借りる名
その日の午後、魚の頭を四つ並べて、男は一番小さい物から値を聞いた。
「同じ値なら、こっちはいらん」
「煮れば同じだよ」
「同じなら大きい方をくれ」
近衛砲兵の上着は着ていても、腰の銭入れは薄かった。瀬川宗吉は大きい鯛の頭を二つと、切り落とした鰹の端を油紙へ包ませた。
りんは共同勘定を預かる弁蔵を捜しに、魚棚の奥へ入っていた。
鉄之助が名を呼ぶと、瀬川は魚でなく、先に鉄之助の右膝を見た。
「まだ引きずってるのか」
「お前は、河岸で何をしている」
「今、見ただろ。夕飯を買ってる」
西南の戦で、瀬川の砲兵隊と鉄之助の隊は一度だけ一つの釜を分けた。雨で糧秣車が遅れた夜だった。瀬川は自分の椀を空にしてから、鍋の底へ残った豆を七つ数えた男である。
「相良。字はまだ書けるか」
瀬川は懐から折り紙を出した。兵営へ出す願いの下書きだという。
「俺の勤めが六日減ってる。その六日ぶん、給金も減った。去年、西で砲を曳いた日のうち六日だ」
「休んだのではないのか」
「休んだ日に、砲尾で左の爪を潰すか」
親指の爪は半分だけ黒く生え直していた。瀬川は紙を鉄之助へ押しつけた。
「戦役の褒賞と、引かれた分を受け取ったら、郷里の母へ送る。それで兵をやめる。誰が何を願っているか、読んでわかる文にしてくれ。役所の文句は知らん」
瀬川は来月の自分の暮らしを、魚の頭二つぶんずつ残していた。
「読む。先に、りんの用へ付き合え」
りんが魚棚の奥から戻り、二人を鰹台の前へ連れていった。
弁蔵は鰹の腹を開きながら最後まで聞き、包丁を水桶へ入れた。
「辰五郎の娘が頼むから会う。立て替えるとはまだ言ってない」
「俺が借りる」
「病人を見てから決める。お前の気持ちは銭箱へ入らん」
弁蔵は帳面を小脇へ挟んだ。瀬川も魚包みを持ったままついてきた。
「条件を聞いた者が要るなら、俺が書く。その代わり相良、俺の願いも読め」
本所の長屋へ着くと、鉄之助は借りた帰京手紙を小夜へ返した。小夜はそれを長持へ納めてから、昨日より背を起こした。
一昨日の夜から四回、朝夕に一包ずつ使った。枕元の小皿には、一包だけが残っている。熱も咳も消えていないが、昨夜と今朝は息の切れ目に粥を一椀近く食べられた。
弁蔵は見舞いを言わず、畳へ帳面を開いた。
「七日で一度、続けるか止めるか決める。その七日に使った物だけ書く。薬包、医者の往き来、米、卵、炭、ここの家賃、品を運んだ足代。使わない物は書かない」
小夜は項目を指で追った。
「誰が、使った額を確かめますか」
「店ごとの受取を、りんが運ぶ。俺が帳面へ入れる。あんたにも同じ欄の写しを渡す」
「上限は」
「この口を閉じるまで、元本三十六円。残りは毎週書く。そこまで行ったら、薬が要ると言われても俺一人では出さん」
弁蔵は証人欄を叩いた。
「ここへ一人。返す者ではない。今日の条件を聞いた者だ」
情けを言わない代わり、終わりを隠さない男だった。
鉄之助は借主の欄へ名を書いた。
相良鉄之助。
小夜が筆を求めた。まだ力の戻らない手で、鉄之助の名へ一本の線を引く。
「小宮小夜、と直してください」
「返す当てがあるのか」
弁蔵が初めて、小夜の顔を見た。
「七日ごとなら、その時に話します。縫い直しを一枚受けられたか、まだ寝ていたか。続ける理由も、止める理由も、私が言います」
「相良を借主にすれば、あんたは返さずに済む」
「相良さまの名を使えば、相良さまが決める借りになります」
鉄之助は線を引かれた自分の名を見た。書き直そうとはしなかった。
弁蔵が長持を顎で示す。
「公債は預からんぞ。今は売れない。売れない物を担保と言って持ち出せば、俺まで裏の売り手にされる」
「証書は渡しません」
小夜は息を継いだ。
「兄の遺族という一回分にはしません。周防さまの二日分も、私の払いとしてここへ足してください。使った物だけ、私の名へつけてください」
小夜は自分で筆を持った。小宮小夜。二文字目で咳をこらえ、最後の一画は筆を置き直して引いた。
瀬川が証人欄へ座る。
「名簿から消えた六日で、今月の夕飯も六日減った。名を書くなら、減った時に誰へ言うかまで見届ける」
瀬川宗吉。
名を書いたあと、瀬川は鯛の頭を置いて帰らなかった。これは自分の夕飯だと言い、もう一度包み直した。鉄之助の前には、兵を辞める願いだけを残した。
弁蔵は帳面を閉じた。最初の七日は、周防の二日猶予を引き継ぎ、今夜から使った分だけをつける。薬包と往診の受渡しは止まらない。
帰り際、弁蔵は鉄之助へ言った。
「守るなら、毎週ここへ来て残りを読め。勝手に払うな」
弁蔵と瀬川が路地へ出たあと、小夜は長持から帰京手紙を取り出した。
昨日は貸さなかった内側を開く。妹へ向けた字だけが少し右上がりだった。
——塩の薄い漬物ができたら、霊岸島の裏長屋へ持ってこい。表は油屋。井戸の向こうから三軒目。雨戸はまた俺の背より先に倒れる。
折り目から、錆の浮いた小さな鍵が落ちた。
「署名を止めなかったから、見せます」
小夜は手紙を閉じ、鍵だけを鉄之助の掌へ置いた。
「兄が東京で借りていた部屋です」




