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第十七章 君の名前を、忘れたくない


2008年9月16日(火) 午前6時48分


目が覚めたとき、僕は自分の名前を思い出そうとしていた。


おかしな話だと思う。


自分の名前なんて、忘れるはずがない。


生まれたときから呼ばれてきた名前だ。学校でも、家でも、誰かと話すときにも、当たり前のように使っている。


それなのに、今朝の僕は、布団の中で天井を見つめながら、自分の名前を頭の中で繰り返していた。


真船健二。


真船健二。


真船健二。


何度か繰り返すうちに、ようやく落ち着いた。


忘れていたわけではない。


ただ、名前というものが、ひどく頼りないものに思えたのだ。


名前を呼べば、その人がそこにいるとわかる。


名前を覚えていれば、その人との時間を覚えているような気がする。


けれど、本当にそうなのだろうか。


名前を忘れたら、その人と過ごした時間まで消えてしまうのだろうか。


僕は机の上に目を向けた。


水色のノート。


青いルアー。


昨日、少女と交わした約束。


文化祭の日、彼女の名前を呼ぶ。


今度こそ、ちゃんと。


僕はノートを開いた。


昨日まで何も書かれていなかったページに、文字が浮かんでいた。


鉛筆で書いたような、薄い文字だった。


けれど、確かに読めた。


『名前を呼ぶ前に、その人の声を思い出してください。』


僕は、その一文を何度も読んだ。


その下には、もう一行。


『声を忘れた人は、名前だけを呼ぶことができる。』


意味がわからなかった。


名前だけを呼ぶことができる。


それは、声を忘れてしまった人のことなのか。


それとも、相手のことを何も覚えていないのに、名前だけを知っている人のことなのか。


僕は、ノートの端を指で押さえた。


ページの一番下に、さらに小さな文字があった。


『十七回目。今度は、声を忘れないで。』


十七回目。


また、その数字だ。


僕はノートを閉じた。


窓の外では、いつもの朝が始まっていた。


近所の家から、食器の触れ合う音が聞こえる。


どこかで自転車のブレーキが鳴った。


世界は、何も知らない顔をして動いている。


僕だけが、昨日と今日の間に、何かが抜け落ちていることを知っていた。


僕は青いルアーを鞄に入れた。


そして、家を出る前に、もう一度だけノートを開いた。


十七回目。


今度は、声を忘れないで。


僕は小さくつぶやいた。


「……忘れないよ」


誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。


*


午前8時26分 学校・昇降口


少女は、昇降口に立っていた。


僕が近づくと、彼女は顔を上げた。


「おはよう、健二」


「おはよう」


いつもの挨拶。


いつもの笑顔。


それなのに、僕は彼女の声を聞いた瞬間、胸の奥がざわついた。


昨日までと、少し違う。


何が違うのか、うまく言葉にできない。


声が小さいわけではない。


かすれているわけでもない。


ただ、どこか遠くから聞こえてくるような感じがした。


まるで、彼女が僕のすぐ前にいるのに、声だけが別の場所から届いているようだった。


「どうしたの?」


少女が首をかしげた。


「ずっと、私の顔を見てる」


「あ、ごめん」


僕は慌てて目をそらした。


「なんでもないよ」


「……本当に?」


「うん」


少女は、少しだけ不安そうな顔をした。


それから、僕の鞄を見た。


「今日は、釣りに行く?」


「行くつもりだけど」


「そっか」


彼女はうなずいた。


「じゃあ、私も行くね」


いつもなら、それだけでよかった。


今日も湖へ行く。


二人で釣りをする。


魚が釣れても、釣れなくても、夕方まで一緒にいる。


それだけで、十分だったはずだ。


けれど、僕は尋ねてしまった。


「ねえ」


「なに?」


「昨日、僕と何を約束したか、覚えてる?」


少女の表情が止まった。


ほんの一瞬だった。


けれど、僕は見逃さなかった。


「……昨日?」


「うん。湖で」


彼女は、目を伏せた。


「釣りをする約束?」


「それもあるけど」


僕は言葉を選んだ。


「文化祭の日のこと」


少女は、しばらく黙っていた。


そして、困ったように笑った。


