表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
兜町の赤い金  作者: megu
8/11

第八章 牛鍋と不換紙幣

牛鍋屋は、朝から開いていた。


赤い金という言葉を口にしてから、三人は黙った。錦絵、荷札、医者、魚河岸、札。別々のものに見えていた証拠が、同じ火鉢の上で煮える具のように一つの匂いを出し始めていた。


りんが「朝から肉を煮る店は信用できる」と言ったので、鉄之助は「朝から肉を煮る時点で信用ならん」と返した。志乃は二人の言い合いを聞きながら、懐の帳面を押さえている。


店は茅場町の裏通りにあった。表に大きな看板はない。暖簾には、牛の字が太く染められている。中へ入る前から、味噌と肉と葱の匂いが路地まで流れていた。


鉄之助は足を止めた。


「臭い」


「文明の匂いだよ」


りんは平然と言った。


「文明はもっとましな匂いを選べ」


「選べるほど偉くなったらね」


志乃が言った。


「牛鍋屋は、人の口が軽くなる場所です。酒、肉、相場の話。版元や医者の噂も集まるかもしれません」


「医者」


鉄之助の声が低くなる。


小夜。


その名を、誰も口にしなかった。黒田が小夜の名を知っている以上、医者を探すことは罠に近い。それでも探さなければ、小夜の熱は待ってくれない。


りんは暖簾をくぐった。


「お梅さん」


奥から、太い声が返ってきた。


「朝から誰だい。りんか」


店の女将は、腕の太い女だった。髪をきっちり結い、袖をたすきで上げ、鍋を扱う手に迷いがない。りんを見ると眉を上げ、鉄之助と志乃を見ると、さらに眉を上げた。


「魚河岸の娘が、侍崩れと帳面女を連れてきた」


「口が悪いね」


「牛鍋屋で口が甘かったら、肉が負ける」


お梅は三人を奥の席へ押し込んだ。


「食べるのか、隠れるのか」


「両方」


りんが言う。


「金は」


「あとで」


「お前のあとでは、川の水より当てにならない」


そう言いながら、お梅は鉄鍋を置いた。ぶつ切りの牛肉、短く切った葱、味噌。割り下ではなく、味噌で煮る匂いが強い。鉄之助は鍋を睨んだ。


「これは本当に食うものか」


「見てな」


りんは肉を箸で押さえた。


「あんた、戦場で何を食ってたの」


「聞くな」


「じゃあ牛くらい平気だ」


「牛と戦場を一緒にするな」


志乃は鍋を見て、眉を寄せている。


「食べたことないの」


りんが聞く。


「あります。父が、開化は胃から入ると言って」


「変な父ちゃんだね」


「はい」


志乃の口元が緩んだ。


店内には、すでに客がいた。


商人風の男が二人。髷を落としたばかりのような元士族が三人。新聞売りの少年。酒を飲む車夫。誰もが鍋をつつきながら、公債と札の話をしている。


「札が増えすぎなんだ」


商人の一人が言った。


「鹿児島の戦の費えだよ。戦は済んだが、金と替えられねえ札だけが残った」


「そんな紙屑が増えれば、米が高くなる。米が高くなれば、職人が騒ぐ」


「騒いでも腹は膨れねえ」


元士族の一人が、盃を置いた。


「膨れるのは商人の懐だけだ」


商人が笑う。


「士族さんは、まだ懐に刀でも入ってるつもりかい」


空気が張った。


廃刀令の後、刀の話は冗談にならない。鉄之助の手が竹筒へ動きかけ、りんが足を踏んだ。


「痛い」


「黙って食べる」


肉が煮えた。


りんが鉄之助の椀へ入れる。鉄之助はしばらく見てから、口に入れた。


味噌の濃さ。葱の辛さ。肉の重さ。牛乳よりはましだが、身体の中に知らないものが入ってくる感じがある。


「どう」


りんが聞く。


「獣臭い」


「うまい?」


鉄之助は箸を止めた。


「悔しいが、うまい」


りんが笑った。


志乃も肉を口に入れ、顎を引いた。


「数字を読むには、肉も必要ですね」


「帳面女まで開化した」


お梅が鍋の向こうで笑った。


その笑いに紛れて、りんが切り出した。


「お梅さん。錦絵の版元を探してる。第一国立銀行の塔を描いたやつ」


お梅の手が止まった。


「何に使う」


「父ちゃんを探す」


お梅はりんの顔を見た。ふざけた顔ではないとわかると、鍋の火を細くした。


「馬喰町の版元が一枚噛んでる。けど、あれは表だ。実際に摺ったのは、浅草の奥の職人だって聞いた」


お梅は鍋の縁を布巾で拭いた。


