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第二十二章 君だけが知らない約束


2008年9月21日(日) 午前8時32分


目を覚ましたとき、僕は自分の名前を忘れかけていた。


正確には、忘れたわけではない。


自分の名前が、誰かから借りてきたもののように感じられたのだ。


真船健二。


何度も頭の中で繰り返す。


真船健二。


それは確かに僕の名前だった。


学校の名簿にも、学生証にも、家の郵便受けにも書いてある。母さんが僕を呼ぶときにも使うし、友達がふざけて呼ぶときにも使う。


なのに、昨夜から、その名前を口にするたび、別の誰かの顔が浮かぶ。


写真の中の少年。


青いルアーを握りしめた、顔の見えない子ども。


そして、電話の向こうで笑った悠真。


『僕のこと、覚えてる?』


僕は布団から起き上がった。


「……覚えてるよ」


誰もいない部屋で答えた。


「まだ全部じゃないけど。ちゃんと覚えてる」


机の上には、水色のノートが置かれていた。


昨日、釣具店から戻ってきたあと、僕は何度も写真を見返した。


写真の中の三人目。


裏側に書かれた二つの名前。


そして、消された文字。


夜中に目が覚めるたび、僕は写真を確かめた。


何度見ても、三人目の少年の顔は光に隠れていた。


けれど、ひとつだけ、昨日と違うところがあった。


少年の手に握られた青いルアー。


その金具の近くに、小さな傷がある。


僕の持っているルアーにも、同じ傷があった。


いや。


傷だけではない。


ルアーの裏側に刻まれた文字の、その最後の一画。


僕のものは、ほんの少しだけ欠けている。


写真の中のルアーも、同じ場所が欠けていた。


偶然で片づけるには、あまりにも細かすぎた。


僕はノートを開いた。


新しい文字が書かれていた。


『二十二回目。約束を聞く。』


その下に、もう一行。


『約束をした人と、約束を覚えている人は、同じとは限らない。』


僕は、その一文をしばらく見つめていた。


それから、ノートを閉じた。


今日は、彼女に会わなければならない。


昨日の写真を見せるために。


そして、聞くために。


僕たちは、何を約束したのか。


*


湖へ向かう途中、僕は小さな橋の上で足を止めた。


橋の下を流れる水は、秋の気配を少しだけ含んでいた。


夏は、まだ終わっていない。


けれど、終わらない夏にも、季節は流れ込んでくる。


僕は、ポケットの中の青いルアーを握った。


冷たい金属の感触。


その冷たさが、今は妙に心地よかった。


昨日、電話の向こうで悠真は言った。


『今度は、ちゃんと来てくれたんだね』


今度は。


つまり、僕は以前にも、どこかへ行ったことがある。


そして、悠真との約束を守れなかったことがある。


でも、それは本当に僕だったのだろうか。


写真の中の少年が僕だったとしても、僕には1992年の記憶なんてない。


僕は、まだ生まれていなかった。


そう考えると、頭の中がぐちゃぐちゃになった。


僕は橋の欄干に手を置いた。


「……何なんだよ、もう」


小さく笑った。


こんなときでも、僕は少しだけ笑ってしまう。


怖いからなのか。


わからないことが多すぎるからなのか。


それとも、どこかで、ずっと探していたものに近づいている気がするからなのか。


答えはわからなかった。


ただ、橋を渡り終えたとき、僕は足を止めなかった。


*


少女は、いつもの木の下にいた。


ノートを膝に置き、湖を見ていた。


僕の足音に気づくと、顔を上げた。


「……来たんだね」


「うん」


「今日は、早いね」


「君もね」


彼女は少し笑った。


いつもの笑顔だった。


でも、今日は、その笑顔が少しだけ違って見えた。


昨日までの彼女は、僕が来るたび、どこかほっとしたような顔をしていた。


今日は、僕が来ることを、ずっと前から知っていたような顔だった。


僕は、隣に座った。


しばらく、二人とも何も言わなかった。


湖の向こうで、鳥が一羽、水面すれすれを飛んでいった。


やがて、僕は鞄から写真を取り出した。


「……これ、見てほしいんだ」


少女の表情が変わった。


写真を見た瞬間、彼女の指先が止まった。


そして、ゆっくりと写真を受け取った。


「……見つけたんだね」


その声は、ひどく小さかった。


「うん。釣具店にあった」


「そう」