「……ごめんね」


その言葉を聞いたとき、僕は昨日のノートを思い出した。


名前を呼ぶ前に、その人の声を思い出してください。


僕は、彼女の声を聞いていた。


今も、目の前で聞いている。


けれど、昨日の彼女の声を、僕は正確に思い出せるだろうか。


笑ったときの声。


歌い始める前の、小さな息遣い。


最後の一行を歌えなかったときの、かすかな震え。


どれも覚えているつもりだった。


でも、目の前の彼女が「ごめんね」と言った瞬間、昨日の声が、少しずつ遠ざかっていくような気がした。


僕は、思わず彼女の手を握った。


「……大丈夫だよ」


少女は、驚いたように僕を見た。


「健二?」


「忘れても、いいよ」


自分でも、何を言っているのかわからなかった。


「昨日のことを忘れても、僕が覚えてるから」


少女は、何も言わなかった。


「だから、無理に思い出さなくてもいい」


彼女の手は、冷たかった。


少女は僕の手を見つめたあと、小さく尋ねた。


「……じゃあ、もし」


「うん?」


「もし、健二が私のことを忘れちゃったら?」


僕は答えようとした。


でも、言葉が出なかった。


忘れない。


そう言えばいい。


今まで何度も、そう思ってきた。


けれど、僕の名前が書かれた水色のノート。


知らないはずの自分の声。


何度も繰り返される「十七回目」という言葉。


僕自身も、何かを忘れているのかもしれない。


僕は、彼女の手を握り直した。


「……そのときは、また君を探すよ」


少女は、目を見開いた。


「どうして?」


「忘れたことを、覚えていなくても」


僕は、自分の言葉を確かめるように続けた。


「君がいなくなったら、きっと寂しいと思うから」


少女の目に、涙が浮かんだ。


彼女は慌てて顔をそむけた。


「……ずるいよ」


「え?」


「そんなこと言われたら、忘れられなくなっちゃうじゃない」


その声は、昨日までと同じだった。


僕は、ようやく安心した。


少なくとも、今は。


彼女の声が、ここにある。


*


午後3時51分 湖


その日は、魚が一匹も釣れなかった。


僕が投げたルアーは、何度も水面に落ちた。


少女も、何度もキャストした。


けれど、魚は一度も食いつかなかった。


「今日は、魚たちもお休みかな」


少女が言った。


「昨日もそんなこと言ってなかった?」


「言ってたっけ?」


彼女は笑った。


その笑顔を見て、僕も笑った。


「言ってたよ」


「じゃあ、毎日お休みだね」


「それじゃ、いつ釣れるんだよ」


「明日?」


少女は、何でもないことのように言った。


僕たちは、しばらく笑っていた。


魚が釣れないことなんて、どうでもよかった。


こうして一緒にいられるなら、それでよかった。


やがて、少女は竿を置いた。


「ねえ、健二」


「うん?」


「私ね、最近、変なことがあるの」


僕は、彼女を見た。


「変なこと?」


「うん」


少女は、湖の向こうを見つめた。


「知っているはずの道が、わからなくなるの」


風が吹いた。


湖面に、細かな波が広がった。


「この前も、学校から音楽室に行こうとしたのに、気がついたら、違う廊下にいた」


「……迷ったの?」


「ううん」


少女は首を振った。


「道は、知っていたの。何度も歩いたことがあるから」


彼女は、自分の手を見つめた。


「でも、そこがどこなのか、わからなくなっちゃった」


僕は何も言えなかった。


「それから、歌も」


少女は、唇をかんだ。


「昨日、家で歌っていたら、途中で歌詞がわからなくなったの。何度も練習したのに」


「……そっか」


「でもね、不思議なの」


彼女は、僕を見た。


「歌詞は忘れたのに、歌っていたときの気持ちは覚えているの」


僕は、静かに聞いていた。


「誰かに聞いてほしかったこと。歌い終わったら、きっと泣いてしまうと思ったこと。それでも、最後まで歌いたかったこと」


少女は、少しだけ笑った。


「そういうことは、覚えているんだよ」


僕は、朝のノートを思い出した。


名前を呼ぶ前に、その人の声を思い出してください。


声を忘れた人は、名前だけを呼ぶことができる。


もしかすると、ノートは僕に教えようとしているのだろうか。


記憶というものは、全部が同じように消えるわけではないのだと。


言葉を忘れても、気持ちは残る。


