第十九章 二人で歌った、最後の一行
2008年9月18日(木) 午前7時12分
朝、目を覚ますと、僕は歌を口ずさんでいた。
夢を見ていたのだと思う。
誰もいない音楽室。
開け放たれた窓。
風に揺れるカーテン。
ピアノの前に座っている、誰かの後ろ姿。
その人は、こちらを振り返らずに歌っていた。
僕は、少し離れた場所に立っていた。
歌詞は聞き取れなかった。
けれど、旋律だけは、はっきりと覚えていた。
ゆっくりと始まって、途中で少しだけ高くなり、最後に、そっと元の音へ戻ってくる。
まるで、遠くへ行こうとした誰かが、もう一度帰ってくるみたいな旋律だった。
僕は布団から起き上がり、口ずさんでいた歌を確かめた。
知らない歌ではない。
どこかで聞いたことがある。
それどころか、何度も歌ったことがあるような気さえした。
僕は、机の上の水色のノートを開いた。
最後のページには、昨夜と同じ文字があった。
『十九回目。約束ができた。』
その下に、もう一行。
『歌が終わる前に、名前を呼んでください。』
僕は、鉛筆を手に取った。
その下に書き足す。
『誰の名前を?』
しばらく待った。
もちろん、何も起こらなかった。
僕は苦笑した。
「……さすがに、返事はしてくれないか」
そうつぶやいてノートを閉じようとしたとき、ページの裏側に、鉛筆の跡が透けているのが見えた。
僕はページをめくった。
薄い文字が、逆さまに浮かんでいた。
裏側から読めるように、紙に強く書きつけられた文字だった。
僕は、ノートを窓にかざした。
光を通すと、文字が少しだけ読みやすくなった。
『歌を忘れても、歌ったことは忘れない。』
その下に、小さな文字。
『声が違っても、同じ歌を歌える。』
僕は、昨日の電話を思い出した。
少女は、一緒に歌ってほしいと言った。
最後の一行は、自分で歌うと。
だったら、今日、音楽室へ行こう。
彼女と一緒に歌おう。
僕は鞄にノートをしまい、青いルアーを確かめた。
それから、家を出た。
朝の空は、少しだけ曇っていた。
けれど、雨は降っていなかった。
僕は空を見上げた。
「……今日は、歌えるといいな」
誰に聞かせるでもなく、そう言った。
*
午前10時06分 学校・音楽室
少女は、ピアノの前に座っていた。
譜面台には、あの歌の楽譜が置かれている。
最後の一行だけが、まだ空白だった。
「おはよう」
僕が声をかけると、彼女は振り返った。
「おはよう、健二」
その声を聞いて、僕は少しだけ安心した。
昨日と同じ声だった。
僕の名前を呼ぶ声。
忘れたくないと思った声。
「今日は、歌ってみる?」
僕が尋ねると、少女はうなずいた。
「うん」
それから、少しだけ不安そうに笑った。
「……でも、途中で止まっちゃうかもしれない」
「そのときは、最初からやり直せばいいよ」
「何回でも?」
「何回でも」
少女は、くすっと笑った。
「それ、好きだね」
「何が?」
「何回でも、って言葉」
僕は、少し考えた。
「……そうかもしれない」
彼女は、ピアノの鍵盤に指を置いた。
「じゃあ、何回でも歌おうね」
静かな音が、音楽室に広がった。
僕たちは、並んで立った。
少女が最初の音を口ずさむ。
僕も、それに続いた。
最初は、うまく合わなかった。
僕の声が少し早くなったり、少女の声が遅れたりした。
途中で、二人とも笑ってしまった。
「ごめん、今の僕だ」
「ううん、私も間違えた」
「じゃあ、もう一回」
「うん」
僕たちは、最初から歌い直した。
二回目は、少しだけうまくいった。
三回目は、もっとよくなった。
歌詞が、少しずつ口になじんでいく。
旋律が、二人の声の間を行ったり来たりする。
僕は、歌いながら思った。
不思議だ。
僕は、この歌を初めて歌っているはずなのに。
どうして、こんなにも懐かしいのだろう。
どうして、次にどんな音が来るのか、わかるのだろう。
少女の声が、僕の声に重なった。
その瞬間、僕の中で、何かが動いた。
音楽室ではない場所。
もっと古い建物。
木の床。
窓の外に見える、湖のような水面。
そして、誰かが笑っていた。
僕は、その景色を知っている気がした。
けれど、歌は続いていた。
