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第十八章 名前のない、十八回目の朝


2008年9月17日(水) 午前6時13分


目が覚めたとき、僕は自分の名前を知っていた。


真船健二。


それが僕の名前だ。


父さんや母さんが呼ぶ名前で、学校の名簿に書かれている名前で、テストの答案用紙の一番上に書く名前だ。


僕は、それを知っていた。


昨日の夜、何度も繰り返したからではない。


ノートに書かれていたからでもない。


ただ、僕は自分の名前を知っていた。


だから、最初は何もおかしいと思わなかった。


布団から出て、顔を洗い、朝食を食べる。


いつものように制服に着替え、鞄に教科書を入れる。


青いルアーを忘れないように、鞄の内ポケットにしまった。


それから、机の上に置かれた水色のノートを開いた。


昨夜、最後に読んだ言葉が気になっていた。


『今度は、君が自分の名前を忘れる。』


僕は、ページをめくった。


新しいページには、日付が書かれていた。


2008年9月17日。


その下に、いつものように文章が続いていた。


『十八回目の朝。』


『今日は、名前を確かめないでください。』


僕は眉をひそめた。


「……どういう意味だよ」


その下には、さらに一行。


『自分の名前を読もうとしないでください。』


僕は、思わず笑ってしまった。


名前を読むなと言われても、もう読んでしまった。


僕は自分の名前を知っている。


真船健二。


もう一度、心の中で繰り返した。


真船健二。


何も起きない。


当たり前だ。


こんなノートの言葉を、いちいち気にしていたらきりがない。


僕はノートを閉じようとした。


そのとき、ページの端に、小さな文字があるのに気づいた。


今まで見えていなかった文字だった。


僕は、顔を近づけた。


『名前を失うのは、名前が消えるからではない。』


その下には、何も書かれていなかった。


僕は、しばらく考えた。


名前が消えるのではない。


では、何が起きるのだろう。


名前を知っているのに、名前を自分のものだと思えなくなるのだろうか。


そんなことが、本当にあるのだろうか。


僕はノートを閉じた。


鞄を肩にかけ、玄関へ向かった。


靴を履き、ドアを開ける。


秋の空気が、頬に触れた。


その瞬間、僕は、なぜか振り返った。


誰もいない玄関。


いつもの家。


いつもの朝。


僕は、何かを忘れているような気がした。


でも、それが何なのかは、わからなかった。


*


午前8時19分 学校・教室


「真船、これ見せてくれない?」


クラスメートが、数学のノートを指さした。


「昨日の宿題、最後の問題がわからなくてさ」


「ああ、いいよ」


僕はノートを差し出した。


いつもの会話だった。


いつもの教室だった。


窓際の席では、誰かが友達と笑っている。


黒板には、昨日の授業で消し忘れた文字が残っている。


廊下からは、運動部の生徒たちの声が聞こえてくる。


何も変わっていない。


僕は、自分の席に座った。


そして、机の中から教科書を取り出そうとした。


そのとき、隣の席の女子が、僕を見た。


「あれ?」


「ん?」


「真船くん、今日、なんか変じゃない?」


「え、そう?」


「うん。さっきから、ずっと自分の手を見てる」


僕は、自分の手を見た。


右手。


左手。


特に変わったところはない。


「そんなことないと思うけど」


「そう?」


彼女は首をかしげたあと、友達に呼ばれて席を立った。


僕は、もう一度、自分の手を見た。


どうして、手を見ていたのだろう。


思い出せなかった。


授業が始まった。


先生が黒板に数式を書いていく。


僕は教科書を開き、ノートを取った。


その途中で、ふと気づいた。


自分の名前を書くときだけ、鉛筆が止まる。


ノートの右上。


日付を書く。


教科を書く。


そして、名前を書く。


いつもの手順だった。


僕は、ノートの端に名前を書こうとした。


まふね。


そこまでは、書けた。


けんじ。


その続きを書こうとした瞬間、鉛筆が止まった。


漢字が思い出せなかったわけではない。


真船健二。


その文字は、頭の中にちゃんとあった。


けれど、その名前を書こうとすると、妙な違和感があった。


それは、本当に自分の名前なのだろうか。


僕は、鉛筆を持ったまま動けなくなった。


「……真船?」


先生の声がした。


僕は顔を上げた。


「はい!」


「問題の答え、わかるか?」


黒板には、見覚えのある数式が書かれていた。


