帳面を読む三人
五月十七日の朝、志乃は三枚の紙を、時刻の早い順に置こうとした。
りんは、そのうち一枚を勝手に動かした。
「これは先」
辰五郎の納屋には、朝の光が板壁の隙間から細く入っている。乾いた藁の上に、志乃が写した秘密買付表の三行、青柳の預り証控えの写し、二つ折りの荷札が並んでいた。
少し離して、小夜から借りた帰京手紙がある。全文は開かないこと、日付と最初の一面だけを見ること、日が暮れる前に返すこと。小夜が一つずつ条件を言い、鉄之助が復唱して持ってきた。
志乃は動かされた荷札を元へ戻さなかった。
「理由を言ってください」
「魚油が内側から染みてる。父ちゃんが鯛三箱へ付けた時に濡れた。乾いてから折って、その上へ赤石屋の字を書いてる」
りんは札を開き、光へ斜めにした。
内側の油染みは折り目で切れている。外側の「い七十四」の墨は、その染みを避けず上から走っていた。
「鹿児島で買付を書いて、あとから魚荷に使ったなら、墨が先に油を吸う。これは逆」
志乃は自分の写しへ、使用順、とだけ書いた。
「つまり、この札は東京で作られた」
「そこまでは言ってない。父ちゃんの荷に使ったあと、買付を書いた。それだけ」
りんは自分の見える所より先を売らなかった。
鉄之助が荷札の外側を指す。
「鹿児島渡し、二月十一日。日本橋入り、十二日」
「それは既に聞きました」
「今度は、りんの順を入れる」
鉄之助は空の魚箱を一つ、納屋の端へ置いた。鹿児島。もう一つを戸口へ置く。日本橋。
「この間に、陸路、船待ち、積み替え、荷改めがある。札の魚油が東京で先についたなら、十一日に鹿児島で現物を受けたという一行は、運搬の記録ではない」
りんが二つの箱の間を見た。
「父ちゃんの荷が先。買付の字があと。あんたの一日じゃ届かない。なら、鹿児島って書いた人が、荷を見てない」
鉄之助はうなずいた。
りんが父を疑い、鉄之助が運搬時間を疑う。片方だけでは、辰五郎が鹿児島から証書を運んだ話にも、赤石屋が古い荷札を再利用した話にもできた。二つを重ねると、現物を見ずに東京で作った行だけが残る。
志乃はまだ、買付表の写しを見ていた。
「二月十二日」
「そこが何だ」
「この『二』は、私の字です」
志乃は自分の帳面へ二を書いた。最初の横画を短く置き、二画目の終わりだけをわずかに上げる。昨日、原表の字を自分の形へ直さず写した二にも、その払いが残っていた。
りんが二枚を入れ替えて見た。
「似てる、じゃなく?」
「私が書きました」
志乃の敬語が、さっきより硬くなった。
「父に一行だけ頼まれました。日付の位置がずれたから、清書し直してほしいと。借主の名も、証書番号も伏せた紙でした。私は数字だけを直しました」
「いつだ」
「二月です。父は、官へ出す前の整えだと言いました」
実際には官へ出す書式でなく、赤石屋の秘密買付表へ入った。
志乃は写しの「二月十二日」の脇へ、自分の名を書いた。辰野志乃。字は小さくしなかった。
「この写しを出す時は、私が直したことも出します」
父の行方を探す娘の手に、自分が偽の日付へ触れた証拠が残った。
鉄之助は買付表の写しへ目を落とした。
「俺も名簿へ嘘を書いた」
りんが顔を上げる。
「負傷兵の米を残すため、移った兵の名を二日消さなかった。その分、別の隊の鍋が空になった」
「誰かに頼まれた?」
「自分で決めた」
「なら、志乃さんの父ちゃんと同じにはできないね」
責めも慰めもしなかった。違う所を違うまま置いた。
りんは辰五郎の荷札を掌で押さえた。
「父ちゃんも、知らずに三箱運んだことにはできない。赤石屋裏蔵って自分で書いてる」
三人のうち、紙の外に立てる者はいなかった。
最後に、鉄之助は小夜の手紙を開いた。
明治十年十二月十八日。
小夜へ。帰った。顔を見たら、お前は先に怒るだろうから、漬物の塩を減らして待て。
そこまでが、借りることを許された一面だった。
小宮は数字を書く時、六の頭を小さく閉じた。糧食簿でも、鉄之助へ残した伝言でも同じだった。手紙の日付の六も閉じている。塩の強い物を嫌うことは、鉄之助と小夜しか知らない。
「戦死通知は九月二十四日」
志乃が主語を置く。
「帰京手紙は十二月十八日。小夜さんは本人を見た。荷札の買付面は、魚荷に使われた後、東京で書かれた可能性が高い」
「可能性、なの」
りんが聞く。
「紙だけなら、です」
鉄之助は二つの魚箱を元の場所へ戻した。
鹿児島から日本橋へ、一日では届かない。九月に死んだ男が、十二月に妹の漬物へ文句は書かない。
今度は、りんの油の順も、志乃の字も借りて言えた。
「小宮は、鹿児島で死んでいない」




