↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
17/23

第十六章 歌うのは、誰のため


2008年9月15日(月) 午前7時03分


朝、目を覚ますと、最初に思い出したのは、あの声だった。


――今度こそ、間に合ってくれ。


夢の中で聞いた声なのか。


昨日の音楽室で、カセットデッキから聞こえた声なのか。


もう、区別がつかなくなっていた。


僕は布団の中で、目を閉じた。


あの声は、確かに僕の声だった。


自分が自分の声を聞くというのは、不思議な感覚だった。


普段、自分が話しているときには、声は自分の頭の中で響いている。


録音した声を聞くと、少し違って聞こえる。


けれど、昨日の声は、そのどちらとも違っていた。


僕がまだ知らないことを知っている声。


僕がまだ経験していないことを、すでに経験してしまった声。


そして、僕が忘れてしまった何かを、今も覚えている声。


あの声は、僕に何を伝えようとしているのだろう。


僕は起き上がり、机に向かった。


水色のノートを開く。


昨日の最後のページには、あの言葉が残っていた。


『次は、歌う人を選んでください。』


その下には、何も書かれていなかった。


僕は、しばらくページを見つめた。


歌う人を選ぶ。


どうして、そんなことを僕が決めなければならないのだろう。


少女は、歌いたがっていた。


文化祭で歌うことを、ずっと願っていた。


それなのに、最後の一行だけが歌えない。


だったら、彼女が歌えるようになるまで、僕がそばにいればいい。


そう思っていた。


けれど、昨日の録音を聞いてから、何かが変わった。


あの歌には、僕の知らない時間が詰まっていた。


僕が生まれる前かもしれない時間。


まだ少女に出会っていなかったはずの時間。


それなのに、僕の名前が残されていた。


僕は、鉛筆を手に取った。


ノートに書く。


『どうして、僕が選ばなければならないのだろう。』


少し考えてから、もう一行書いた。


『歌う人が変わったら、何かが変わるのだろうか。』


そのとき、窓から風が入ってきた。


机の上の紙が、ひらりとめくれた。


僕は、顔を上げた。


カーテンが揺れている。


朝の光が、床に落ちている。


何も変わっていない。


それなのに、僕は、なぜか泣きそうになった。


僕は、青いルアーを手に取った。


金属の表面に刻まれた文字。


また、あした。


その文字を指先でなぞる。


そして、ふと思った。


もし、明日が来ることを信じられない人がいたら。


その人にとって、「また、あした」という言葉は、どんな意味を持つのだろう。


ただの挨拶だろうか。


それとも、いつか本当に来ると信じたい、願いのようなものだろうか。


僕は、ルアーをそっと机に戻した。


今日、少女に会おう。


そして、聞いてみよう。


彼女は、誰のために歌いたいのか。


自分のためなのか。


誰かのためなのか。


それとも、もう会えなくなってしまった誰かのためなのか。


僕は、鞄を手に取った。


その答えを聞くのが、少し怖かった。


*


午前9時41分 学校・音楽室


音楽室の扉を開けると、少女はピアノの前に座っていた。


窓から差し込む光が、彼女の髪を照らしている。


譜面台には、あの歌の楽譜が置かれていた。


最後の一行は、まだ空白だった。


「おはよう」


僕が声をかけると、少女は振り返った。


「おはよう、健二」


いつもの笑顔だった。


けれど、その目の奥には、眠れなかった人のような影があった。


「昨日、ちゃんと眠れた?」


僕が尋ねると、彼女は少し考えてから答えた。


「……あんまり」


「僕も」


少女は、くすっと笑った。


「健二も?」


「うん。昨日の録音が、頭から離れなくて」


その言葉を聞いた瞬間、少女の笑顔が消えた。


「……そっか」


彼女は、鍵盤に目を落とした。


「ねえ、健二」