僕は答えた。


先生はうなずき、授業を続けた。


周囲の生徒たちは、何も気にしていなかった。


僕だけが、ノートの右上を見つめていた。


そこには、途中まで書かれた文字があった。


真船。


その先は、空白だった。


僕は、鉛筆を握り直した。


ゆっくりと、続きを書いた。


健二。


書けた。


ちゃんと書けた。


僕は、ほっと息を吐いた。


けれど、書き終えた文字を見た瞬間、また違和感が戻ってきた。


文字は読める。


意味もわかる。


なのに、それが自分を指しているという感覚だけが、少し遠い。


まるで、誰か別の人の名前を、僕が代わりに書いたようだった。


僕は、ノートを閉じた。


そして、授業が終わるまで、もう一度も名前を書かなかった。


*


午後3時27分 音楽室


音楽室には、誰もいなかった。


僕は扉を開け、ゆっくりと中へ入った。


昨日、少女が座っていたピアノ。


譜面台に置かれた、歌いかけの楽譜。


窓際の椅子。


そして、部屋の隅に置かれたカセットデッキ。


どれも、昨日と同じ場所にあった。


僕はピアノに近づいた。


楽譜を手に取る。


最後の一行は、まだ空白だった。


少女は、今日も歌えないのだろうか。


昨日、電話で聞いた声を思い出した。


『ただ、声が聞きたくなったの』


僕は、彼女の声を覚えていた。


柔らかくて、少しだけ震えていて。


最後に「また、あした」と言ったとき、どこか安心したような声だった。


僕は、目を閉じた。


思い出せる。


ちゃんと、思い出せる。


それなのに。


その声の主の名前を思い出そうとした瞬間、頭の中が白くなった。


少女。


湖で会う女の子。


一緒に釣りをする女の子。


歌を作っている女の子。


僕の名前を何度も呼んでくれた女の子。


わかっている。


僕は、彼女を知っている。


彼女と過ごした時間も覚えている。


でも、名前だけが、見つからなかった。


「……そんなはずない」


僕は、楽譜を机に置いた。


もう一度、思い出そうとした。


彼女が僕を見つめたときの顔。


泣きながら笑ったときの顔。


青いルアーを見つめたときの顔。


全部、覚えている。


なのに、名前だけがわからない。


僕は、机に手をついた。


息が苦しくなったわけではない。


頭が痛いわけでもない。


ただ、自分の中にあるはずのものが、手を伸ばしても届かない場所へ移動してしまったような感覚があった。


そのとき、音楽室の扉が開いた。


「……健二?」


少女だった。


僕は、振り返った。


彼女は、僕の顔を見て、足を止めた。


「どうしたの?」


僕は、彼女を見つめた。


声を聞いた。


昨日の声と同じだった。


朝、昇降口で聞いた声とも同じだった。


僕は、彼女を知っている。


そのことは、わかっていた。


だから、僕は笑おうとした。


「……なんでもないよ」


少女は、ゆっくりと近づいてきた。


「本当に?」


「うん」


彼女は、僕の顔をじっと見た。


そして、静かに言った。


「……私の名前、わかる?」


僕は、息を止めた。


どうして、わかったのだろう。


どうして、今、その質問をするのだろう。


僕は答えようとした。


もちろん、知っている。


何度も聞いたはずだ。


彼女が自分の名前を教えてくれた瞬間だって、きっとあった。


僕は、その記憶を探した。


湖のほとり。


木の下。


夕暮れの光。


彼女が、何かを言おうとしていた。


僕は、その声を聞こうとした。


けれど。


名前だけが、聞こえなかった。


「……ごめん」


気づいたときには、そう言っていた。


少女は、目を閉じた。


それから、ゆっくりとうなずいた。


「……そっか」


彼女は、泣かなかった。


怒りもしなかった。


ただ、僕の前に立っていた。


その静けさが、かえって苦しかった。


「……ごめん」


僕は、もう一度言った。


「違うんだ。君のことを忘れたわけじゃないんだ」


「うん」


「一緒に釣りをしたことも、歌を作っていたことも、昨日、電話してくれたことも、覚えてる」


「うん」


「君の声も覚えてる」


僕は、彼女を見つめた。


「なのに、名前だけが……」


少女は、僕の言葉を最後まで聞いた。


そして、静かに笑った。


「……よかった」


「え?」


「私の声、覚えていてくれたんだね」


僕は、何も言えなかった。


彼女は、僕の手を取った。


「じゃあ、今日は、それでいいよ」


その言葉が、胸に刺さった。


それでいい。


名前を忘れても。