「昨日、店主に会ったよ」


彼女は、写真から目を離さなかった。


「……何か言ってた?」


「この写真を撮った人のことを聞こうとしたら、電話が鳴った」


少女の指が、ぴくりと動いた。


「電話?」


「うん。古い黒電話。午後四時三十二分に」


彼女は、ゆっくりと顔を上げた。


「……出たの?」


「出たよ」


「誰の声がしたの?」


僕は、一度だけ息を吸った。


「悠真」


その名前を口にした瞬間、少女の顔から、表情が消えた。


風が吹いた。


彼女の髪が頬にかかる。


それでも、彼女は動かなかった。


「……悠真って、言ったんだね」


「うん」


「どんな声だった?」


僕は少し考えた。


「……優しい声だった」


「そう」


「僕のことを知ってた。僕に、覚えてるかって聞いた」


少女は、唇をかみしめた。


「……それで?」


「僕は、覚えてるって答えた」


「何を?」


「まだ全部じゃないけど、ちゃんと覚えてるって」


少女は、写真を胸に抱いた。


その仕草を見たとき、僕は不思議なことを思った。


彼女は、写真を大切にしているのではない。


写真の中にいる誰かを、抱きしめているのだ。


「……ねえ」


彼女が言った。


「健二は、約束って、何だと思う?」


突然の質問だった。


僕は、少し考えた。


「……守るって決めたこと?」


「守れなかったら?」


「……謝る」


「謝れなかったら?」


僕は、答えに詰まった。


少女は湖を見つめていた。


「もしね。約束したことを、忘れてしまったら?」


「……忘れてしまったら」


「その約束は、なくなっちゃうのかな」


僕は、青いルアーを握りしめた。


なくすことと、なくなることは、少し違う。


最初に彼女と会った日に、彼女はそんなことを言った。


あのときは、意味がわからなかった。


今も、すべてがわかったわけではない。


でも、少しだけなら、答えられる気がした。


「……約束したこと自体は、なくならないと思う」


彼女が僕を見た。


「どうして?」


「忘れても、約束したことがなかったことになるわけじゃないから」


「……でも、覚えていなかったら?」


「うーん……」


僕は、頭をかいた。


「そのときは、もう一度、約束すればいいんじゃないかな」


彼女は、何も言わなかった。


「前の約束を忘れちゃっても、今度の約束はできるだろ?」


僕は、湖を見た。


「それに、もし相手が覚えていてくれたら……その人が、教えてくれるかもしれない」


彼女の目が、揺れた。


「……忘れてしまった人に、教えてあげるの?」


「うん」


「何度でも?」


「……何度でも」


言ってから、僕は少し照れくさくなった。


「まあ、同じことを何回も説明するのは大変だろうけど」


彼女は笑わなかった。


ただ、目を伏せた。


そして、小さな声で言った。


「……悠真も、そう言ってた」


湖の音が、遠くなった気がした。


「……悠真が?」


彼女はうなずいた。


「忘れてしまっても、何度でも教えてあげるって」


僕は、彼女の横顔を見つめた。


「……誰に?」


彼女は答えなかった。


その代わり、写真を僕に返した。


「健二」


「うん?」


「その写真の裏側、見た?」


「見たよ」


「名前も?」


「……うん」


彼女は、ゆっくりと目を閉じた。


「じゃあ、ひとつだけ、お願いしてもいい?」


「何?」


「私の名前を見つけても、すぐに呼ばないで」


僕は、息を止めた。


名前。


彼女の名前。


これまで、何度も聞こうとして、そのたびに聞けなかったもの。


僕は、彼女の名前を知らない。


彼女も、僕に教えてくれない。


それなのに、僕たちは毎日、湖で会っている。


釣りをして、話をして、歌を作っている。


まるで、名前なんてなくても、友達になれると証明するみたいに。


「……どうして?」


僕が聞くと、彼女は少しだけ笑った。


悲しい笑顔だった。


「呼ばれたら、帰らなきゃいけなくなるから」


「……どこへ?」


彼女は、湖の向こうを見た。


「……私が、最初にいた場所」


僕は、何も言えなかった。


「でも、帰りたいんじゃないの?」


ようやく、それだけを聞いた。


彼女は、長い間、湖を見つめていた。


そして。


「……わからない」


そう言った。


「帰りたいのかもしれない。でも、帰ったら、もうここには来られない気がする」