名前を忘れても、声が残る。


そして、声さえ思い出せなくなったとしても。


誰かを大切に思った時間まで、消えてしまうわけではないのかもしれない。


「ねえ」


少女が言った。


「私が歌詞を忘れちゃったら、健二が教えてくれる?」


「もちろん」


「道がわからなくなったら?」


「一緒に探すよ」


「私が、健二の名前を忘れちゃったら?」


僕は、少し考えた。


「そのときは、もう一度、自己紹介する」


少女は、驚いたように僕を見た。


それから、笑った。


「……なにそれ」


「だって、名前を忘れたなら、もう一回教えればいいだろ」


「でも、初めて会ったときと同じにはならないよ」


「そうかもしれない」


僕は、うなずいた。


「でも、二回目に会ったときは、二回目の出会いになるんじゃないかな」


少女は、黙っていた。


そして、ゆっくりと目を伏せた。


「……健二って、時々、すごいこと言うね」


「そう?」


「うん」


彼女は、湖に向かって言った。


「忘れても、もう一度、出会えばいいんだね」


その言葉は、祈りのように聞こえた。


僕は、青いルアーを取り出した。


「そうだよ」


そして、彼女に見せた。


「これだって、何度でも投げられる」


少女は、ルアーを見つめた。


「でも、同じ場所に戻ってくるとは限らないよ」


「うん」


「魚が釣れるとも限らない」


「うん」


「……それでも?」


僕は笑った。


「それでも、また投げるよ」


少女は、ゆっくりとうなずいた。


「……そっか」


彼女は、青いルアーを見つめたまま、小さくつぶやいた。


「だから、あなたは……」


「え?」


「……ううん。なんでもない」


まただ。


彼女は、何かを言いかけて、やめた。


僕は、もう尋ねなかった。


いつか、彼女自身が話してくれると信じたかった。


*


午後4時32分 湖畔の木の下


風が止んだ。


湖面が、鏡のように静かになった。


僕たちは、並んで座っていた。


少女は、鞄から水色のノートを取り出した。


僕が持っているものと、よく似たノートだった。


けれど、表紙には何も書かれていない。


「それ、何?」


僕が尋ねると、少女はノートを胸に抱いた。


「……私のノート」


「歌詞が書いてあるの?」


「うん。でも、それだけじゃないよ」


彼女は、ノートを開いた。


最初のページには、日付が書かれていた。


1992年8月32日。


僕は、息を止めた。


「……これ」


少女は、僕を見た。


「知ってる?」


「うん。前に見たことがある」


彼女は、うなずいた。


「そうだよね」


その言い方が、気になった。


「どういうこと?」


「……私、このノートを、ずっと持っているの」


少女は、ページをめくった。


そこには、短い文章が並んでいた。


湖のこと。


釣りのこと。


誰かと交わした約束。


そして、何度も書かれた言葉。


また、あした。


「私ね」


少女は、静かに言った。


「このノートを読み返すと、いろんなことを思い出すの」


「どんなこと?」


「誰かと一緒にいたこと」


彼女は、ページの端をなぞった。


「その人が笑っていたこと。魚が釣れなくて、二人で困ったこと。帰り道に、また明日って言ったこと」


彼女は、少しだけ笑った。


「でも、誰と一緒にいたのか、わからないページもあるんだ」


僕の胸が、痛んだ。


「……名前が書いてないの?」


「名前は書いてあるよ」


少女は、顔を上げた。


「でも、読んでも、誰のことなのか思い出せないの」


僕は、彼女のノートを見つめた。


「それで、怖くならない?」


「怖いよ」


少女は、正直に答えた。


「とっても怖い」


彼女は、ノートを閉じた。


「だって、そこに書いてあるのは、私が大切にしていたはずの時間だから」


声が、少し震えていた。


「それなのに、私は、その時間を覚えていない」


少女は、顔を伏せた。


「大切だったことまで、忘れてしまったらどうしようって思うの」


僕は、何も言えなかった。


彼女が怖がっていたのは、記憶を失うことだけではないのだ。


自分が大切にしていたものを、大切だったとさえ思えなくなること。


誰かと過ごした時間を、自分の人生の一部として感じられなくなること。


それが、彼女にとって、何よりも怖いのだ。