彼女の名前を呼べなくても。


彼女は、そう言ってくれた。


僕は、うつむいた。


「……でも、僕は」


「うん」


「君の名前を、ちゃんと呼びたいんだ」


少女の手が、わずかに震えた。


「……ありがとう」


彼女は、小さく言った。


「でも、今は、無理に思い出さなくていい」


そして、僕の手を、ぎゅっと握った。


「あなたが私を忘れたわけじゃないって、わかったから」


*


僕たちは、音楽室を出た。


廊下には、夕方の光が差し込んでいた。


少女は、僕の隣を歩いていた。


何も話さなかった。


けれど、僕は、その沈黙が嫌ではなかった。


彼女の足音が聞こえる。


僕の足音が聞こえる。


二人分の足音が、廊下に響いている。


それだけで、彼女が隣にいることがわかった。


昇降口で靴を履き替えたとき、少女が言った。


「ねえ、健二」


「うん?」


「今日は、湖に行かない?」


「……行こう」


僕たちは、学校を出た。


湖へ向かう道は、いつもと同じだった。


角を曲がる。


小さな商店の前を通る。


坂道を下る。


遠くに、木々の向こうの水面が見えてくる。


僕は、何度も歩いた道を、少女と並んで歩いた。


そして、ふと思った。


もし、僕が彼女の名前を完全に忘れてしまったら。


それでも、この道を覚えていられるだろうか。


彼女と歩いた道だと、わかるだろうか。


もし、道まで忘れてしまったら。


僕は、もう一度、湖へたどり着けるだろうか。


少女が、僕の顔をのぞき込んだ。


「……また考え事?」


「うん」


「何を考えてるの?」


僕は、少し迷ってから答えた。


「君のこと」


少女は、目を丸くした。


「……え?」


「君のことを、忘れたくないなって」


少女は、立ち止まった。


僕も立ち止まった。


しばらく、彼女は僕を見つめていた。


やがて、困ったように笑った。


「……健二って、本当に、ずるいね」


「またそれ?」


「うん。またそれ」


少女は、僕の袖をつまんだ。


「ねえ、もし私が、あなたの名前を忘れたら」


「うん」


「そのときは、自己紹介してね」


「もちろん」


「何度でも?」


「何度でも」


少女は、うなずいた。


「じゃあ、私も、何度でも自己紹介する」


僕は、彼女を見た。


「……本当に?」


「うん」


彼女は、笑った。


「初めまして、って」


僕は、少しだけ笑った。


「それは、ちょっと寂しいな」


「そうかな」


少女は、湖の方を見た。


「私は、初めましてって言えることも、悪くないと思うよ」


「どうして?」


「だって、初めましてって言えたら、もう一度、出会えるでしょう?」


僕は、言葉を失った。


少女は、静かに続けた。


「何も覚えていなくても、もう一度、話しかけることができる」


彼女は、僕を見た。


「もう一度、一緒に釣りをすることができる」


そして、ほんの少しだけ、笑った。


「もう一度、好きな歌を聞いてもらうことだってできる」


僕は、彼女の顔を見つめた。


彼女は、忘れることを恐れている。


それでも、もう一度出会うことを、諦めていない。


それが、彼女の強さなのだろうか。


それとも。


何度も同じ夏を繰り返してきた人だけが、たどり着ける考え方なのだろうか。


僕には、まだわからなかった。


でも、ひとつだけ、わかったことがあった。


僕は、もう一度、彼女に出会いたいと思った。


たとえ、今の彼女を忘れてしまっても。


たとえ、彼女が僕を忘れてしまっても。


また、出会いたいと思った。


*


午後4時32分 湖畔


湖に着くと、少女はいつもの木の下に座った。


僕も隣に座った。


風が吹いていた。


水面には、小さな波が広がっていた。


僕は鞄から青いルアーを取り出した。


少女は、それを見つめた。


「……ねえ」


「うん?」


「そのルアー、貸してくれる?」


「もちろん」


僕はルアーを渡した。


彼女は、両手でそっと受け取った。


刻まれた文字を、指先でなぞる。


また、あした。


彼女は、長い間、その文字を見つめていた。


「……この言葉、好き」


「うん。僕も」


「どうして好きなの?」


僕は、少し考えた。


「明日も会えるって、約束しているみたいだから」


少女は、うなずいた。


「そうだね」


彼女は、ルアーを僕に返した。


「でもね」


「うん?」


「本当は、明日が来るって、誰にも約束できないんだよ」


僕は、彼女を見た。


少女は、湖を見つめていた。


「明日も晴れるかどうか、わからない」


「うん」


「明日、魚が釣れるかどうかも、わからない」


