表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
兜町の赤い金  作者: megu
9/12

第九章 士族の墓標

牛鍋屋の火が、二人の刃を赤く照らしていた。


鉄之助の背には竹筒。桐野千景の手には、荷棒から抜かれた細身の仕込み刃。どちらも廃刀令の東京に似合わない。だからこそ、二人は似ていた。


似ているとわかることが、鉄之助には不快だった。


「お前、武士をいくらで売った」


桐野の声は静かだった。怒鳴らない。怒鳴らないから、店の隅までよく届いた。


鉄之助は答えなかった。


答えれば、何を言っても負ける。


武士ではないと言えば、逃げたことになる。


売っていないと言えば、小夜の公債が懐で重くなる。


金が必要だと言えば、桐野の刃が正しくなる。


りんが言った。


「鉄さん」


「縮めるな」


「今それ言う?」


志乃は帳面を抱えたまま、店の奥の客の動きを見ていた。緋桜隊と名乗った女が一人で来たはずがない。元士族の客三人は、さっきから箸を持つ手が止まっている。鍋をつついていた商人たちは、勘定を置かずに逃げる隙を探していた。


お梅だけが鍋の前に立っていた。


「店を壊すなら、肉の代も払っていきな」


桐野はお梅を見た。


「女将には用はない」


「なら、うちの床に血をこぼすんじゃないよ」


「血なら、もう国がこぼした」


桐野の刃が動いた。


速い。


鉄之助は椀を蹴り上げた。熱い味噌汁が宙に散る。桐野の刃は椀を割り、鉄之助の喉の手前を通った。鉄之助は竹筒を外す。口金をひねる。仕込みの刃が滑り出る。


店の客が一斉に逃げた。


逃げない者が三人いた。


さっきの元士族たちだ。袖口には、桐野と同じ緋色の紐がある。彼らは立ち上がり、腰ではなく、袖や杖や荷物から刃を出した。誰も公然とは刀を持たない。それでいて誰も、刃を捨ててはいなかった。


「緋桜隊か」


鉄之助が言った。


桐野はわずかに笑った。


「まだ名乗るほどの隊でもない。墓守だ」


「何の墓だ」


「士族の墓だ」


一人がりんへ向かった。りんは鍋の蓋を取って投げた。蓋は男の額に当たり、味噌と湯気が弾ける。


「熱っ」


「熱いなら帰れ」


りんは鍋の柄をつかみ、ひっくり返した。牛肉と葱と味噌が床に広がる。店中に濃い匂いが満ちた。男が滑る。志乃がすかさず足元の椅子を押し、男を転ばせた。


「帳面女、やるじゃない」


「帳面を守るには、机も椅子も使います」


鉄之助は桐野の刃を受けた。


軽い。


だが軽さが危ない。力で押せば、桐野は風のようにずれる。鹿児島で斬り合った男たちは、もっと重かった。怒りも、刀も、踏み込みも。桐野の怒りは重いのに、刃だけが軽い。


「薩摩か」


鉄之助が聞いた。


「違う」


「なら鹿児島へは」


「兄が行った」


刃が跳ねる。


「帰らなかった」


鉄之助の胸の奥が沈んだ。


「俺の戦友も帰らなかった」


「その妹の公債を売るのか」


桐野は知っている。


小夜のことまでではないかもしれない。だが、鉄之助が戦友の家の公債を持っていることは知っている。


「売らなければ、妹が死ぬ」


「売っても死ぬ」


「何」


桐野の目が、初めて怒りで燃えた。


「一枚売れば、次はもっと安く買われる。士族は待てない。米がいる。薬がいる。家賃がいる。子が泣く。商人は待てる。だから買い叩く。公債は墓標だ。墓標に値をつける者が、この町に集まっている」


鉄之助は押し込まれた。


小夜の長屋で、大家が言った。早く売れ。額面だけになる。あの言葉を思い出すたび、鉄之助は喉を潰したくなる。


潰す相手が大家だけでは足りないことを、今は知っている。


相場。


証書。


名義。


利子。


市場。


どれも、首をつかめない。


「だから奪うのか」


「違う」


桐野は刃を引いた。


「燃やす」


店の空気が止まった。


「金禄公債を?」


志乃が言った。


桐野は志乃へ目を向けた。


「帳面を読む女か」


「読めるだけです」


「なら読め。あれは禄ではなく、降伏状だ」


志乃は言い返せなかった。


桐野は続けた。


「緋桜隊は六枚を集めた。残り一枚。第零号があれば、東京株式取引所が開く日に、兜町の前で全部燃やす」


「燃やして何になる」


鉄之助が問う。


「値がつかなくなる」


「それで士族が救われるのか」


「売られるよりましだ」


「死ぬぞ」


「もう死んでいる」


桐野の声は、そこで初めて割れた。


「兄は死んだ。父は公債を握って寝たまま死んだ。母は利子の日まで待てずに米を借りた。商人は証書を半値で欲しがった。誰も刀で殺していない。だから罪人がいない。だから私が罪人になる」