「馬喰町のは、去年の暮から妙に羽振りがいい。手代が一人増えたって話だ」


志乃がすぐに小帳面へ書き留めた。


「名前は」


「青柳」


お梅は志乃を見た。


「書くのが早いね」


「逃げるのは遅いです」


「なら生き残るには、書く方で稼ぎな」


りんが続けた。


「医者は」


お梅の顔がさらに硬くなった。


「誰が病人だい」


鉄之助が答えた。


「本所の長屋にいる娘だ」


「熱か」


「長い」


お梅はしばらく考えた。


「薬研堀に、蘭方を見る医者がいる。金は取るが、腕は悪くない」


「名は」


「小田島良庵」


志乃がまた書いた。


「ただし」


お梅は鉄之助へ顔を寄せた。


「昨日から、あの医者の近くに黒い羽織の男が出入りしている」


鉄之助の箸が止まった。


黒田。


予想はしていた。それでも聞かされると、腹の底が冷える。


「罠だね」


りんが言った。


「それでも行く」


鉄之助は即答した。


「罠って聞いた直後に言うことじゃない」


「罠でも、小夜は待てない」


暖簾の下から、洟を垂らした男の子が顔を出したのは、その時だった。本所の長屋の子だという。竹筒を背負った大きなお侍を探して魚河岸を回り、弁蔵にここを教わって走ってきた。


「小夜姉ちゃんの熱が、また上がった。薬が、明日で切れるって」


鉄之助は箸を置いた。息を一つ、深く吸って、吐いた。


「わかった。必ず行くと伝えろ」


りんが子どもの手に銭を握らせ、帰り道へ押し出した。


志乃が筆を止めた。


「行くなら、私たちも」


「来るな」


「黒田は、あなた一人を待っています。なら一人で行く方が危ない」


りんが鍋から肉を取った。


「志乃さんの言う通り。あと、あんた一人だと医者に金の話ができない」


「俺でもできる」


「公債を百円かどうかもわからなかった人が?」


鉄之助は黙った。


店の向こうで、元士族たちの声が大きくなっていた。


「金禄公債など、墓標だ」


一人が言った。


「禄を証書に替え、刀を奪い、商人に売らせる。これを国と呼ぶなら、国とは何だ」


商人が言い返す。


「売る方が悪い。持っていれば利子が出る」


「持っていて腹が膨れるか」


「働けばいい」


その一言で、鍋屋の空気が変わった。


鉄之助は、鹿児島で聞いた声を思い出した。働け。降れ。従え。生きたければ新しい世に慣れろ。その言葉を聞くたびに、誰かが銃を握り直した。


元士族の男が立った。


だが動いたのは、その男ではなかった。


店の入口の暖簾が揺れた。


女が入ってきた。


年は二十代半ば。髪は男のように短くまとめ、着物は地味だが、足運びが静かすぎる。袖口には、血のような緋色の紐が一筋結ばれていた。腰に刀はない。代わりに、手には細い荷棒を持っていた。荷棒に見える。だが鉄之助には、重心が違うとわかった。


仕込みだ。


女は店内を見渡し、まっすぐ鉄之助を見た。


「相良鉄之助」


名前を呼ばれた瞬間、鍋屋の声が消えた。


りんが箸を置く。


志乃が帳面を閉じる。


鉄之助は立たなかった。


「誰だ」


女は荷棒を床に突いた。


「緋桜隊、桐野千景」


「桐野……」


元士族の一人が呟いた。薩摩の桐野利秋を思い浮かべる姓だった。


「あの桐野とは、縁もゆかりもない」


女は先回りして言った。


元士族たちが一斉に黙った。畏れというより、待っていた者が来たという沈黙だった。


桐野千景は鉄之助の膳を見た。


「牛を食うか」


「食っている」


「武士の禄を売り、開化の肉を食う。器用な男だ」


鉄之助の目が細くなった。


「俺は武士ではない」


「なら何だ」


りんが横から言った。


「その質問、流行ってるの?」


桐野はりんを見ず、鉄之助だけを見た。


「第零号公債を持っているな」


志乃の肩が硬くなった。黒田とも商人とも違う手が、同じ証書へ伸びてきた。それに——第零号の名を、この女は知っている。


志乃が小さく言った。


「彼女たちにも、帳面を読む者がいる」


「知らん」


鉄之助が言うと、桐野は荷棒をひねった。


中から細い刃が現れた。


桐野は一歩進んだ。


「お前、武士をいくらで売った」


鉄之助は立ち上がった。


店の火が、二人の間で揺れ、桐野の袖口の緋色の紐を赤く照らした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