僕は目を閉じ、旋律を追いかけた。
歌が中ほどまで進んだとき、僕は、楽譜にない音を口ずさんだ。
少女が、ぴたりと歌うのをやめた。
ピアノの音も止まった。
音楽室が、静まり返った。
「……健二?」
僕は目を開けた。
「え?」
「今の、何?」
少女は、僕を見つめていた。
「……何って?」
「今、歌ったところ」
彼女は、楽譜を指さした。
「そこ、そんなメロディーじゃないよ」
僕は、楽譜を見た。
確かに、僕が口ずさんだ旋律は書かれていなかった。
「……ごめん。なんか、自然に出てきちゃって」
少女は、首を振った。
「違うの」
「え?」
「その旋律……」
彼女の顔から、少しずつ血の気が引いていった。
「私、知ってる」
僕は、息を止めた。
「知ってるって、どこで?」
少女は答えなかった。
ただ、楽譜を見つめていた。
やがて、かすかな声で言った。
「……1992年」
その数字を聞いた瞬間、僕の頭の中に、あの水色のノートが浮かんだ。
1992年8月32日。
存在しないはずの日付。
何度も繰り返された、あの夏。
「……あのノートに書いてあったの?」
僕が尋ねると、少女はゆっくりとうなずいた。
「うん」
彼女は、楽譜を閉じた。
「この歌にはね、最初の形があったの」
「最初の形?」
「うん。今の歌より、もっと短くて、言葉も少なかった」
少女は、窓の外を見た。
「でも、旋律だけは、今と同じだった」
僕は、何も言えなかった。
「……どうして、健二が知っているの?」
彼女は、僕を見た。
僕にも、わからなかった。
知らないはずだった。
1992年には、僕はまだ生まれていない。
なのに、僕の口から、その旋律が出てきた。
僕は、自分の手を見た。
鉛筆を持つ手。
ルアーを投げる手。
少女と約束を交わした手。
この手で、僕は何をしてきたのだろう。
僕は、本当に、初めてこの歌を歌っているのだろうか。
*
昼休みが終わっても、僕たちは音楽室に残っていた。
少女は、鞄から水色のノートを取り出した。
僕が持っているものとよく似た、もう一冊のノートだった。
「これを見て」
彼女は、ノートを開いた。
最初のページには、日付が書かれていた。
1992年8月32日。
その下に、短い歌詞が残されていた。
今の歌とは、少し違う。
言葉が少なく、旋律の記号だけが何度も繰り返されている。
そして、ページの一番下に、こう書かれていた。
『この歌を、二人で歌うこと。』
僕は、文字を見つめた。
「……二人で?」
「うん」
少女はうなずいた。
「でも、誰と歌うのかは、書かれていないの」
「誰が書いたノートなの?」
「わからない」
彼女は、首を振った。
「私の字に似ているところもある。でも、私が書いたって、はっきり言えるわけじゃない」
僕は、ノートを見つめた。
ページの端には、何度も消した跡があった。
何かを書こうとして、途中でやめた跡。
名前を書こうとして、消した跡。
そして、そのすぐ下に、薄い文字が残っていた。
『歌う人の名前を、忘れないこと。』
僕は、その文字を指でなぞった。
「……名前」
少女が、僕を見た。
「うん」
「この歌を歌う人の名前を、忘れちゃいけないってこと?」
「たぶん」
彼女は、少し迷ってから続けた。
「でもね、私、ずっと不思議だったの」
「何が?」
「どうして、この歌には、名前が書かれていないんだろうって」
彼女は、ノートを閉じた。
「歌詞も、旋律も残っているのに。歌う人の名前だけ、どこにもない」
僕は、答えられなかった。
そのとき、音楽室の扉が開いた。
少年が入ってきた。
僕たちと一緒に、この歌の旋律を作ってきた少年だ。
「……まだ、ここにいたんだ」
「うん」
少女が答えた。
少年はピアノのそばまで歩いてきた。
そして、机の上に置かれた水色のノートを見た。
その瞬間、少年の表情が変わった。
「……それ」
彼は、ノートを見つめた。
「どこで、それを?」
少女は、驚いたように彼を見た。
「私のノートだけど……」
「違う」
少年は、首を振った。
「その日付」
彼は、ノートのページを指さした。
「1992年8月32日……」
彼の声が、少し震えた。
「僕、夢で見たことがある」
