第十五章 午後四時三十二分の録音
2008年9月14日(日) 午前8時12分
目を覚ますと、窓の外で鳥が鳴いていた。
日曜日だった。
いつもなら、もう少し眠っていてもいい時間だったけれど、僕はすぐに布団から出た。
机の上には、青いルアーが置いてあった。
その隣に、水色のノート。
昨日の夜、何度も読み返した最後のページには、あの言葉が残っている。
『明日は、文化祭の録音を聞いてください。午後四時三十二分。』
僕は時計を見た。
午前八時十二分。
午後四時三十二分まで、あと八時間二十分。
たったそれだけの時間なのに、ひどく遠い未来のように感じた。
僕はノートを開いた。
昨日、湖の向こうへ行ったこと。
古い釣具店を見つけたこと。
そして、湖面に映った少女の姿。
それらを読み返しているうちに、ふと気づいた。
昨日の記録には、ひとつだけ書いていないことがあった。
あの古い釣具店で見た、写真のことだ。
若い頃の釣具屋の老人。
その隣に立っていた、青い帽子の少年。
僕は、その少年の顔を思い出そうとした。
少し不機嫌そうで、でも、どこか寂しそうな顔。
知らない人のはずなのに、見覚えがある。
まるで、昔の自分を写真で見たような、不思議な感覚だった。
僕は、鉛筆を手に取った。
そして、ノートに書いた。
『あの少年は、誰だったのだろう。』
書き終えた瞬間、ページの下に、薄い文字が浮かび上がった。
自分が書いた文字ではなかった。
『その答えを知る前に、歌を聞いて。』
僕は鉛筆を置いた。
もう驚かなかった。
不思議なことが起こるたびに、僕は少しずつ、何かを受け入れ始めていた。
このノートは、ただ過去を書き残すためのものではない。
僕が忘れてしまった何かを、僕自身に伝えようとしている。
ただし、すべてを教えてくれるわけではない。
なぜなら、最後に答えを見つけるのは、僕自身でなければならないからだ。
僕はノートを閉じた。
今日は、音楽室へ行こう。
午後四時三十二分。
その時間に、何が起こるのかを確かめるために。
*
午前10時26分 学校・音楽室
日曜日の学校は、平日とはまるで違う場所のようだった。
廊下には人影が少なく、窓から入る光が床に長い四角形を作っている。
文化祭の準備をするために登校している生徒もいたけれど、校舎全体は静かだった。
僕は音楽室の前で立ち止まった。
扉には、紙が貼られていた。
『文化祭準備中。関係者以外立入禁止。』
僕は、そっと扉を開けた。
中には誰もいなかった。
ピアノ。
譜面台。
壁際に積まれた段ボール。
窓際に並んだ椅子。
そして、ピアノの上に、一台の古いカセットデッキが置かれていた。
僕は、近づいた。
見覚えのある機械だった。
小学校の頃、先生が音楽を流すときに使っていたものに似ている。
角の部分は擦り切れ、再生ボタンには小さな傷があった。
その横に、カセットテープが一つ置かれていた。
透明なケースに入っている。
ラベルには、鉛筆でこう書かれていた。
『文化祭前日 16:32』
僕は、息を止めた。
昨日、ノートに書かれていた時刻と同じだった。
午後四時三十二分。
テープのケースを裏返す。
そこには、もう一行あった。
『最後まで聞いてください。途中で止めないで。』
誰が書いたのだろう。
少女だろうか。
それとも、僕なのだろうか。
僕はテープを持ち上げた。
軽い。
けれど、手のひらの中で、不思議な重みを感じた。
ケースを開けようとした、そのとき。
「それ、見つけたんだ」
背後から声がした。
僕は振り返った。
音楽室の入口に、少年が立っていた。
文化祭の歌に、最初のメロディーをつけた少年だった。
彼は僕を見ると、少し困ったように笑った。
「おはよう」
「……おはよう」
僕はテープを見せた。
「これ、君の?」
少年は首を振った。
「違うよ」
「じゃあ、誰の?」
「わからない」
彼は、窓際の椅子に腰を下ろした。
「ただ、昨日、ここに来たときには、もう置いてあった」
「昨日?」
「うん。誰もいないと思って入ったら、ピアノの上にあったんだ」
少年はテープを見つめた。
「ラベルを見たとき、少し変だと思った」
