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7.まだ死にたくない(最終話)

 深い山奥の中では仁威がうつろな顔で地面に座り込んでいた。


 小さく開く口元から白い息が時折漏れる以外、微動だにすることなくただ呆然と座り込む様はこの男らしからぬ弱さと儚さに満ちていて、木々の隙間を縫うように差し込む月光だけがそんな仁威のことをほのかに照らしてやっていた。


 どこか遠くで動物が通り過ぎるかすかな音が耳に入るだけの、いつになく静かな夜――。


 あまりに静かであまりに寒くて、命よりも先に心が凍り付いてしまいそうな一夜となりつつある。


 実際、仁威はすべての執着を手放しかけていた。暖をとること、眠ること、食事を摂ること、水を飲むこと……そういったことだけではなくて、文字通り何もかもを手放しかけていた。あれほど意固地にこだわり続けていた理想も哲学も……義務も使命も、懺悔も何もかも。


 だがその時。


 仁威の目前、圧倒的な闇の中に二対の光が輝いた。


 仁威がそちらに目線だけを向けると、闇の中から体格のいい一頭の狼が姿を現した。薄い灰色の毛並みは、月光を受けるや銀に美しく輝き、光の粒子がこぼれるようにあたりに舞った。


 普通ならば群れでいるところを、この年若い雄の狼はなぜか一頭で仁威の前に現れたのである。


 仁威の何の感情も浮かばない目が狼の視線とかち合った。


(……もう逃げも隠れもしたくない)


 まだ体力は残っており、闘えば勝てる自信はある。


 だが闘う必要性を感じられず、仁威は一切の反応をとろうとはしなかった。


 このまま噛みつかれても構わないし、痛い思いをしようが血が出ようが構わなかった。


(……このまま死んでも構うことなどない)


 それは仁威が初めて生を放棄した瞬間だった。


 一歩、狼が進んだ。


 その前足に踏みつけられた枯れ葉がかさりと音を鳴らした。


 さらにもう一歩進んだ。

 かさり。


 つづけて二歩。

 かさ、かさ。


 それでも仁威は動かなかった。逃げるどころか指一本すら動かさなかった。


 ――ただ狼と見つめ合っている。


 やがて狼は仁威の至近距離まで近づくと立ち止まった。仁威が力なく垂らした手を持ち上げさえすれば、その首を絞めることができるほどの距離に――。


 狼の両の目が仁威を食い入るように見つめてくる。


 その大きな虹彩にははっきりと仁威の顔が映っていた。


 気力を失い疲れ果てた、見るからに醜い人間の顔が――。


「俺、は……」


 ぴくりと、仁威の指先が動いた。


 剣ばかりを握り続けて骨ばった指はこの数か月の孤独な旅の過程でさらに荒れ、爪の中には容易に取れない汚れが詰まっている。指だけではない、顔も薄汚れ、一度も剃っていないひげのせいだけではなく元の人相が分からないほどになっている。めったに洗わなかった髪はごわつきほつれ、衣や外套は汗臭さを通り越して異様な匂いがする有様だった。


「俺は……」


 仁威が反応を示し始めたにも関わらず狼はその場から逃げなかった。それどころか、仁威を真正面から堂々と見つめ続けている。


 自分自身の姿が映る二対の瞳――その目に見つめられていたら、自然と仁威は本音を語っていた。


「俺だって……こんな風になりたくなどなかった……」


 地面についている両手が枯れ葉を砕くように握りしめ、乾いた音が鳴った。


 やがて仁威の表情が崩れ、ぼろぼろと涙が溢れ出した。


 狼の虹彩に映る仁威は、今、はっきりと悔しさによって顔を歪ませていた。


「俺だって、本当は……」


 ぎり、と狼を睨みつけていた。だが仁威が今見ているものは狼ではなかった。曇りのない鏡のごとき狼の目、そこに映る己自身だった。うそ偽りのない己自身だった。


「俺だって自由に声をあげたかったさ! この心を思いきりひらいてみたかったさ……!」


 突如叫んだ人間にも狼は動じない。ただ黙って話を聞いている――人間の言葉が分かるわけがないのに、不思議と仁威にはそう思えた。


 そう思えたからこそ、一層正直な想いが胸の内から吐き出されていった。


「罪は償いたいしやるべきことはやりたい! だからこれまでのことはなんら後悔していない! だけどそれとは別に生きているという実感だってほしいんだよ……!」


 誰かに話を聞いてもらいたい。猛る想いを知ってほしい。そんな衝動は初めてのことだった。


「俺だって一人になんて……っ!」


 叫びとともに、張り詰めた心から激情が抜けていった。


「一人になんて……なりたくはなかった……」


 本心からの言葉がつぶやかれたのと同時に、あとからあとから涙が溢れてきた。


 こんなふうに子供のように泣いた記憶は仁威にはなかった。元からそういう感情が人よりも欠如しているとすら思い込んでいた。なのに今――あとからあとから涙が出てくる。


 拭わない涙はこの孤独な旅によって痩せこけた頬を滑り、顎の先から無数の雫となって落ちていった。


「俺だって……」


 と、狼が動いた。


 狼は仁威に顔を近づけると、大きな舌で頬をぺろりとなめた。


 その瞬間、仁威の顎から頬にかけてざらりとした感触が走り、肉食獣ならではの生臭い香りが鼻に届いた。


 だがこの時、何よりも仁威の心に響いたのは狼から放たれる熱だった。柔らかく美しい銀の毛並み、その隙間から狼の体温が気流にのって届いたのだ。そして顎に触れた舌の温かさは――驚くほど仁威の心に響いた。


