僕は、しばらく画面を見つめた。
それから、電話に出た。
「……もしもし」
返事はなかった。
ただ、遠くで水の音が聞こえた。
波が岸に寄せて、引いていく音。
そして、男の子の声がした。
『……そこにいるの?』
僕は息を止めた。
「誰?」
『……そこにいるんだね』
少年は、僕の質問に答えなかった。
その声は、昨日、歌の最後に現れた名前と、どこか似ていた。
懐かしくて。
少し寂しくて。
ずっと前から知っていたような声だった。
『……今日は、来てくれる?』
僕は、受話器を握り直した。
「どこに?」
しばらく沈黙があった。
そして、少年は答えた。
『湖の向こう』
電話が切れた。
僕は、携帯電話を見つめた。
湖の向こう。
まるで、僕がそこへ行くことを、最初から知っていたみたいだった。
*
午後3時41分 湖畔
学校が終わると、僕はいつもの湖へ向かった。
少女は、木の下に座っていた。
膝の上には、水色のノートが置かれている。
「……来たんだね」
僕に気づくと、彼女は顔を上げた。
「うん」
僕は隣に座った。
「今日、湖の向こうへ行こうと思ってる」
少女は、すぐには答えなかった。
湖の水面を見つめていた。
「……そっか」
「昨日、電話で言ってたから」
「うん」
「悠真の名前を呼んでほしいって」
彼女の指が、ノートの端をつまんだ。
「……そうだったね」
「君も、一緒に来る?」
僕が尋ねると、彼女はゆっくりと首を振った。
「今日は、行けない」
「どうして?」
「……まだ、あそこに行く準備ができていないから」
僕は、彼女を見た。
彼女は笑っていた。
けれど、その笑顔は、いつもの笑顔とは違っていた。
どこか遠くにいる誰かを見送るような笑顔だった。
「……ひとつだけ、お願いしていい?」
「うん」
「もし、店の中に写真があったら」
彼女は、僕の鞄を見た。
「その写真を、裏返してみて」
「裏返す?」
「うん。表じゃなくて、裏側」
彼女は、少しだけ迷ってから続けた。
「表に写っているものより、裏に書かれていることの方が、大切なときもあるから」
僕はうなずいた。
「わかった」
彼女は、僕の手を取った。
その手は、少し冷たかった。
「……健二」
「うん?」
「もし、そこで私の名前を見つけても」
彼女は、僕をまっすぐに見つめた。
「その場では、声に出さないで」
僕は、息を止めた。
「……どうして?」
「お願い」
彼女は、それ以上、説明しなかった。
ただ、僕の手を握っていた。
僕は、うなずいた。
「……わかった。声には出さない」
彼女は、ほっとしたように目を閉じた。
「ありがとう」
そして、手を離した。
「……また、あした」
僕は立ち上がった。
「また、あした」
歩き始めてから、僕は一度だけ振り返った。
少女は、まだ木の下に座っていた。
こちらを見ているようにも見えたし、湖の向こうを見つめているようにも見えた。
僕は、青いルアーをポケットの上から確かめた。
それから、湖を回り込む道へ向かった。
*
午後4時08分 湖の向こう
湖の向こう側へ行く道は、思っていたよりも細かった。
普段、僕たちが釣りをしている岸からは見えない場所。
木々が生い茂り、足元には落ち葉が積もっていた。
僕は、何度か立ち止まりながら歩いた。
途中で、道が二つに分かれていた。
右側は、湖へ続いているようだった。
左側には、古い石段があった。
水色のノートを開く。
新しい文字が浮かんでいた。
『石段を下りる。』
僕は、左側へ進んだ。
石段は、ところどころ崩れていた。
慎重に下りていくと、木々の向こうに、小さな建物が見えてきた。
木造の平屋だった。
屋根は色あせ、窓には薄い埃が積もっていた。
それでも、入口の上には、看板が残っていた。
湖畔釣具店。
僕は、立ち止まった。
初めて見る建物なのに、懐かしかった。
今も営業している釣具店と、同じ名前。
同じような看板。
同じような木の扉。
僕は、ポケットから青いルアーを取り出した。
刻まれた文字を指でなぞった。
また、あした。
扉に手をかけた。