彼女は、自分の膝の上のノートを開いた。


ページの端には、小さな文字が書かれていた。


『帰ることと、戻ることは、同じじゃない。』


僕は、その文字を見つめた。


帰ることと、戻ること。


彼女は、どこかへ帰りたい。


でも、ここへ戻ってきたい。


その二つが、彼女の中で、ずっとぶつかっているのかもしれない。


「……健二」


「うん」


「もし、私がいなくなったら」


僕は、すぐに口を開いた。


「探すよ」


彼女が、驚いたように僕を見た。


「……まだ、最後まで聞いてないよ」


「あ、ごめん」


僕は苦笑した。


「でも、探すよ。たぶん」


「……どうして?」


「どうしてって……」


僕は、湖を見た。


「君と、まだ歌の続きを作ってないから」


彼女は、目を見開いた。


「……それだけ?」


「それだけじゃないよ」


僕は、少しだけ考えた。


「一緒に釣りもしたいし。まだ、君の名前も知らないし。文化祭だって、ちゃんと終わってない」


彼女の目に、涙が浮かんだ。


「……そんな理由で、探してくれるの?」


「そんな理由って、何だよ」


僕は笑った。


「大事な理由だろ」


彼女は、とうとう顔を伏せた。


小さな肩が、震えていた。


僕は、何も言わずに隣に座っていた。


泣いている理由を聞くのは、今じゃない気がした。


ただ、彼女がここにいること。


僕の隣に座っていること。


それだけは、確かだったから。


*


午後四時三十二分。


僕たちは、並んで湖を見ていた。


少女は、ノートを開いた。


「……ねえ、健二」


「うん?」


「歌の続きを、書いてもいい?」


「もちろん」


彼女は、鉛筆を持った。


しばらく考えてから、ゆっくりと文字を書いた。


僕は、横からのぞき込んだ。


そこには、こう書かれていた。


『もし、明日が来なくても。』


その下は、空白だった。


「……続きは?」


僕が聞くと、彼女は首を横に振った。


「まだ、わからない」


「そっか」


「でも、いつか書ける気がする」


彼女は、鉛筆を置いた。


「……健二が、いてくれたら」


僕は、うなずいた。


「じゃあ、一緒に考えよう」


彼女は、ようやく笑った。


今度の笑顔は、ほんの少しだけ、いつもの彼女に戻っていた。


そのとき、僕のポケットの中で、携帯電話が震えた。


画面を見る。


知らない番号だった。


着信時刻は、午後四時三十二分。


僕は、少女を見た。


彼女は、静かに首を横に振った。


出ないで。


そう言っているように見えた。


僕は、通話ボタンに触れなかった。


電話は、数秒間、鳴り続けた。


そして、止まった。


ほっとした瞬間。


携帯電話の画面に、短いメッセージが表示された。


『約束を思い出したら、三人で来てください。』


送り主の名前はなかった。


僕は、画面を見つめた。


「……三人って」


少女は、何も言わなかった。


ただ、ノートを閉じた。


その表紙には、いつの間にか、見覚えのない文字が浮かんでいた。


『二十二回目。約束を聞いた。』


その下に、新しい一文。


『でも、まだ、三人目は来ていない。』


僕は、顔を上げた。


湖の向こうに、誰かが立っていた。


小さな男の子。


青いルアーを持っている。


顔は、夕日の光で見えなかった。


けれど、その子は、こちらに向かって手を振っていた。


僕は、思わず立ち上がった。


「……悠真?」


少女が、僕の手をつかんだ。


「……まだ、だめ」


その声は、震えていた。


「……まだ、呼ばないで」


僕は、湖の向こうを見た。


男の子は、ゆっくりと手を下ろした。


そして、口を動かした。


声は聞こえなかった。


でも、僕には、何と言ったのかわかった気がした。


――また、あした。


僕は、少女の手を握り返した。


湖の向こうの男の子は、静かに消えていった。


まるで、最初から、そこには誰もいなかったかのように。


僕は、ポケットの中の青いルアーを握った。


明日、僕たちは三人で会えるのだろうか。


それとも。


明日という日は、まだ、誰かに許されていないのだろうか。


僕は、少女の隣で、湖を見つめ続けた。


そして、心の中で、もう一度だけ、あの言葉を繰り返した。


また、あした。


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