第八章 牛鍋と不換紙幣
牛鍋屋は、朝から開いていた。
赤い金という言葉を口にしてから、三人は黙った。錦絵、荷札、医者、魚河岸、札。別々のものに見えていた証拠が、同じ火鉢の上で煮える具のように一つの匂いを出し始めていた。
りんが「朝から肉を煮る店は信用できる」と言ったので、鉄之助は「朝から肉を煮る時点で信用ならん」と返した。志乃は二人の言い合いを聞きながら、懐の帳面を押さえている。
店は茅場町の裏通りにあった。表に大きな看板はない。暖簾には、牛の字が太く染められている。中へ入る前から、味噌と肉と葱の匂いが路地まで流れていた。
鉄之助は足を止めた。
「臭い」
「文明の匂いだよ」
りんは平然と言った。
「文明はもっとましな匂いを選べ」
「選べるほど偉くなったらね」
志乃が言った。
「牛鍋屋は、人の口が軽くなる場所です。酒、肉、相場の話。版元や医者の噂も集まるかもしれません」
「医者」
鉄之助の声が低くなる。
小夜。
その名を、誰も口にしなかった。黒田が小夜の名を知っている以上、医者を探すことは罠に近い。それでも探さなければ、小夜の熱は待ってくれない。
りんは暖簾をくぐった。
「お梅さん」
奥から、太い声が返ってきた。
「朝から誰だい。りんか」
店の女将は、腕の太い女だった。髪をきっちり結い、袖をたすきで上げ、鍋を扱う手に迷いがない。りんを見ると眉を上げ、鉄之助と志乃を見ると、さらに眉を上げた。
「魚河岸の娘が、侍崩れと帳面女を連れてきた」
「口が悪いね」
「牛鍋屋で口が甘かったら、肉が負ける」
お梅は三人を奥の席へ押し込んだ。
「食べるのか、隠れるのか」
「両方」
りんが言う。
「金は」
「あとで」
「お前のあとでは、川の水より当てにならない」
そう言いながら、お梅は鉄鍋を置いた。ぶつ切りの牛肉、短く切った葱、味噌。割り下ではなく、味噌で煮る匂いが強い。鉄之助は鍋を睨んだ。
「これは本当に食うものか」
「見てな」
りんは肉を箸で押さえた。
「あんた、戦場で何を食ってたの」
「聞くな」
「じゃあ牛くらい平気だ」
「牛と戦場を一緒にするな」
志乃は鍋を見て、眉を寄せている。
「食べたことないの」
りんが聞く。
「あります。父が、開化は胃から入ると言って」
「変な父ちゃんだね」
「はい」
志乃の口元が緩んだ。
店内には、すでに客がいた。
商人風の男が二人。髷を落としたばかりのような元士族が三人。新聞売りの少年。酒を飲む車夫。誰もが鍋をつつきながら、公債と札の話をしている。
「札が増えすぎなんだ」
商人の一人が言った。
「鹿児島の戦の費えだよ。戦は済んだが、金と替えられねえ札だけが残った」
「そんな紙屑が増えれば、米が高くなる。米が高くなれば、職人が騒ぐ」
「騒いでも腹は膨れねえ」
元士族の一人が、盃を置いた。
「膨れるのは商人の懐だけだ」
商人が笑う。
「士族さんは、まだ懐に刀でも入ってるつもりかい」
空気が張った。
廃刀令の後、刀の話は冗談にならない。鉄之助の手が竹筒へ動きかけ、りんが足を踏んだ。
「痛い」
「黙って食べる」
肉が煮えた。
りんが鉄之助の椀へ入れる。鉄之助はしばらく見てから、口に入れた。
味噌の濃さ。葱の辛さ。肉の重さ。牛乳よりはましだが、身体の中に知らないものが入ってくる感じがある。
「どう」
りんが聞く。
「獣臭い」
「うまい?」
鉄之助は箸を止めた。
「悔しいが、うまい」
りんが笑った。
志乃も肉を口に入れ、顎を引いた。
「数字を読むには、肉も必要ですね」
「帳面女まで開化した」
お梅が鍋の向こうで笑った。
その笑いに紛れて、りんが切り出した。
「お梅さん。錦絵の版元を探してる。第一国立銀行の塔を描いたやつ」
お梅の手が止まった。
「何に使う」
「父ちゃんを探す」
お梅はりんの顔を見た。ふざけた顔ではないとわかると、鍋の火を細くした。
「馬喰町の版元が一枚噛んでる。けど、あれは表だ。実際に摺ったのは、浅草の奥の職人だって聞いた」
お梅は鍋の縁を布巾で拭いた。