鍵はかかっていなかった。
ゆっくり押すと、木がきしむ音がした。
「……こんにちは」
返事はなかった。
店内には、古い釣り竿が並んでいた。
棚には、浮きや針、錆びたリール。
壁には、魚の写真や、色あせた釣り大会のポスターが貼られていた。
時間が止まったような場所だった。
僕は、一歩ずつ店内へ入った。
床が、きしんだ。
その音が、妙に大きく聞こえた。
「……誰か、いますか?」
返事はなかった。
レジの上には、古い帳面が置かれていた。
その隣には、湯飲みが二つ。
片方には、乾いた茶渋が残っていた。
もう片方は、きれいだった。
まるで、誰かが今もここへ来るのを待っているみたいだった。
僕は、帳面を開いた。
古い日付が並んでいた。
1992年。
1993年。
1994年。
そして、あるページで手が止まった。
1992年8月32日。
その日付の横に、短い記録があった。
『青いルアー、一個。』
『子ども三人。』
『約束、ひとつ。』
僕は、文字を見つめた。
三人。
僕は、少女と悠真を思い浮かべた。
では、もう一人は誰なのだろう。
帳面の続きを読もうとしたとき、店の奥で、小さな音がした。
カタン。
僕は顔を上げた。
「……誰?」
返事はなかった。
もう一度。
カタン。
今度は、棚の方から聞こえた。
僕は、ゆっくりと近づいた。
棚の上に、古い写真立てが置かれていた。
写真には、湖のほとりに立つ二人の子どもが写っていた。
一人は女の子。
もう一人は男の子。
二人とも、こちらを向いて笑っていた。
女の子の手には、青いルアーがあった。
男の子は、何かを言いかけたように口を開いていた。
僕は、写真を手に取った。
そして、裏返した。
そこには、日付が書かれていた。
『1992年8月32日。』
その下に、鉛筆で書かれた文章。
『明日も、三人で会えますように。』
僕は、息を止めた。
写真に写っているのは、二人だった。
なのに、裏には三人と書かれている。
僕は、写真をもう一度、表に返した。
女の子。
男の子。
二人しかいない。
それなのに、僕は、写真の中にもう一人いるような気がした。
画面の端。
女の子のすぐ隣。
男の子の肩の向こう。
そこに、誰かが立っていたような気がした。
僕は、目をこすった。
写真は変わらなかった。
ただの二人の子どもだった。
僕は、写真を裏返した。
そのとき、さっきまでなかった文字が、文章の下に浮かび上がった。
『三人目は、写真を撮った人。』
僕は、動けなくなった。
写真を撮った人。
では、写真の外側にいたのは誰なのだろう。
その人も、三人のうちの一人だったのだろうか。
僕は、写真を握りしめた。
その瞬間、背後から声がした。
「……それを、見つけたんだね」
僕は振り返った。
店の奥に、老人が立っていた。
僕が最初に青いルアーをもらった、あの釣具店の老人によく似ていた。
けれど、目の前の老人は、もっと若かった。
髪は黒く、背筋もまっすぐだった。
顔立ちは、確かに同じだった。
老人は、僕の手にある写真を見つめた。
「……懐かしいな」
その声を聞いた瞬間、僕は気づいた。
この人は、あの老人なのだ。
ただ、今よりもずっと若い。
「……あなたは」
僕が言いかけると、老人は静かに首を振った。
「名前は、まだ聞かないでくれ」
僕は、口を閉じた。
水色のノートに書かれていた言葉を思い出した。
『店主に会っても、最初に名前を尋ねないこと。』
老人は、僕の手元を見た。
「そのルアー……」
僕は、ポケットから青いルアーを取り出した。
老人は、しばらくそれを見つめていた。
そして、ゆっくりと目を閉じた。
「……渡したんだな」
「誰に?」
老人は、答えなかった。
ただ、写真を指さした。
「そこに写っている子たちに、会ったことはあるかい?」
僕は、少し考えた。
「……女の子には、会っています」
老人の表情が変わった。
「そうか」
「男の子は……まだ、わかりません」
老人は、静かにうなずいた。
「じゃあ、まだ間に合うかもしれないな」