「どうして?」
「文化祭前日って書いてあるだろ」
彼は、カレンダーを指さした。
壁に掛けられたカレンダーには、文化祭の日付が赤い丸で囲まれていた。
まだ、本番までは数日ある。
「今年の文化祭前日は、九月十七日だよ」
僕は、ラベルを見た。
『文化祭前日 16:32』
確かに、日付は書かれていない。
ただ、文化祭前日としか書かれていなかった。
「去年のテープかもしれないな」
僕が言うと、少年は静かに首を振った。
「去年の文化祭は、こんなテープを使ってないよ」
「じゃあ、もっと前?」
「そうかもしれない。でも……」
少年は、言葉を切った。
「昨日、これを見たとき、変な感じがしたんだ」
「変な感じ?」
「うん。まだ聞いてないのに、何が入っているのか知ってるような気がした」
僕は、彼を見た。
少年は、少し恥ずかしそうに笑った。
「変だよな」
「……いや」
僕は、テープを見つめた。
「僕も、そんな感じがする」
少年は、何も言わなかった。
窓の外で風が吹いた。
譜面台に置かれた楽譜が、一枚だけめくれた。
そのページには、少女の歌詞が書かれていた。
最後の一行は、まだ空白だった。
「ねえ」
少年が言った。
「これ、午後四時三十二分に聞こうとしてる?」
僕は、うなずいた。
「うん」
「そっか」
彼は、少しだけ笑った。
「じゃあ、その時間まで待とう」
「一緒に?」
「もちろん」
少年は、ピアノの蓋に手を置いた。
「僕も、最後まで聞きたいから」
*
午後1時08分 音楽室
時間は、ゆっくりと過ぎていった。
僕と少年は、音楽室で文化祭の準備を手伝った。
段ボールを運び、椅子を並べ、壁に貼る飾りを作った。
何気ない作業だった。
けれど、僕は何度も時計を見てしまった。
午後一時。
一時半。
二時。
時刻が進むたびに、カセットテープの存在が気になった。
何が録音されているのだろう。
少女の歌だろうか。
文化祭の練習風景だろうか。
それとも、誰かの声だろうか。
僕は、少女のことを考えた。
昨日、彼女は湖に来なかった。
いや、僕は彼女を見た気がした。
湖の向こう。
水面の中。
あれは、本当に彼女だったのだろうか。
僕は、何度もその場面を思い返した。
少女は、何も言わなかった。
ただ、唇を動かした。
――ごめんね。
どうして謝ったのだろう。
僕が何かを忘れてしまったから?
それとも、彼女自身が、何かを忘れてしまったから?
答えはわからなかった。
「健二」
少年に呼ばれて、僕は顔を上げた。
「これ、どう思う?」
彼は、歌詞の紙を持っていた。
「ここのメロディーなんだけどさ」
少年は、ピアノを弾いた。
ゆっくりとした旋律。
夕暮れの湖を思わせる、静かな音。
僕は、その音を聞いた。
不思議だった。
昨日、湖で聞いた歌と同じだった。
でも、少し違う。
昨日の歌には、最後の一行があった。
今日は、その一行がまだ歌われていない。
「ここ、どうしたらいいと思う?」
少年が尋ねた。
僕は、しばらく考えた。
「……無理に埋めなくてもいいんじゃないかな」
「え?」
「最後の一行」
僕は、楽譜を見た。
「今は、空白のままでもいいと思う」
少年は、鍵盤に目を落とした。
「でも、歌って、完成させないといけないだろ?」
「そうかな」
僕は、窓の外を見た。
湖は、ここからは見えない。
それでも、あの水面を思い出すことができた。
「完成しなくても、誰かが覚えていてくれたら、続いていくんじゃないかな」
少年は、静かに僕を見た。
「……それ、誰かに言われた?」
僕は、首を振った。
「いや。今、思った」
少年は、少しだけ笑った。
「そっか」
そして、再びピアノを弾き始めた。
今度は、最後の音を弾かなかった。
旋律は、終わらずに空中へ消えていった。
僕は、その音を聞きながら思った。
この歌は、最後まで歌われることを怖がっているのではない。
最後まで歌ってしまったあと、誰も続きを歌ってくれなくなることを、怖がっているのかもしれない。
だから、最後の一行は空白のままなのだ。
誰かが、そこに続きを書く日を待っている。
僕たちが、続きを歌う日を。
*
午後4時28分 音楽室
午後四時二十八分。