 狼が短い呼吸をするたびに、仁威の顔に温もりのある風が吹きつけてきた。それは命あるものしか持ちえない温もりだった。太陽の光とも焚火とも異なる、命が宿る肉体しか持ちえない温もりだった。


 この数か月、一度も感じたことのない温もりだった――。


 たまらず仁威は両目をつぶった。


「まだ死にたくない……」


 ずっと目を背けてきた願望は、絶望の淵にいるからこそどこまでも切実なものとなっていた。


「俺はまだ死にたくない……」


 仁威の言う死とは生物としての死のことではない。


 心ある者としての、人間としての死のことだった。


 知性や理想といったきれいごとだけではなくて、欲や願望、感情といった醜いものも内包する人間としての死のことだった。


 そして自分自身の半生ともいえる数々の出来事が仁威の体を一陣の風のように通り抜けていった。人が死に際に思い描くという走馬燈のように、これまで経験してきた幾多の出来事を一瞬にして追体験し、そのたびに出会い別れた人々の顔が現れては――消えた。


『私にもあなたのためにできることは何かありませんか――』


 無の中でたった一人の顔が瞼の裏に浮かんだ。


『あなたは大切な人です――』


 何もかもを削ぎ落し、無防備な状態となり生と死のはざまに立ち――仁威はとうとうたった一つのことに気づいた。


「まだ生きたい……」


 生まれた瞬間から何かを得て何かを失い、何かを背負い何かを捨て、その繰り返しによって絡めとられてきた人生という名の螺旋、その結末にたどり着き――。


「会い、たい……」


 極限の状態まで自分を追い込み――それでようやく仁威はたった一つの願いの前にひれ伏したのだった。ひれ伏し、認めることができたのであった。


「あいつに……会いたい……」



 完


このたびは放浪篇3を読んでいただきありがとうございました。


こちらを全話読まれた方はまず間違いなく剣女列伝シリーズをすべて読まれた方だと思いますが、本作やサイドストーリーも加えれば95万字、100万字近い文量を読んでいただけたことは感謝してもしきれません。本当にありがとうございましたm(_ _)m


本作のサブタイトル、ずっと迷っていて仮に「強いられた夢幻、その先に」とつけていたのですが、最終話を投稿した本日、2018/12/30に急遽変更させていただきました。実は放浪篇では「〇〇して」というタイトルで縛りたかったのです。最終話を推敲していて「望みをかなえて」というシンプルなものに落ち着かせました。「時を止めて」「選ばせて、運命」そして「望みをかなえて」。誰もが願うようなことを心の底から願ってしまう登場人物たちの心情に想いを馳せていただければ…。


注:これ以降、本作のネタ晴らしが入りますので未読の方はご注意ください。


---


本作は晩夏から年末まで一気に時間を駆け、主人公はとうとう臨月近くにまでなってしまいました。本当は出産を本作のラストシーンに据えようと思っていたのですが、色々書いていたらここまでで15万字になってしまいました。これについては次作のお楽しみとさせてください。


はい、この流れ、そして本作のラストシーンのとおりでまだ話は続きます。放浪篇4、または5で放浪篇は終了させたいと思っております。

次作は2019年夏頃に出せれば…と思っておりますが、遅ければ秋になるかもしれません。

気になる方は作者をお気に入り登録するか、時折活動報告をチェックする等してください。

(追記:夏の公開は難しそうです。秋を予定しています。2019/8/3記載)


さて、本作では冒頭から中盤まで仮につけていたサブタイトルのとおり夢や幻の世界に登場人物たちが浸っていました。今までで一番ファンタジックな展開になっていたかと思います。とはいえ作中に記載したとおりで、金昭儀はとあることと引き換えに不思議な力を失ってしまいましたので、後半以降は前作までのようなヒューマンドラマに重きを置いた展開になっています。


ちなみに金昭儀がなぜ力を失ったのか、その理由はお判りでしょうか。なんとなく察していただけていることと思いますが、詳しいことはここでは触れないでおきます。ちょっとどころではなく英龍が可哀そうなことになってきています。


そして後半では氾兄弟がしっかりと登場し始めました。彼らの心理面の変化に大なり小なり共鳴するかのように、主要人物である珪己や仁威が変化していく過程が後半の見どころだと作者は思っているのですが…どうでしたか? 次作では物理的にも状況的にも、よりはっきりと分かる盛り上がりを作れたらと思っております。


後半では御史台の人物も出てきて何やら不穏な話も出てきましたが、晃飛も可哀そうなことになってしまいました。これからどのように話をまとめていくか、気長に次作をお待ちいただければ嬉しいです。


感想をいただけるととても嬉しいです!

お待ちしております^^

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― 新着の感想 ―
[良い点] 産婆さん、すごい! かっこいい! 女将さんも相変わらずで良かったです♪ 氾兄弟も大活躍でしたね! くーちゃん兄とくーちゃん弟、支え合って生きている姿が良いなーと思いました。 それにしても…
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