僕と少女は、顔を見合わせた。
「夢?」
僕が尋ねると、少年はうなずいた。
「小さい頃から、何度も同じ夢を見るんだ」
彼は、ゆっくりと話し始めた。
「古い音楽室が出てくる。窓の外には湖があって、誰かがピアノを弾いている」
少年は、目を閉じた。
「僕は、その人の隣に座っている。でも、顔が見えない」
彼は、唇をかんだ。
「その人が歌うんだ。今の歌と同じ旋律を」
音楽室が静かになった。
「僕は、夢の中で、いつも最後の一行を歌おうとする」
少年は、目を開けた。
「でも、声が出ない」
少女が、小さく息をのんだ。
「……どうして?」
少年は、首を振った。
「わからない」
そして、僕を見た。
「でも、今日は違う」
「何が?」
「さっき、廊下を歩いていたら、聞こえたんだ」
少年は、僕を見つめた。
「健二の声が」
僕は、息を止めた。
「……僕の?」
「うん」
少年は、うなずいた。
「歌っていたんだ。僕が夢の中で、ずっと歌えなかった旋律を」
僕は、何も言えなかった。
少女は、ノートを胸に抱いた。
しばらくして、彼女が口を開いた。
「……ねえ」
僕と少年は、彼女を見た。
「今日、もう一度、歌ってみない?」
少年が、少し驚いた顔をした。
「最後まで?」
少女は、うなずいた。
「うん。健二と、私と、あなたと」
僕は、彼女を見た。
「三人で?」
「うん」
少女は、少しだけ笑った。
「誰が歌うのか、まだわからないなら、みんなで歌ってみればいいんじゃないかな」
その言葉を聞いて、僕は少しだけ安心した。
誰か一人を選ばなくてもいい。
誰か一人に、全部を背負わせなくてもいい。
そう思った。
少年も、ゆっくりとうなずいた。
「……やってみよう」
*
午後4時32分 音楽室
午後四時三十二分。
昨日と同じ時刻だった。
けれど、今日は誰もカセットデッキに触れていなかった。
僕たちは、ピアノの周りに立っていた。
少女が、楽譜を譜面台に置いた。
少年が、鍵盤に指を置いた。
僕は、二人の間に立った。
「……準備はいい?」
少女が尋ねた。
僕はうなずいた。
少年も、うなずいた。
ピアノの音が始まった。
少女が歌い出す。
僕も、それに続いた。
少年は、ピアノを弾きながら、時々、小さな声で旋律をなぞった。
三人の声と音が、少しずつ重なっていく。
歌は、静かに進んだ。
湖のこと。
誰かと過ごした時間。
忘れてしまっても、消えないもの。
明日が来るかわからなくても、もう一度会いたいという願い。
僕は、歌いながら、胸の奥が熱くなるのを感じた。
この歌を、知っている。
初めて歌っているはずなのに。
ずっと前から、知っている。
そして、サビに入ったとき。
僕は、また、楽譜にない旋律を口ずさんだ。
今度は、少女も、少年も、止まらなかった。
少女が、その旋律に続いた。
少年の指が、鍵盤の上を動いた。
三人の音が、ひとつになった。
その瞬間、僕の頭の中に、見知らぬ光景が浮かんだ。
古い湖畔。
小さな釣具店。
木の下に置かれた、青いルアー。
そして、二人の子ども。
一人は、女の子。
もう一人は、男の子。
男の子が、青いルアーを手に持っていた。
女の子は、その隣で笑っていた。
僕は、その二人を知っているような気がした。
けれど、顔が見えない。
声も聞こえない。
ただ、二人が、同じ歌を口ずさんでいることだけがわかった。
僕は、歌い続けた。
旋律が、最後の部分に近づいていく。
少女の声が、少しずつ小さくなった。
少年のピアノも、ゆっくりと音を落としていった。
そして、最後の一行。
少女は、息を吸った。
僕は、彼女を見た。
彼女は、僕を見ていた。
その目には、涙が浮かんでいた。
僕は、名前を呼ぼうとした。
彼女の名前を。
ずっと思い出そうとしてきた名前を。
けれど、声が出なかった。
その瞬間。
少女が、僕の知らない名前を口にした。
「……悠真」
音楽が、止まった。
少年の指が、鍵盤の上で止まっていた。
僕は、息をするのも忘れていた。
悠真。
それは、僕の名前ではない。
少年の名前でもない。
けれど、その名前を聞いた瞬間、僕の胸の奥で、何かが大きく揺れた。
まるで、ずっと閉じられていた扉が、内側から叩かれたようだった。
