帰ってきた男
五月十八日の朝、鍵は合ったが、錠は一度では回らなかった。
霊岸島の裏長屋で、家主の女房が戸を手前へ引き、鉄之助が錆びた鍵を押し込む。三度目に、内側で金具が外れた。
「昼の鐘までだよ」
女房は小夜の書付を帯へ挟んだ。
「去年の暮から、たまに夜だけ戻ってきた。正月を過ぎてからは見てない。部屋代は正月分で止まった。持っていく物を決めたら、残りはこっちで片づける」
女房の目には、部屋の中より先に滞りが見えていた。
鉄之助が雨戸へ触れると、上の桟が外れて倒れかけた。
——雨戸はまた俺の背より先に倒れる。
手紙の冗談を、鉄之助は昨日まで読めなかった。頭を打たずに受け止めると、りんが戸の高さと鉄之助の背を見比べた。
「小宮さん、少し盛ったね」
「昔からだ」
嘘を嫌う男だった、と言いかけてやめた。
六畳の部屋は、逃げた者の空き方をしていなかった。火鉢には灰をならした跡があり、壁へ掛けた手拭いは乾いている。膳の端に小さな塩壺があるが、蓋の上へ薄く埃が積もっていた。漬物鉢の底には、水を替えた跡だけが白い輪になっている。
志乃は文机の上から見た。
「紙から見ます。持ち出す物は、家主の前で決めます」
家主へも、自分へも言う声だった。
紙は多くなかった。筆写した商家の請求、膏薬と湯屋の小口、豆腐を半丁ずつ買った印。膏薬の脇には「脚」。金が入った日には酒も一合買い、その翌朝は膏薬を一枚減らしていた。
りんは壁際の草履を裏返した。
「左だけ、二度継いでる」
踵ではなく爪先の外側が削れている。負傷した腿を上げ切れず、左足を引いて歩いた跡だった。紙より先に、帰ってきた脚が残っていた。
鉄之助は草履を元へ戻した。
小宮を後送の列へ預けた時、左の腿から血が落ちていた。あの脚で鹿児島を出て、船か街道を継ぎ、妹の長屋へ戻り、またここまで歩いたのだ。
小夜を訪ねたのは十二月十八日。家主の話では、その後も年の暮れまで夜だけこの部屋へ戻った。正月から先の足跡は、また途切れる。
「生きていた」
声にすると、喜びより遅く怒りが来た。
なぜ知らせなかった。なぜ一人で隠れた。なぜ、鉄之助なら運べた重さまで勝手に背負った。
文机の引き出しは空だった。りんが机そのものを持ち上げる。
「右だけ重い」
右側の脚に、小さな筆入れが紐で括られていた。りんは売れば幾らかと量る手つきで外し、志乃へ渡す。
中には使いかけの筆、宛名のない下書き一枚、細長い名控えがあった。
志乃が下書きを広げる。
「小夜へ、で始まっています」
「読む」
鉄之助が言った。
字は整っていた。妹へ書く時だけ、行がわずかに右へ上がる。
——小夜へ。雨戸を直す銭で酒を飲んだ。先に謝る。次に来る時は、頭を低くして入れ。
りんが息を鼻から抜いた。笑いかけ、続く行で止まった。
——薬代が要った。俺は、名を二人ぶん売った。死んだ者なら、腹を減らす者も、泣く者も増えないと思った。
鉄之助は紙を取った。
その先へ、二人の名がある。
野添市助。飯盒の底の米を、匙で最後まで剥がす。
片岡弥吉。右の草鞋だけ、いつも先に切れる。
どちらも鉄之助の隊にいた。どちらも鹿児島で死んだ。野添の癖を知っていたのは、同じ釜の飯を食った者だけだ。片岡の右足へ予備の草鞋を結んだのは、小宮だった。
二人の名の下には、死んだ場所、隊を外れた日、家へ出した最後の便りが続く。公の紙と本人の暮らしを結びつける事柄だけが、短く書かれていた。
「これを、誰へ渡したの」
りんが聞いた。
「下書きには相手がありません」
志乃は名控えを光へ上げた。
「ただし、三つの欄は同じ幅です。誰かが求めた書式へ合わせて切っています」
鉄之助は下書きを二つに折った。
小夜へ返せば、兄が薬代のために死者を売ったと知る。隠せば、小宮が書こうとした告白を、鉄之助がもう一度殺す。
紙を懐へ入れかけた。
「相良さん」
志乃は責めなかった。何をしたかだけを見る声だった。
りんも鉄之助の手から紙を奪わない。
「それ、小夜さんから借りた鍵で見つけたんだよ」
鉄之助は手を止めた。
決めるのは私だと、小夜は三日前に言った。
下書きを開き直し、名控えと重ねる。小夜へ渡す。まだ読ませる時を自分が決めようとしたことも言う。鉄之助は紙を折らず、掌に広げたまま持った。
外から、昼の鐘の前触れが聞こえた。
名控えには、三つの欄があった。
野添市助。片岡弥吉。
三人目には、小宮佐一自身の名があった。