僕たちは、カセットデッキの前に座っていた。
少年は、窓の外を見ていた。
僕は、テープのケースを手に持っていた。
ラベルには、変わらず同じ文字が書かれている。
『文化祭前日 16:32』
午後四時三十分。
音楽室には、誰も入ってこなかった。
廊下の向こうから、遠くの話し声が聞こえる。
それも、少しずつ遠ざかっていった。
午後四時三十一分。
僕は、テープをデッキに入れた。
再生ボタンには、指を置いただけだった。
まだ、押さない。
午後四時三十二分。
時計の針が、ぴたりと重なった。
僕は、再生ボタンを押した。
カチッ。
小さな機械音。
テープが回り始めた。
しばらく、何も聞こえなかった。
ザーッという、古い録音特有の雑音だけが流れていた。
少年が、息をひそめた。
僕も、動かなかった。
やがて、音が聞こえた。
椅子を引く音。
紙をめくる音。
誰かが、マイクの前に座ったようだった。
そして。
「……えっと」
少女の声が聞こえた。
僕は、息を止めた。
間違いない。
彼女の声だった。
けれど、いつもの声よりも幼かった。
少し高くて、言葉の端が頼りない。
まるで、初めて人前で話す子どものようだった。
『これ、録れてるのかな』
少女が言った。
テープの向こうで、誰かが笑った。
少年の声だった。
『録れてるよ』
『ほんと?』
『たぶん』
『たぶんじゃ困るよ』
少女が笑った。
僕は、その笑い声を知っていた。
何度も聞いた。
湖で魚が釣れたとき。
歌詞を読み間違えたとき。
僕が冗談を言ったとき。
でも、この笑い声は、どこか違っていた。
もっと昔の声だった。
僕が、まだ彼女と出会っていなかった頃の。
録音の中で、紙をめくる音がした。
『じゃあ、歌うね』
少女が言った。
ピアノの音が始まった。
ゆっくりとした旋律。
僕は、思わず少年を見た。
彼も、驚いた顔をしていた。
その旋律は、僕たちが今、音楽室で作っている曲と同じだった。
けれど、録音のほうが、ずっと古い。
最初の音から、少しだけ音程が揺れていた。
少女は歌い始めた。
まだ完成していない歌。
湖のこと。
待つこと。
忘れてしまうこと。
そして、明日を願うこと。
歌詞は、僕たちが知っているものと、少しずつ違っていた。
知らない言葉が、いくつも混じっていた。
でも、歌の真ん中あたりで、少女は、僕たちの知っている一節を歌った。
「忘れてしまっても、ここにいたことは、消えないから」
僕は、目を閉じた。
胸が苦しかった。
その言葉を、僕は知っている。
どこかで聞いた。
いや。
僕自身が、そう思っていたのかもしれない。
歌が終わった。
けれど、録音は止まらなかった。
しばらく、ピアノの余韻だけが続いていた。
そして、少女が言った。
『ねえ』
『ん?』
少年が答えた。
『もし、明日、私がここにいなかったら、どうする?』
僕は、目を開けた。
録音の中の少年は、すぐには答えなかった。
やがて、笑うような声で言った。
『探すよ』
『どこを?』
『湖とか』
『それだけ?』
『学校も』
『それでも見つからなかったら?』
沈黙。
録音の中の少年は、少し考えてから答えた。
『……明日も探す』
少女は、何も言わなかった。
しばらくして、小さく笑った。
『そっか』
その声が、ひどく寂しく聞こえた。
僕は、カセットデッキに手を伸ばしかけた。
でも、止めなかった。
最後まで聞くと決めたからだ。
録音は続いた。
『ねえ、約束して』
少女が言った。
『何を?』
『私が、あなたのことを忘れても』
声が震えていた。
『私が、あなたの名前を呼べなくなっても』
少しの沈黙。
『あなたは、私のことを、嫌いにならないでね』
僕は、手を握りしめた。
録音の中の少年は、静かに答えた。
『嫌いになんか、ならないよ』
『ほんと?』
『ほんと』
『何回忘れても?』
『何回忘れても』
『何回、明日が来なくても?』
長い沈黙があった。
やがて、少年は言った。
『……そのときは、また明日を探すよ』
僕の目から、涙がこぼれた。
どうして泣いているのか、わからなかった。
ただ、その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが動いた。