僕は、ゆっくりと口を開いた。


「……忘れても、いいんじゃないかな」


少女が、顔を上げた。


「え?」


「いや、忘れたほうがいいって意味じゃないよ」


僕は、慌てて言い直した。


「忘れたくないものを、無理に忘れなくていい。でも、忘れちゃったからって、自分を責めなくてもいいと思う」


僕は、ノートを見た。


「君がその時間を大切にしていたことは、君が覚えていなくても、なかったことにはならないよ」


少女は、僕を見つめていた。


やがて、目に涙が浮かんだ。


「……健二」


「うん」


「どうして、そんなことが言えるの?」


僕は、答えようとした。


けれど、言葉が出なかった。


どうしてだろう。


僕は、彼女と過ごした時間を、まだ覚えている。


昨日のことも、一昨日のことも。


青いルアーを渡そうとしたときのことも。


それなのに、僕の中には、彼女と出会う前から知っているような感覚がある。


彼女が笑うと、懐かしい。


彼女が泣くと、胸が痛む。


彼女が「また、あした」と言うと、なぜか、もう一度会わなければならないと思う。


初めて出会ったはずなのに。


初めてではないような気がする。


「……わからない」


僕は、正直に答えた。


「でも、君と一緒にいると、そう思うんだ」


少女は、目を閉じた。


そして、小さくうなずいた。


「……そっか」


長い沈黙が流れた。


夕方の光が、少しずつ薄くなっていった。


そのとき、少女が、ぽつりと言った。


「ねえ、健二」


「うん?」


「もし、私が明日、あなたのことを忘れていたら」


僕は、彼女を見た。


「……うん」


「今日のこと、話してくれる?」


「もちろん」


「湖で、何を話したかも?」


「うん」


「私が、どんな顔をしていたかも?」


「……うん」


少女は、少しだけ笑った。


「じゃあ、もし私が、あなたの声を忘れていたら?」


僕は、答えられなかった。


声を忘れる。


それは、名前を忘れることよりも、もっと遠いことのように感じられた。


名前なら、もう一度教えられる。


顔なら、写真を見せることもできる。


でも、声は。


その人が、そこにいると感じさせてくれるもの。


その人が、自分に向かって話しかけてくれるときの、温度のようなもの。


それを忘れてしまったら、僕はどうすればいいのだろう。


僕は、彼女の手を取った。


「……そのときは、もう一度、話しかけるよ」


少女は、僕を見た。


「何度でも?」


「何度でも」


「私が、返事をしなくても?」


「うん」


「私が、あなたのことを知らない人みたいに見ても?」


僕は、うなずいた。


「うん」


少女は、唇をかみしめた。


そして、とうとう泣き出した。


声を出さずに。


ただ、僕の手を握りしめて。


僕は、彼女の隣にいた。


何もできなかった。


何が起きているのかも、わからなかった。


ただ、手を離さないことだけは、できた。


やがて、少女は涙をぬぐった。


「……ごめんね」


「謝らなくていいよ」


「うん」


彼女は、僕を見た。


そして、初めて聞くような声で、僕の名前を呼んだ。


「……真船健二くん」


僕は、息を止めた。


名字まで呼ばれたのは、初めてだった。


「え?」


少女は、少しだけ笑った。


「自己紹介、してくれるんでしょう?」


僕は、彼女を見つめた。


彼女は、泣きながら笑っていた。


僕も、笑った。


「……うん」


僕は、背筋を伸ばした。


「真船健二です」


そして、少し照れながら続けた。


「好きなものは、釣り。苦手なものは、宿題。得意なことは……まだ、よくわかりません」


少女が、くすっと笑った。


「なにそれ」


「自己紹介だよ」


「もう一回、言って」


「え?」


「もう一回、聞きたいの」


僕は、うなずいた。


「真船健二です」


もう一度。


「真船健二です」


もう一度。


彼女は、何度も僕の名前を聞いた。


まるで、その声を、心のどこかにしまっておこうとするように。


やがて、彼女は、小さく言った。


「……ありがとう」


その声を聞いた瞬間、僕は、朝のノートに書かれていた言葉を思い出した。


名前を呼ぶ前に、その人の声を思い出してください。


僕は、彼女の声を覚えていた。


今、この瞬間の声を。


泣きながら笑う声を。