「何がですか?」
老人は、窓の外を見た。
湖の向こうから、風が吹いてきた。
「名前を呼ぶことだよ」
僕は、息をのんだ。
老人は、僕の手から写真を受け取った。
「人は、忘れられたときにいなくなるんじゃない」
彼は、写真の裏側を見つめた。
「誰も名前を呼ばなくなったとき、少しずつ、帰る場所を失っていくんだ」
僕は、何も言えなかった。
「だから、あの子は待っている」
老人は、写真を棚に戻した。
「誰かが、自分の名前を呼んでくれるのを」
僕は、ポケットの中のルアーを握った。
「……悠真のことですか?」
老人は、僕を見た。
その目が、一瞬だけ揺れた。
「その名前を、誰から聞いた?」
「……あの子から」
老人は、ゆっくりとうなずいた。
「そうか」
そして、静かに言った。
「なら、君はもう、あの夏の入口に立っている」
*
老人は、店の奥から小さな箱を持ってきた。
箱の中には、古い釣り道具が入っていた。
錆びた針。
割れた浮き。
使い込まれたリール。
そして、青いルアーが、もう一つ。
僕は、目を見開いた。
僕の持っているものと、よく似ていた。
けれど、こちらのルアーは、塗装が剥げていた。
側面には、小さな傷があった。
「……これも、青いルアー」
老人はうなずいた。
「同じものに見えるだろう?」
「はい」
「でも、同じじゃない」
彼は、ルアーを箱から取り出した。
「こっちは、あの子が持っていたものだ」
僕は、ルアーを見つめた。
「……あの子って、誰ですか?」
老人は、答えなかった。
ただ、ルアーの側面を指でなぞった。
そこには、薄く文字が刻まれていた。
僕は、目を凝らした。
また、あした。
同じ言葉だった。
けれど、その下に、小さな文字があった。
『ゆうま』
僕は、息を止めた。
悠真。
名前が、刻まれていた。
「……どうして、このルアーに?」
老人は、静かに言った。
「約束を忘れないためだよ」
「誰の約束ですか?」
老人は、しばらく黙っていた。
そして、僕を見た。
「三人の約束だ」
僕は、言葉を失った。
三人。
写真に写っていた二人。
そして、写真を撮った人。
僕は、恐る恐る尋ねた。
「……三人目は、誰なんですか?」
老人は、すぐには答えなかった。
長い沈黙があった。
やがて、老人は、僕の顔を見つめた。
「君は、もう、その答えを知っているのかもしれない」
「……僕が?」
老人は、うなずいた。
「ただ、思い出せないだけでね」
僕は、動けなくなった。
老人は、箱の蓋を閉じた。
「今日は、ここまでだ」
「でも……」
「これ以上、急いではいけない」
老人は、静かに言った。
「名前は、見つけた瞬間に呼べばいいというものじゃない」
僕は、ポケットの中のルアーを握りしめた。
「……じゃあ、いつ呼べばいいんですか?」
老人は、少しだけ笑った。
「その名前を呼ぶことで、誰かが帰ってこられるときだよ」
僕は、その言葉を胸にしまった。
老人は、店の入口を指さした。
「日が暮れる前に、帰りなさい」
「……また、来てもいいですか?」
老人は、うなずいた。
「もちろん」
そして、最後に言った。
「次に来るときは、写真を持っておいで」
「写真を?」
「そう」
老人は、窓の外を見た。
「今度は、写真の表側をよく見てごらん」
僕は、写真を見つめた。
二人の子ども。
女の子と男の子。
その向こうに、見えない誰か。
僕は、写真を棚に戻した。
そして、店を出た。
*
午後5時26分 湖畔への帰り道
帰り道、僕は何度も振り返った。
古い釣具店は、木々の向こうに隠れていた。
もう、姿は見えなかった。
それでも、あの場所に何かが残っていることだけは、わかった。
僕は、青いルアーを取り出した。
刻まれた文字を見つめる。
また、あした。
そして、古いルアーに刻まれていた名前を思い出した。
ゆうま。
悠真。
僕は、声に出さずに、その名前を繰り返した。
まだ、呼ぶことはできなかった。
老人は言った。
その名前を呼ぶことで、誰かが帰ってこられるときに。
では、悠真は、どこへ帰ってくるのだろう。