遠い記憶。
手をつないだ感触。
夏の匂い。
誰かの笑顔。
そして、何度も交わした約束。
それらが、ひとつになりかけた。
けれど、完全にはつながらなかった。
録音の中で、少女が最後に言った。
『じゃあ、また、あした』
少年が答えた。
『また、あした』
そこで、音楽が始まった。
僕たちが知っている、あの旋律だった。
けれど、今度は違った。
最後の一行が、歌われていた。
少女の声で。
はっきりと。
「また、あした」
カセットテープは、そこで止まった。
カチッ。
小さな音が、音楽室に響いた。
僕は、動けなかった。
少年も、何も言わなかった。
しばらくして、彼が小さな声で言った。
「……これ、誰の声なんだろう」
僕は答えられなかった。
録音の中の少女は、間違いなく、あの少女だった。
けれど、録音された時期は、僕たちが生まれるよりも前かもしれない。
そんなはずはない。
そんなはずはないのに。
僕は、テープを取り出した。
ケースの裏側に、まだ読んでいない文字があった。
今まで、そこには何も書かれていなかったはずだった。
けれど、今は、確かに文字があった。
鉛筆で、小さく。
『録音した人:真船健二』
僕は、息を止めた。
「……健二?」
少年が、僕を見た。
「どうした?」
僕は、ケースを彼に見せた。
彼の顔から、笑みが消えた。
「真船健二って……」
僕は、うなずいた。
「僕の名前だよ」
音楽室が、静まり返った。
窓の外で、風が吹いた。
楽譜のページが、一枚だけめくれた。
僕は、もう一度、テープのラベルを見た。
『文化祭前日 16:32』
そして、録音した人。
真船健二。
僕は、この録音をした覚えがない。
この声を録音した覚えもない。
それなのに、テープのケースには、僕の名前が書かれていた。
僕は、テープを握りしめた。
そのとき、音楽室の扉が開いた。
少女が立っていた。
彼女は、僕たちを見た。
それから、カセットデッキを見た。
最後に、僕の手の中にあるテープを見た。
少女の顔から、血の気が引いていった。
「……聞いたの?」
僕は、うなずいた。
「うん」
少女は、目を閉じた。
そして、静かに言った。
「そっか」
僕は、彼女に近づいた。
「ねえ」
少女は、顔を上げなかった。
「この録音、いつのものなの?」
沈黙。
「どうして、君の声が入ってるの?」
少女の肩が、小さく震えた。
「そして、どうして……」
僕は、テープのケースを見せた。
「僕の名前が書いてあるの?」
少女は、しばらく何も言わなかった。
やがて、ゆっくりと顔を上げた。
その目には、涙が浮かんでいた。
「健二」
「うん」
「お願いがあるの」
彼女は、震える声で言った。
「この録音のことを、誰にも話さないで」
「どうして?」
「お願い」
「でも……」
「お願い、健二」
彼女は、僕の手を握った。
その手は、冷たかった。
いつもより、ずっと冷たかった。
「もし、あなたが全部を知ってしまったら」
少女は、唇をかんだ。
「……私は、もう一度、あなたに会えなくなるかもしれない」
僕は、息をのんだ。
「どういう意味?」
少女は、首を振った。
「まだ、言えない」
「どうして、いつもそうなんだよ」
僕は、思わず声を荒らげた。
「どうして、何も教えてくれないんだよ!」
少女は、びくりと肩を震わせた。
僕は、すぐに後悔した。
怒りたかったわけじゃない。
彼女を責めたかったわけでもない。
ただ、知りたかった。
彼女が何を抱えているのか。
どうして、こんなにも寂しそうなのか。
どうして、明日という言葉を口にするたびに、泣きそうな顔をするのか。
少女は、ゆっくりと手を離した。
「……ごめんね」
また、その言葉だった。
僕は、目を伏せた。
「謝らないでよ」
小さな声で言った。
「僕は、君を責めたいんじゃないんだ」
少女は、僕を見た。
「ただ……」
言葉が、うまく出てこなかった。
「ただ、君と一緒にいたいんだ」
少女の目から、涙がこぼれた。
僕は、彼女の手を取った。
「全部を知らなくてもいい。今すぐ、答えがわからなくてもいい」