「そうだね」


「明日、私が今日のことを覚えているかどうかも、わからない」


彼女は、静かに言った。


「それでも、また明日って言いたいの」


僕は、何も言えなかった。


「明日が来ると、信じているからじゃないよ」


少女は、僕を見た。


「明日が来るかどうかわからなくても、また会いたいから」


胸の奥が、熱くなった。


彼女は、いつも同じ言葉を口にする。


また、あした。


でも、その言葉の意味は、少しずつ変わっていた。


最初は、ただの挨拶だった。


次に、明日も会うという約束になった。


そして今は。


明日が来るかどうかわからなくても、それでも誰かに会いたいという願いになっていた。


僕は、彼女の隣に座り直した。


「……僕も」


少女が、こちらを見た。


「うん?」


「明日も、君に会いたい」


彼女は、ゆっくりとうなずいた。


「……うん」


僕たちは、しばらく湖を見ていた。


魚は釣れなかった。


何も特別なことは起きなかった。


ただ、二人で座っていた。


それだけだった。


けれど、僕は、その時間を覚えていたいと思った。


名前がわからなくても。


日付がわからなくなっても。


この湖のそばで、彼女と一緒に座っていたこと。


彼女が、青いルアーの文字を指でなぞっていたこと。


そして、僕たちが、明日も会いたいと思っていたこと。


それだけは、覚えていたかった。


*


午後9時13分 真船家


家に帰ると、水色のノートが机の上に置かれていた。


僕は、ゆっくりとページを開いた。


『十八回目。名前が遠くなった。』


その下に、続きがあった。


『けれど、声は残っている。』


僕は、ほっと息を吐いた。


まだ、声は残っている。


彼女の声。


僕の名前を呼んだ声。


電話越しに「声が聞きたくなった」と言った声。


僕は、忘れていない。


そう思った。


ページをめくる。


そこには、見覚えのない文字があった。


『十九回目は、二人で歌う。』


その下には、短い一文。


『歌が終わる前に、名前を呼んでください。』


僕は、その文字を見つめた。


二人で歌う。


文化祭の歌。


少女が、最後の一行だけは自分で歌いたいと願った歌。


その歌が終わる前に、名前を呼ぶ。


僕は、彼女の名前を思い出そうとした。


けれど、やはり、思い出せなかった。


僕は、ノートを閉じた。


そのとき、電話が鳴った。


午後九時十三分。


僕は、受話器を取った。


「……もしもし」


しばらく、何も聞こえなかった。


そして、聞き覚えのある声がした。


『……健二?』


少女の声だった。


「うん。僕だよ」


『……よかった』


彼女は、少しだけ笑った。


『今日は、私の名前、思い出せた?』


僕は、受話器を握りしめた。


答えられなかった。


少女は、しばらく黙っていた。


そして、優しく言った。


『……大丈夫だよ』


僕は、目を閉じた。


『名前を忘れても、私がここにいることは、変わらないから』


涙が出そうになった。


「……ごめん」


『謝らないで』


彼女は、静かに言った。


『ねえ、健二』


「うん」


『明日、私と一緒に歌ってくれる?』


僕は、息をのんだ。


「……文化祭の歌?」


『うん』


「でも、最後の一行は……」


『最後の一行は、私が歌う』


彼女の声は、はっきりしていた。


『だから、その前まで、一緒に歌ってほしいの』


僕は、受話器を耳に当てたまま、目を閉じた。


「……わかった」


『本当?』


「うん。約束する」


少女は、小さく息を吸った。


『……ありがとう』


そして、いつもの言葉を口にした。


『また、あした』


僕は、答えた。


「また、あした」


電話が切れた。


静かになった部屋で、僕は水色のノートを開いた。


最後のページに、新しい文字が浮かんでいた。


『十九回目。約束ができた。』


その下には、少女のものと思われる、少し小さな文字があった。


『今度こそ、最後まで歌いたい。』


僕は、その文字を見つめた。


そして、ゆっくりとノートを閉じた。


名前を忘れても。


声が遠くなっても。


それでも、明日、彼女と一緒に歌う。


僕は、その約束を胸にしまった。


明日が来るかどうかなんて、わからない。


それでも。


僕は、明日を待っていた。


机の上で、青いルアーが月明かりを受けていた。


刻まれた文字は、変わらずそこにあった。


また、あした。


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