鉄之助は、刃を下げそうになった。


刃を下げかけた隙へ、桐野が踏み込んだ。


りんが叫ぶ。


「鉄さん」


鉄之助は横へ逃げたが、刃が腕を裂いた。血が落ちる。牛鍋の味噌の上に、赤が混じった。


「同情で刃は止まらない」


桐野が言った。


「覚えておけ」


鉄之助は、血の出る腕を見た。


痛みが、頭を冷やした。


「小夜を救う」


「誰だ」


「戦友の妹だ」


「そのために士族を売るか」


「士族ではない。小夜を救う」


鉄之助は今度こそ踏み込んだ。


力で押さず、桐野の軽さに合わせ、半歩遅らせる。鹿児島で、雨の中の斬り合いで覚えた。軽い相手は、先を読ませると消える。読まなければいい。向こうが消えたあとに、残る足を狙う。


桐野の刃が鉄之助の肩をかすめた。


鉄之助は柄尻で桐野の手首を打った。


仕込み刃が床へ落ちる。


同時に、元士族の一人が志乃へ飛びかかった。


「帳面を渡せ」


志乃は逃げなかった。


机の上の算盤をつかみ、男の指へ叩きつけた。珠が弾け、男が悲鳴を上げる。りんが後ろから椀を投げた。椀は男の耳に当たり、割れた。


「帳面女って呼ぶな」


りんが怒鳴った。


「まだ呼んでません」


志乃が言う。


「呼びそうだった」


お梅が、最後の一人を肉切り包丁の背で殴った。


「うちの鍋をひっくり返した代だ」


店内は、味噌、肉、血、証書、灰でぐちゃぐちゃだった。


桐野は床に落ちた刃を見ず、鉄之助を見た。


「殺せ」


「殺さん」


「情けか」


「時間がない」


鉄之助は腕を押さえた。


「医者へ行く」


桐野の目が細くなる。


「小田島か」


鉄之助は動きを止めた。


「なぜ知っている」


桐野は笑った。痛ましい笑いだった。


「小宮が言っていた。東京で病人を見るなら、小田島がいい。金は取るが、腕は確かだと」


鉄之助の喉が詰まった。


「小宮を知っているのか」


桐野は落ちた刃を拾い、荷棒へ戻した。


「知っている。西南で死んだ男だろう」


「お前は」


「小宮は、兄の最後を見た」


店の外で、拍子木が続けざまに鳴った。


誰かが巡査を呼んだのだ。黒田かもしれない。商人かもしれない。近所の者が騒ぎを怖がったのかもしれない。


桐野は緋桜隊の男たちへ目で合図した。


「引く」


「待て」


鉄之助が言う。


「小宮の何を知っている」


桐野は暖簾の前で振り返った。


「小宮は、第零号公債を盗んだ男ではない」


「何」


「預かった男だ」


人を呼ばう声が近づく。


桐野は路地へ消えた。緋桜隊も続く。


鉄之助は追おうとしたが、りんが腕をつかんだ。傷口から血が流れている。


「追う足じゃない」


「小宮のことを」


「小夜の医者が先」


志乃が静かに言った。


「桐野千景は、第零号公債を燃やすと言いました。まだ奪う気です。必ずまた来ます」


鉄之助は拳を握った。


小宮とは、延岡の先の山で別れた。相良の家も小宮の家も、旧幕に禄を食んだ家で、官軍の徴募に応じて同じ隊で西へ行った。太腿を撃たれた小宮を、退がっていく後送の列に預けた。担ぎ手の肩越しに小宮は何か言い、砲声がそれを消した。それが最後で、次に来たのは戦病死の報せの紙一枚。骨も、死に目も、鉄之助は見ていない。


その小宮が、盗んだのではない。


預かった。


誰から。


何のために。


牛鍋屋の床に落ちた味噌の中で、証書の切れ端のような葱が赤く染まっていた。


お梅がため息をついた。


「肉の代、倍だよ」


りんが顔をしかめる。


「公債払いで」


「燃やされる証書はいらないね」


その冗談に、誰も笑えなかった。りんが小さく言い足した。


「……わかってる。お梅さんには魚十日分だ」


外では、巡査の提灯が路地を曲がってくる。


鉄之助は傷口を押さえ、第零号公債の重さを懐に確かめた。武士の墓標、小夜の薬代、贋札原版への鍵——同じ一枚に、違う名前ばかりが貼られていく。


提灯の灯が、格子の向こうで一つ、二つと増えた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