「何?」


「昨日の録音、最後まで聞いたんだよね」


「うん」


「怖くなかった?」


僕は、すぐには答えられなかった。


怖かった。


自分の名前が、知らない時間の中に残されていること。


自分の声が、まだ知らない未来を知っていること。


そして、あの声が、何かを必死に伝えようとしていたこと。


どれも、怖かった。


でも、それだけではなかった。


「……怖かったよ」


僕は正直に答えた。


「でも、聞いてよかったと思う」


少女は、ゆっくりと顔を上げた。


「どうして?」


「わからないことが増えたけど、君が何かをひとりで抱えていることは、少しわかったから」


少女は、何も言わなかった。


「僕は、全部を知りたいわけじゃないんだ」


僕は続けた。


「ただ、君が悲しいときに、隣にいられたらいいと思う」


少女の目が揺れた。


彼女は、しばらく僕を見つめていた。


やがて、小さな声で言った。


「……そんなことを言われたら、歌いたくなっちゃうじゃない」


「え?」


「なんでもない」


少女は、慌てて顔を伏せた。


耳が少し赤くなっていた。


僕は、何も聞かなかったことにした。


窓の外で、鳥が鳴いた。


音楽室には、静かな時間が流れていた。


*


「ねえ、健二」


しばらくして、少女が言った。


「私、文化祭で歌いたい」


僕は、うなずいた。


「うん」


「ずっと、歌いたかったんだ」


少女は、楽譜を指先でなぞった。


「この歌を、誰かに聞いてほしかった。私がここにいたことを、誰かに覚えていてほしかった」


僕は、彼女の言葉を聞いていた。


「でもね」


少女は、少しだけ笑った。


「歌い終わったら、どうなるんだろうって、考えちゃうの」


「どうなるって?」


「この歌が終わったら、私がここにいたことも、終わっちゃうんじゃないかって」


僕は、首を振った。


「そんなことないよ」


「どうして、そう思うの?」


僕は、少し考えた。


「昨日、録音を聞いたから」


少女は、顔を上げた。


「あの歌は、昔からあったんだと思う。僕が生まれる前から、誰かが歌おうとしていたのかもしれない」


僕は、楽譜を見た。


「でも、今もここに残っている。君が歌って、僕が聞いて、あの録音を聞いた人がいて」


言葉を探しながら、続けた。


「歌が終わっても、聞いた人の中では続いていくんじゃないかな」


少女は、何も言わなかった。


僕は、彼女の顔を見た。


「だから、最後まで歌ってもいいと思う」


少女の唇が、わずかに震えた。


「……最後まで」


「うん」


「本当に、終わってしまっても?」


僕は、うなずいた。


「終わったら、また始めればいいよ」


少女は、目を伏せた。


そして、長い間、黙っていた。


やがて、彼女は楽譜を手に取った。


「……ねえ、健二」


「うん」


「もし、私が歌えなかったら」


僕は、彼女を見つめた。


「もし、最後の一行を、どうしても歌えなかったら」


彼女は、楽譜を胸に抱いた。


「代わりに、歌ってくれる?」


僕は、息をのんだ。


そのお願いは、思っていたよりも重かった。


彼女は、本当に歌いたいのだ。


この歌を、自分の声で。


それなのに、最後の一行だけは、僕に託そうとしている。


なぜだろう。


どうして、僕なのだろう。


僕は、答えを探した。


でも、見つからなかった。


「……どうして、僕なの?」


少女は、静かに答えた。


「あなたの声を、知っているから」


「僕の声?」


「うん」


彼女は、少しだけ笑った。


「あなたが歌うと、最後まで聞ける気がするの」


僕は、何も言えなかった。


それは、昨日の録音に残されていた声と、つながっているのだろうか。


僕は、彼女の言葉を胸の中で繰り返した。


あなたの声を、知っている。


彼女は、いつから僕の声を知っているのだろう。


僕たちが湖で出会う前から?


それとも、僕が忘れてしまった、もっと昔から?