「馬喰町のは、去年の暮から妙に羽振りがいい。手代が一人増えたって話だ」
志乃がすぐに小帳面へ書き留めた。
「名前は」
「青柳」
お梅は志乃を見た。
「書くのが早いね」
「逃げるのは遅いです」
「なら生き残るには、書く方で稼ぎな」
りんが続けた。
「医者は」
お梅の顔がさらに硬くなった。
「誰が病人だい」
鉄之助が答えた。
「本所の長屋にいる娘だ」
「熱か」
「長い」
お梅はしばらく考えた。
「薬研堀に、蘭方を見る医者がいる。金は取るが、腕は悪くない」
「名は」
「小田島良庵」
志乃がまた書いた。
「ただし」
お梅は鉄之助へ顔を寄せた。
「昨日から、あの医者の近くに黒い羽織の男が出入りしている」
鉄之助の箸が止まった。
黒田。
予想はしていた。それでも聞かされると、腹の底が冷える。
「罠だね」
りんが言った。
「それでも行く」
鉄之助は即答した。
「罠って聞いた直後に言うことじゃない」
「罠でも、小夜は待てない」
暖簾の下から、洟を垂らした男の子が顔を出したのは、その時だった。本所の長屋の子だという。竹筒を背負った大きなお侍を探して魚河岸を回り、弁蔵にここを教わって走ってきた。
「小夜姉ちゃんの熱が、また上がった。薬が、明日で切れるって」
鉄之助は箸を置いた。息を一つ、深く吸って、吐いた。
「わかった。必ず行くと伝えろ」
りんが子どもの手に銭を握らせ、帰り道へ押し出した。
志乃が筆を止めた。
「行くなら、私たちも」
「来るな」
「黒田は、あなた一人を待っています。なら一人で行く方が危ない」
りんが鍋から肉を取った。
「志乃さんの言う通り。あと、あんた一人だと医者に金の話ができない」
「俺でもできる」
「公債を百円かどうかもわからなかった人が?」
鉄之助は黙った。
店の向こうで、元士族たちの声が大きくなっていた。
「金禄公債など、墓標だ」
一人が言った。
「禄を証書に替え、刀を奪い、商人に売らせる。これを国と呼ぶなら、国とは何だ」
商人が言い返す。
「売る方が悪い。持っていれば利子が出る」
「持っていて腹が膨れるか」
「働けばいい」
その一言で、鍋屋の空気が変わった。
鉄之助は、鹿児島で聞いた声を思い出した。働け。降れ。従え。生きたければ新しい世に慣れろ。その言葉を聞くたびに、誰かが銃を握り直した。
元士族の男が立った。
だが動いたのは、その男ではなかった。
店の入口の暖簾が揺れた。
女が入ってきた。
年は二十代半ば。髪は男のように短くまとめ、着物は地味だが、足運びが静かすぎる。袖口には、血のような緋色の紐が一筋結ばれていた。腰に刀はない。代わりに、手には細い荷棒を持っていた。荷棒に見える。だが鉄之助には、重心が違うとわかった。
仕込みだ。
女は店内を見渡し、まっすぐ鉄之助を見た。
「相良鉄之助」
名前を呼ばれた瞬間、鍋屋の声が消えた。
りんが箸を置く。
志乃が帳面を閉じる。
鉄之助は立たなかった。
「誰だ」
女は荷棒を床に突いた。
「緋桜隊、桐野千景」
「桐野……」
元士族の一人が呟いた。薩摩の桐野利秋を思い浮かべる姓だった。
「あの桐野とは、縁もゆかりもない」
女は先回りして言った。
元士族たちが一斉に黙った。畏れというより、待っていた者が来たという沈黙だった。
桐野千景は鉄之助の膳を見た。
「牛を食うか」
「食っている」
「武士の禄を売り、開化の肉を食う。器用な男だ」
鉄之助の目が細くなった。
「俺は武士ではない」
「なら何だ」
りんが横から言った。
「その質問、流行ってるの?」
桐野はりんを見ず、鉄之助だけを見た。
「第零号公債を持っているな」
志乃の肩が硬くなった。黒田とも商人とも違う手が、同じ証書へ伸びてきた。それに——第零号の名を、この女は知っている。
志乃が小さく言った。
「彼女たちにも、帳面を読む者がいる」
「知らん」
鉄之助が言うと、桐野は荷棒をひねった。
中から細い刃が現れた。
桐野は一歩進んだ。
「お前、武士をいくらで売った」
鉄之助は立ち上がった。
店の火が、二人の間で揺れ、桐野の袖口の緋色の紐を赤く照らした。