少女は、口元を押さえた。
「……違う」
彼女は、首を振った。
「今のは……」
僕は、彼女を見つめた。
「……誰?」
少女は、答えなかった。
少年も、何も言わなかった。
音楽室には、ピアノの余韻だけが残っていた。
やがて、少女が、震える声で言った。
「……わからない」
彼女は、涙をぬぐった。
「でも、私……」
言葉が、そこで途切れた。
僕は、彼女の手を取った。
「……大丈夫」
そう言った自分の声が、少し震えていた。
大丈夫なはずがなかった。
僕たちは、今までずっと、彼女の名前を探してきた。
それなのに、歌の最後に出てきたのは、知らない誰かの名前だった。
悠真。
その名前は、どこから来たのだろう。
どうして、少女は、その名前を知っていたのだろう。
そして、なぜ僕は、その名前を聞いた瞬間、泣きそうになったのだろう。
*
しばらくして、少年がピアノから手を離した。
「……今の名前」
彼は、ゆっくりと口を開いた。
「僕、知ってる気がする」
少女が、顔を上げた。
「……本当に?」
「うん」
少年は、困ったように笑った。
「でも、誰なのかはわからない」
彼は、自分の手を見つめた。
「小さい頃から、夢の中で聞いていたような気がするんだ」
僕は、彼を見た。
「どんな夢?」
少年は、しばらく考えた。
「湖のそばで、誰かが名前を呼んでいる」
彼は、目を閉じた。
「何度も、何度も」
その声を思い出そうとしているようだった。
「でも、呼ばれている人の顔が見えない」
少年は、目を開けた。
「夢の中で、僕はいつも思うんだ」
「何を?」
「その人が振り返る前に、目が覚めてしまうって」
僕は、何も言えなかった。
少女は、ノートを開いた。
ページを何枚もめくる。
そして、あるところで手を止めた。
「……あった」
彼女の声は、かすれていた。
僕と少年は、ノートをのぞき込んだ。
そこには、古い文字が残されていた。
『悠真が歌えなかった歌。』
その下には、短い文章があった。
『あの子は、最後の一行を歌う前に、いつも私の名前を呼んだ。』
少女は、文字を見つめていた。
「……私の名前」
彼女は、つぶやいた。
「ここに、私の名前が書いてあるはずなのに」
僕は、ページを見た。
確かに、文章の最後には、何かを消した跡があった。
紙が薄くなるほど、何度も消しゴムをかけた跡。
名前を書こうとして、消した跡。
その下に、鉛筆の跡が、わずかに残っていた。
僕は、顔を近づけた。
文字は、ほとんど読めなかった。
けれど、一文字だけ。
最後の文字だけが、残っていた。
――子。
少女は、目を閉じた。
「……やっぱり」
彼女の声が、震えた。
「私は、あの子に、名前を呼んでほしかったんだ」
僕は、彼女の顔を見た。
「……誰に?」
少女は、答えなかった。
ただ、ノートを閉じた。
「……ごめんね」
彼女は、僕を見た。
「今日は、もう帰ろう」
僕は、うなずいた。
それ以上、何も尋ねなかった。
今は、まだ。
彼女自身にも、わからないことがあるのだろう。
それを無理に聞き出したくなかった。
僕たちは、音楽室を出た。
廊下には、夕方の光が差し込んでいた。
少年は、途中で別の教室へ向かった。
僕と少女は、昇降口まで一緒に歩いた。
靴を履き替えるとき、少女が小さな声で言った。
「……健二」
「うん?」
「今日、歌ってくれて、ありがとう」
僕は、彼女を見た。
「うん」
「……また、一緒に歌ってくれる?」
僕は、すぐに答えた。
「もちろん」
少女は、少しだけ笑った。
「……約束だよ」
「約束」
僕たちは、別々の道を歩き始めた。
僕は、何度か振り返った。
彼女も、同じように振り返っていた。
そのたびに、僕たちは、少しだけ笑った。
そして、最後に。
少女は、口の動きだけで、言った。
また、あした。
僕も、声に出さずに答えた。
また、あした。
*
午後9時13分 真船家
家に帰ると、水色のノートが机の上に置かれていた。
僕は、すぐに開いた。
最後のページには、新しい文字があった。
『十九回目。三人で歌った。』
その下に、もう一行。
『名前が、ひとつ戻った。』
僕は、息を止めた。
名前が戻った。
誰の名前が?
