第九章 士族の墓標
牛鍋屋の火が、二人の刃を赤く照らしていた。
鉄之助の背には竹筒。桐野千景の手には、荷棒から抜かれた細身の仕込み刃。どちらも廃刀令の東京に似合わない。だからこそ、二人は似ていた。
似ているとわかることが、鉄之助には不快だった。
「お前、武士をいくらで売った」
桐野の声は静かだった。怒鳴らない。怒鳴らないから、店の隅までよく届いた。
鉄之助は答えなかった。
答えれば、何を言っても負ける。
武士ではないと言えば、逃げたことになる。
売っていないと言えば、小夜の公債が懐で重くなる。
金が必要だと言えば、桐野の刃が正しくなる。
りんが言った。
「鉄さん」
「縮めるな」
「今それ言う?」
志乃は帳面を抱えたまま、店の奥の客の動きを見ていた。緋桜隊と名乗った女が一人で来たはずがない。元士族の客三人は、さっきから箸を持つ手が止まっている。鍋をつついていた商人たちは、勘定を置かずに逃げる隙を探していた。
お梅だけが鍋の前に立っていた。
「店を壊すなら、肉の代も払っていきな」
桐野はお梅を見た。
「女将には用はない」
「なら、うちの床に血をこぼすんじゃないよ」
「血なら、もう国がこぼした」
桐野の刃が動いた。
速い。
鉄之助は椀を蹴り上げた。熱い味噌汁が宙に散る。桐野の刃は椀を割り、鉄之助の喉の手前を通った。鉄之助は竹筒を外す。口金をひねる。仕込みの刃が滑り出る。
店の客が一斉に逃げた。
逃げない者が三人いた。
さっきの元士族たちだ。袖口には、桐野と同じ緋色の紐がある。彼らは立ち上がり、腰ではなく、袖や杖や荷物から刃を出した。誰も公然とは刀を持たない。それでいて誰も、刃を捨ててはいなかった。
「緋桜隊か」
鉄之助が言った。
桐野はわずかに笑った。
「まだ名乗るほどの隊でもない。墓守だ」
「何の墓だ」
「士族の墓だ」
一人がりんへ向かった。りんは鍋の蓋を取って投げた。蓋は男の額に当たり、味噌と湯気が弾ける。
「熱っ」
「熱いなら帰れ」
りんは鍋の柄をつかみ、ひっくり返した。牛肉と葱と味噌が床に広がる。店中に濃い匂いが満ちた。男が滑る。志乃がすかさず足元の椅子を押し、男を転ばせた。
「帳面女、やるじゃない」
「帳面を守るには、机も椅子も使います」
鉄之助は桐野の刃を受けた。
軽い。
だが軽さが危ない。力で押せば、桐野は風のようにずれる。鹿児島で斬り合った男たちは、もっと重かった。怒りも、刀も、踏み込みも。桐野の怒りは重いのに、刃だけが軽い。
「薩摩か」
鉄之助が聞いた。
「違う」
「なら鹿児島へは」
「兄が行った」
刃が跳ねる。
「帰らなかった」
鉄之助の胸の奥が沈んだ。
「俺の戦友も帰らなかった」
「その妹の公債を売るのか」
桐野は知っている。
小夜のことまでではないかもしれない。だが、鉄之助が戦友の家の公債を持っていることは知っている。
「売らなければ、妹が死ぬ」
「売っても死ぬ」
「何」
桐野の目が、初めて怒りで燃えた。
「一枚売れば、次はもっと安く買われる。士族は待てない。米がいる。薬がいる。家賃がいる。子が泣く。商人は待てる。だから買い叩く。公債は墓標だ。墓標に値をつける者が、この町に集まっている」
鉄之助は押し込まれた。
小夜の長屋で、大家が言った。早く売れ。額面だけになる。あの言葉を思い出すたび、鉄之助は喉を潰したくなる。
潰す相手が大家だけでは足りないことを、今は知っている。
相場。
証書。
名義。
利子。
市場。
どれも、首をつかめない。
「だから奪うのか」
「違う」
桐野は刃を引いた。
「燃やす」
店の空気が止まった。
「金禄公債を?」
志乃が言った。
桐野は志乃へ目を向けた。
「帳面を読む女か」
「読めるだけです」
「なら読め。あれは禄ではなく、降伏状だ」
志乃は言い返せなかった。
桐野は続けた。
「緋桜隊は六枚を集めた。残り一枚。第零号があれば、東京株式取引所が開く日に、兜町の前で全部燃やす」
「燃やして何になる」
鉄之助が問う。
「値がつかなくなる」
「それで士族が救われるのか」
「売られるよりましだ」
「死ぬぞ」