湖のほとりか。
古い釣具店か。
それとも、少女の隣か。
僕は、歩きながら考えた。
そして、もうひとつ。
老人の言葉が気になっていた。
『君は、もう、その答えを知っているのかもしれない。』
僕は、三人目を知っているのだろうか。
写真を撮った人。
約束を交わした人。
1992年8月32日に、あの湖にいた人。
僕は、その人を知っているのだろうか。
そのとき、鞄の中で、水色のノートが動いたような気がした。
僕は立ち止まり、ノートを開いた。
新しい文字が浮かんでいた。
『二十回目。店主に会った。』
その下に、短い一文。
『まだ、名前を呼ばなかった。』
僕は、少しだけ安心した。
まだ、間違えていない。
僕は、言われたとおりにした。
そして、さらに下に、新しい文章が現れた。
『二十一回目は、写真をもう一度見る。』
その下には、こう書かれていた。
『今度は、写真の中にいる三人目を見つけてください。』
僕は、顔を上げた。
写真の中にいる三人目。
でも、あの写真には二人しか写っていなかった。
それなのに。
僕は、なぜか、あの写真をもう一度見なければならないと思った。
今度は、表側を。
そこに写っているものを、ちゃんと見るために。
*
午後9時13分 真船家
家に帰ると、電話が鳴った。
午後九時十三分。
僕は、受話器を取った。
「……もしもし」
今度は、すぐに声が聞こえた。
『……行ってきたんだね』
少女だった。
「うん」
『……会えた?』
「うん。店主に会った」
電話の向こうで、彼女が小さく息を吸った。
『……そう』
「ねえ」
『なに?』
「写真があったよ」
少女は、黙っていた。
「女の子と男の子が写ってた。裏には、三人で会えますようにって書いてあった」
しばらくして、少女が言った。
『……そうだったんだね』
「君は、知ってたの?」
彼女は、すぐには答えなかった。
そして、静かに言った。
『……知っていたような気がする』
「どういうこと?」
『わからないの』
少女の声が、少し震えた。
『覚えていることと、覚えていないことが、私の中で混ざっているの』
僕は、受話器を握りしめた。
『写真を見たら、何か思い出せるかもしれない』
「……うん」
『でも、お願い』
「何?」
『写真の中にいる三人目を見つけても、すぐに名前を呼ばないで』
僕は、息を止めた。
「……どうして?」
少女は、しばらく黙っていた。
やがて、かすかな声で言った。
『その名前を呼んだら、今までの夏が、全部つながってしまうかもしれないから』
僕は、何も言えなかった。
『そして、つながってしまったら……』
少女の声が、そこで途切れた。
「……どうなるの?」
返事はなかった。
僕は、もう一度尋ねた。
「どうなるの、君?」
しばらくして、少女が言った。
『……明日、話すね』
いつもの言葉だった。
けれど、今日は、少し違って聞こえた。
明日、話す。
明日になったら、話す。
その明日が、何度も来なかった人の声だった。
『また、あした』
僕は、目を閉じた。
「また、あした」
電話が切れた。
僕は、机の上の水色のノートを開いた。
最後のページには、新しい文字が浮かんでいた。
『二十回目。名前は、まだ呼ばれていない。』
その下に、もう一行。
『でも、写真の中の誰かが、こちらを見ている。』
僕は、息を止めた。
写真の中の誰か。
僕は、目を閉じた。
女の子。
男の子。
そして、写真を撮った人。
僕は、もう一度、あの写真を見たいと思った。
今度は、見逃さないように。
写真の中にいる、三人目を。
そして、その人が誰なのか。
僕は、青いルアーを机の上に置いた。
月明かりが、ルアーを照らしていた。
また、あした。
僕は、小さくつぶやいた。
「……明日こそ、ちゃんと見つけるよ」
返事はなかった。
けれど、窓の外から、風が吹いてきた。
その風の中に、誰かの笑い声が混ざっていたような気がした。
僕は、顔を上げた。
誰もいない。
それでも、僕は思った。
あの夏は、まだ終わっていない。