悠真。
少女が歌の最後に呼んだ名前。
その名前が、どこかに戻ったということなのだろうか。
僕は、ページをめくった。
そこには、見覚えのない文章が書かれていた。
『悠真は、忘れられたのではない。』
『悠真は、呼ばれなくなったのだ。』
僕は、文字を見つめた。
忘れられたのではない。
呼ばれなくなった。
それは、どう違うのだろう。
名前を忘れることと、名前を呼ばなくなること。
その二つは、同じではない。
忘れてしまったのなら、思い出せばいい。
けれど、呼ばなくなったのなら。
呼べなくなったのなら。
誰かが、その名前を呼ぶことを、やめてしまったのなら。
僕は、ノートの次の行を読んだ。
『二十回目は、釣具店へ。』
その下に、場所が書かれていた。
『湖の向こう。』
僕は、息をのんだ。
あの古い釣具店。
1992年の記録に残されていた、湖畔釣具店。
そして、青いルアーを渡してくれた、あの老人。
僕は、鞄からルアーを取り出した。
月明かりが、刻まれた文字を照らしていた。
また、あした。
その文字を見つめながら、僕は思った。
明日、湖の向こうへ行こう。
悠真という名前のことを、確かめよう。
そして、いつか。
少女の名前を、もう一度呼べるようになりたい。
僕は、ノートを閉じた。
そのとき、電話が鳴った。
午後九時十三分。
僕は、受話器を取った。
「……もしもし」
しばらく、何も聞こえなかった。
そして、聞き覚えのある声がした。
『……健二?』
少女だった。
「うん」
『……今日、歌ったね』
「うん」
『……聞こえた?』
僕は、少し考えた。
「何が?」
少女は、しばらく黙っていた。
そして、小さく言った。
『……あの子の声』
僕は、息を止めた。
「……悠真の?」
受話器の向こうで、彼女が息をのんだ。
『……その名前、覚えているんだね』
「うん。忘れられないよ」
少女は、少しだけ笑った。
『……そっか』
そして、静かに言った。
『じゃあ、お願いがあるの』
「何?」
長い沈黙があった。
やがて、彼女は言った。
『明日、湖の向こうへ行くでしょう?』
「……うん」
『そのとき、もし、古い釣具店に着いたら』
彼女の声が、少し震えた。
『誰もいなくても、名前を呼んで』
「……誰の?」
少女は、答えた。
『悠真の名前を』
電話の向こうで、何かがかすかに鳴った。
遠くから、ピアノの音が聞こえた気がした。
少女は、最後に、小さな声で言った。
『あの子は、ずっと待っているから』
電話が切れた。
僕は、しばらく受話器を持ったまま立っていた。
悠真は、誰なのだろう。
少女にとって、どんな人だったのだろう。
なぜ、誰にも名前を呼ばれなくなったのだろう。
そして、なぜ僕は、その名前を聞くたびに、懐かしい気持ちになるのだろう。
答えは、まだわからない。
けれど、明日は、湖の向こうへ行く。
あの古い釣具店へ。
誰もいなくても、名前を呼ぶために。
僕は、青いルアーを手に取った。
刻まれた文字は、静かにそこにあった。
また、あした。
僕は、小さくつぶやいた。
「……悠真」
その名前を口にした瞬間。
どこか遠くで、誰かが返事をしたような気がした。