僕の名前を、何度も呼んだ声を。


それだけは、忘れたくないと思った。


*


午後9時13分


家に帰ると、水色のノートが机の上に置かれていた。


朝、鞄に入れたはずだった。


僕は、鞄を確かめた。


中には、教科書と筆箱。


青いルアー。


ノートは、なかった。


僕は、机に近づいた。


ノートを開く。


最後のページに、文字が浮かんでいた。


『十七回目。声を、記録しました。』


その下には、見覚えのない文章があった。


『名前は、忘れられる。』


『顔も、忘れられる。』


『約束も、忘れられる。』


そこで、一行空いていた。


次の文字は、少しだけ濃かった。


『でも、誰かがあなたを呼んだ声は、あなたが忘れても、どこかに残ることがある。』


僕は、息をのんだ。


ページの一番下に、さらに一文があった。


『十八回目は、声を探す。』


その瞬間、部屋の電話が鳴った。


僕は、時計を見た。


午後九時十三分。


心臓が、強く打った。


電話の音は、いつもと同じだった。


何の変哲もない、家の電話の音。


それなのに、僕は、受話器を取るのが怖かった。


昨日までは、知らない番号からの電話だった。


今日は、家の電話だ。


誰がかけてきたのだろう。


僕は、受話器を取った。


「……もしもし」


しばらく、何も聞こえなかった。


ザーッという、かすかな雑音。


そして。


『……健二?』


少女の声だった。


僕は、受話器を握りしめた。


「……どうしたの?」


返事はなかった。


『……健二?』


もう一度。


今度は、少しだけ震えた声だった。


「うん。僕だよ」


長い沈黙。


やがて、少女が言った。


『……よかった』


その声を聞いた瞬間、僕は胸がいっぱいになった。


「何かあった?」


『ううん』


彼女は、少しだけ笑った。


『ただ、声が聞きたくなったの』


僕は、目を閉じた。


今日、彼女は僕の名前を何度も呼んだ。


僕は、彼女の声を忘れたくないと思った。


そして今、彼女は、僕の声を聞くために電話をかけてきた。


「……僕も」


僕は、静かに言った。


「君の声が聞きたかった」


受話器の向こうで、彼女が息をのんだ。


『……そっか』


「うん」


『……ねえ、健二』


「なに?」


少女は、しばらく黙っていた。


そして、かすかな声で言った。


『もし、明日、私があなたの声を忘れていたら』


僕は、受話器を握り直した。


『もう一度、電話してもいい?』


僕は、すぐに答えた。


「もちろん」


『何回でも?』


「何回でも」


『……ありがとう』


少女は、泣いているようだった。


僕は、何も尋ねなかった。


ただ、受話器を耳に当てていた。


やがて、彼女が言った。


『……また、あした』


僕は、答えた。


「また、あした」


電話が切れた。


静かになった部屋で、僕はしばらく受話器を持ったまま立っていた。


その声は、まだ耳の奥に残っていた。


彼女の声。


僕の名前を呼んだ声。


僕の声を聞きたいと言った声。


僕は、机の上のノートを開いた。


新しい文字が浮かんでいた。


『十八回目。声が届いた。』


そして、その下に。


『でも、今度は、君が自分の名前を忘れる。』


僕は、動けなかった。


自分の名前。


真船健二。


今朝、布団の中で何度も繰り返した名前。


僕は、ページをめくった。


そこには、さらに小さな文字があった。


『名前を忘れたとき、君は誰になるのだろう。』


僕は、ノートを閉じた。


窓の外には、夜が広がっていた。


明日は、九月十七日。


また、明日。


僕は、自分の名前を、小さくつぶやいた。


「……真船健二」


そして、もう一度。


「真船健二」


忘れたくなかった。


彼女の声も。


彼女の笑顔も。


彼女が、僕の名前を何度も呼んでくれたことも。


でも、僕はまだ知らなかった。


僕が本当に忘れてはいけない名前は、自分の名前ではないということを。


そして、その名前を思い出すために、僕自身の名前さえ、手放さなければならない日が来ることを。


机の上で、青いルアーが、月明かりを受けて光っていた。


刻まれた文字は、静かにそこにあった。


また、あした。



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