僕は、彼女を見つめた。
「でも、ひとりで抱えないでよ」
少女は、泣きながら笑った。
「……健二は、ずるいね」
「何が?」
「そんなことを言われたら、もっと一緒にいたくなるじゃない」
僕は、何も言えなかった。
少女は、窓の外を見た。
午後の光が、彼女の横顔を照らしていた。
「ねえ、健二」
「うん」
「もし、私が明日、ここにいなかったら」
僕は、首を振った。
「また探すよ」
少女は、目を閉じた。
「もし、明後日もいなかったら?」
「その次の日も探す」
「もし、何年たっても見つからなかったら?」
僕は、答えた。
「……それでも、忘れないようにする」
少女は、僕を見た。
「忘れないように?」
「うん」
僕は、青いルアーを取り出した。
刻まれた文字。
また、あした。
「たぶん、全部は覚えていられないと思う。でも、君と過ごした時間を、大切だったってことだけは、忘れないようにする」
少女は、ルアーを見つめた。
そして、ゆっくりとうなずいた。
「……ありがとう」
音楽室の窓から、風が入ってきた。
譜面台の上の楽譜が、また一枚、めくれた。
最後の一行は、まだ空白だった。
けれど、僕には、そこに何を書くべきなのか、少しだけわかった気がした。
完成させるための言葉ではない。
終わらせないための言葉でもない。
明日、また誰かに会いたいと願う、その気持ちを残すための言葉。
僕は、少女に言った。
「ねえ。いつか、この歌を最後まで歌おう」
少女は、泣きながら笑った。
「……うん」
「そのときは、僕も一緒に歌うよ」
「本当に?」
「本当」
少女は、小さくうなずいた。
「じゃあ、約束」
僕たちは、指をそっと絡めた。
子どもの頃にしたような、小さな約束だった。
けれど、その約束は、僕たちにとって、何よりも大切なもののように思えた。
少女が言った。
「また、あした」
僕は答えた。
「また、あした」
その言葉を交わした瞬間、カセットデッキの中で、何かが小さく鳴った。
カチッ。
再生ボタンは、押されていなかった。
テープも、回っていなかった。
それなのに、スピーカーから、かすかな声が聞こえた。
ノイズの向こう。
ひどく遠い場所から。
少年の声だった。
僕自身の声だった。
「……今度こそ、間に合ってくれ」
少女の顔から、笑みが消えた。
僕は、彼女を見た。
「……今の、聞こえた?」
少女は、ゆっくりとうなずいた。
そして、涙をぬぐいながら、小さくつぶやいた。
「……もう、時間がないんだね」
僕は、何も言えなかった。
午後四時三十二分。
録音が終わった時刻。
そして、僕たちの知らない誰かが、何度も繰り返してきた約束の時刻。
僕は、カセットテープをケースに戻した。
ラベルの文字を、もう一度見た。
『文化祭前日 16:32』
その下に、新しい文字が浮かび上がっていた。
『次は、歌う人を選んでください。』
僕は、顔を上げた。
少女は、僕を見つめていた。
その目には、悲しみと、ほんの少しの希望があった。
僕は、まだ知らない。
この歌を誰が歌うのか。
なぜ、歌う人を選ばなければならないのか。
そして、選ばれなかった人は、どうなるのか。
ただ、ひとつだけわかっていた。
この歌は、もう僕たちだけのものではない。
何度も繰り返された夏の中で、誰かが歌おうとして、歌えなかった歌。
誰かが完成させようとして、完成できなかった歌。
そして、誰かが、最後の一行を待ち続けている歌。
僕は、少女を見た。
彼女は、静かにうなずいた。
それから、口を開いた。
けれど、声にはならなかった。
彼女の唇が、ゆっくりと動いた。
僕には、その言葉が聞こえた気がした。
――今度は、あなたが決めて。
窓の外で、夕日が傾いていた。
音楽室の床に、長い影が伸びていた。
僕たちは、しばらく、その場に立っていた。
まだ、何も終わっていない。
けれど、何かが始まってしまった。
僕は、カセットテープを鞄にしまった。
そして、心の中で、もう一度だけ願った。
明日も、彼女に会えますように。
明日も、彼女の声が聞けますように。
そして、いつか。
彼女が、最後の一行を、笑顔で歌えますように。
――また、あした。