少女は、僕の返事を待っていた。


僕は、ゆっくりと口を開いた。


「……わかった」


少女の顔が、少し明るくなった。


「本当?」


「うん。でも、ひとつだけ約束して」


「何?」


「僕が代わりに歌うことになっても、君は最後まで、僕のそばにいてほしい」


少女は、目を見開いた。


それから、ゆっくりとうなずいた。


「……うん。約束する」


僕たちは、指を絡めた。


小さな約束だった。


けれど、僕は、その指先の温かさを忘れたくないと思った。


*


午後2時17分 音楽室


午後になると、ほかの生徒たちも集まってきた。


文化祭の準備は、少しずつ進んでいた。


壁に飾りを貼る人。


椅子を運ぶ人。


舞台の配置を相談する人。


音楽室は、朝よりもずっと賑やかになった。


少女は、その中で歌の練習をしていた。


最初から、何度も。


歌詞を確かめ、旋律をなぞり、少しずつ声を大きくしていく。


彼女は、昨日よりもよく歌えていた。


最後の一行の手前までは。


そこに来ると、どうしても声が止まってしまう。


何度やっても、同じだった。


僕は、少し離れた椅子に座って、彼女を見ていた。


少女は、楽譜を見つめたまま、ぽつりと言った。


「……どうして、ここだけ歌えないんだろう」


誰に向けた言葉なのか、わからなかった。


僕に向けたのか。


自分自身に向けたのか。


それとも、ずっと遠くにいる誰かに向けたのか。


僕は、答えられなかった。


少年が、ピアノの前に座った。


「もう一回、最初からやってみよう」


少女は、うなずいた。


ピアノの音が始まった。


少女が歌い始める。


ゆっくりと。


丁寧に。


歌詞をひとつずつ確かめるように。


そして、最後の一行。


やはり、声は出なかった。


少女は、目を閉じた。


音楽が止まった。


音楽室には、誰も何も言わない時間が流れた。


やがて、少女は、小さな声で言った。


「……ごめんね」


少年が首を振った。


「謝らなくていいよ」


僕も、うなずいた。


「うん。まだ、時間はあるから」


少女は、僕たちを見た。


そして、少しだけ笑った。


「……ありがとう」


その笑顔は、いつもよりも少しだけ大人びて見えた。


僕は、ふと思った。


彼女は、本当はいくつなのだろう。


僕たちと同じ時間を生きているのだろうか。


それとも、何度も繰り返された夏の中で、僕たちとは違う時間を歩いているのだろうか。


答えは、まだわからなかった。


けれど、彼女が笑っていることだけは、確かだった。


*


午後4時32分 音楽室


その時刻になったとき、僕は時計を見ていた。


午後四時三十二分。


昨日、録音が再生された時刻。


カセットデッキは、ピアノの上に置かれていた。


テープは、ケースに戻されている。


誰も、触れていなかった。


けれど。


カチッ。


小さな音がした。


僕は、顔を上げた。


カセットデッキの再生ボタンが、ゆっくりと沈んでいた。


誰も押していない。


それなのに、テープが回り始めた。


ザーッという雑音。


そして、昨日と同じ声。


『……聞こえる?』


少女の声だった。


音楽室にいた生徒たちが、いっせいに振り返った。


『もし、これを聞いている人がいるなら』


録音の中の少女は、少しだけ息を吸った。


『お願いがあります』


僕は、動けなかった。


『この歌を、最後まで歌ってください』


音楽室が静まり返った。


『誰が歌ってもいいです』


少女の声は、震えていた。


『私でも、あなたでも、二人でも』


そこで、録音が少し乱れた。


ザーッというノイズ。


そして、次の言葉が聞こえた。


『でも、最後の一行だけは……』


声が途切れた。


しばらく、何も聞こえなかった。


やがて、かすかな声が戻ってきた。


『最後の一行だけは、私に歌わせてください』


僕は、少女を見た。


彼女は、真っ青な顔で、カセットデッキを見つめていた。


録音の中の少女は、続けた。


『それが、私がここにいた証だから』


その言葉を最後に、テープは止まった。


カチッ。


音楽室には、誰も何も言わなかった。


僕は、ゆっくりと少女に近づいた。


「……聞こえた?」


少女は、うなずいた。


涙が、頬を伝っていた。


「うん」


「最後の一行は、君が歌いたいんだね」


少女は、何度も小さくうなずいた。


「……うん」


僕は、彼女の手を取った。


「じゃあ、そうしよう」


少女は、顔を上げた。


「え?」


「僕が最初から歌ってもいい。君と一緒に歌ってもいい。でも、最後の一行は、君が歌う」


僕は、彼女を見つめた。


「それなら、どうかな」


少女は、声を出さずに泣いていた。


そして、ゆっくりと、僕の手を握り返した。


「……ありがとう、健二」


その声は、いつもよりも少しだけ、はっきりしていた。


*


その日の帰り道、僕たちは一緒に湖へ向かった。


夕暮れの湖は、静かだった。


水面には、薄いオレンジ色の光が広がっていた。


少女は、いつもの木の下に座った。


僕も、その隣に座った。


しばらく、何も話さなかった。


ただ、湖を見ていた。


やがて、少女が口を開いた。


「ねえ、健二」


「うん」


「もし、文化祭の日に、私が最後まで歌えたら」


僕は、彼女を見た。


「うん」


「そのときは、私の名前を呼んでくれる?」


胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。


名前。


僕が何度も聞き、何度も忘れてしまった名前。


「……うん」


僕は答えた。


「今度こそ、ちゃんと呼ぶよ」


少女は、少しだけ笑った。


「約束だよ」


「約束」


僕たちは、湖を見つめた。


夕日が、少しずつ沈んでいく。


風が吹いた。


水面に、小さな波紋が広がった。


僕は、青いルアーを取り出した。


少女は、それを見つめた。


「ねえ、そのルアー」


「うん?」


「いつか、私に貸してくれる?」


「もちろん」


僕は笑った。


「でも、なくさないでよ」


少女は、くすっと笑った。


「なくさないよ」


そして、小さな声で言った。


「……今度こそ」


僕は、その言葉を聞いた。


けれど、何も尋ねなかった。


今は、まだ。


彼女が話せるようになるまで、待っていたかった。


湖の向こうで、鳥が一羽、飛び立った。


夕日が沈んでいく。


僕たちは、しばらくそこにいた。


明日も、ここに来よう。


そう思った。


何が起きても。


何を忘れても。


僕たちが交わした約束だけは、なくさないように。


少女が、静かに言った。


「また、あした」


僕は、答えた。


「また、あした」


その言葉が、夕暮れの湖に溶けていった。


そして、僕たちの知らない場所で。


誰かが、古い録音テープを巻き戻していた。


何度も。


何度も。


同じ歌を、最初から聞くために。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。