「もう死んでいる」
桐野の声は、そこで初めて割れた。
「兄は死んだ。父は公債を握って寝たまま死んだ。母は利子の日まで待てずに米を借りた。商人は証書を半値で欲しがった。誰も刀で殺していない。だから罪人がいない。だから私が罪人になる」
鉄之助は、刃を下げそうになった。
刃を下げかけた隙へ、桐野が踏み込んだ。
りんが叫ぶ。
「鉄さん」
鉄之助は横へ逃げたが、刃が腕を裂いた。血が落ちる。牛鍋の味噌の上に、赤が混じった。
「同情で刃は止まらない」
桐野が言った。
「覚えておけ」
鉄之助は、血の出る腕を見た。
痛みが、頭を冷やした。
「小夜を救う」
「誰だ」
「戦友の妹だ」
「そのために士族を売るか」
「士族ではない。小夜を救う」
鉄之助は今度こそ踏み込んだ。
力で押さず、桐野の軽さに合わせ、半歩遅らせる。鹿児島で、雨の中の斬り合いで覚えた。軽い相手は、先を読ませると消える。読まなければいい。向こうが消えたあとに、残る足を狙う。
桐野の刃が鉄之助の肩をかすめた。
鉄之助は柄尻で桐野の手首を打った。
仕込み刃が床へ落ちる。
同時に、元士族の一人が志乃へ飛びかかった。
「帳面を渡せ」
志乃は逃げなかった。
机の上の算盤をつかみ、男の指へ叩きつけた。珠が弾け、男が悲鳴を上げる。りんが後ろから椀を投げた。椀は男の耳に当たり、割れた。
「帳面女って呼ぶな」
りんが怒鳴った。
「まだ呼んでません」
志乃が言う。
「呼びそうだった」
お梅が、最後の一人を肉切り包丁の背で殴った。
「うちの鍋をひっくり返した代だ」
店内は、味噌、肉、血、証書、灰でぐちゃぐちゃだった。
桐野は床に落ちた刃を見ず、鉄之助を見た。
「殺せ」
「殺さん」
「情けか」
「時間がない」
鉄之助は腕を押さえた。
「医者へ行く」
桐野の目が細くなる。
「小田島か」
鉄之助は動きを止めた。
「なぜ知っている」
桐野は笑った。痛ましい笑いだった。
「小宮が言っていた。東京で病人を見るなら、小田島がいい。金は取るが、腕は確かだと」
鉄之助の喉が詰まった。
「小宮を知っているのか」
桐野は落ちた刃を拾い、荷棒へ戻した。
「知っている。西南で死んだ男だろう」
「お前は」
「小宮は、兄の最後を見た」
店の外で、拍子木が続けざまに鳴った。
誰かが巡査を呼んだのだ。黒田かもしれない。商人かもしれない。近所の者が騒ぎを怖がったのかもしれない。
桐野は緋桜隊の男たちへ目で合図した。
「引く」
「待て」
鉄之助が言う。
「小宮の何を知っている」
桐野は暖簾の前で振り返った。
「小宮は、第零号公債を盗んだ男ではない」
「何」
「預かった男だ」
人を呼ばう声が近づく。
桐野は路地へ消えた。緋桜隊も続く。
鉄之助は追おうとしたが、りんが腕をつかんだ。傷口から血が流れている。
「追う足じゃない」
「小宮のことを」
「小夜の医者が先」
志乃が静かに言った。
「桐野千景は、第零号公債を燃やすと言いました。まだ奪う気です。必ずまた来ます」
鉄之助は拳を握った。
小宮とは、延岡の先の山で別れた。相良の家も小宮の家も、旧幕に禄を食んだ家で、官軍の徴募に応じて同じ隊で西へ行った。太腿を撃たれた小宮を、退がっていく後送の列に預けた。担ぎ手の肩越しに小宮は何か言い、砲声がそれを消した。それが最後で、次に来たのは戦病死の報せの紙一枚。骨も、死に目も、鉄之助は見ていない。
その小宮が、盗んだのではない。
預かった。
誰から。
何のために。
牛鍋屋の床に落ちた味噌の中で、証書の切れ端のような葱が赤く染まっていた。
お梅がため息をついた。
「肉の代、倍だよ」
りんが顔をしかめる。
「公債払いで」
「燃やされる証書はいらないね」
その冗談に、誰も笑えなかった。りんが小さく言い足した。
「……わかってる。お梅さんには魚十日分だ」
外では、巡査の提灯が路地を曲がってくる。
鉄之助は傷口を押さえ、第零号公債の重さを懐に確かめた。武士の墓標、小夜の薬代、贋札原版への鍵——同じ一枚に、違う名前ばかりが貼られていく。
提灯の灯が、格子の向こうで一つ、二つと増えた。




