善い役人
青柳が飲み込んだ名を、志乃は知っていた。
「周防主計。父の旧い仕事控えにあります。大蔵の実務官です」
それ以上、善人とも悪人とも言わなかった。父を探すための一行として、名と勤め先だけを鉄之助へ渡した。
鉄之助はその日の昼過ぎまで、海運橋のたもとで返事を待った。
第一国立銀行の塔が川向こうに立っている。木の壁へ洋風の窓を並べ、その上へ城のような屋根を載せた建物は、遠くからでも金を預けてよい顔をしていた。入口へ米屋の手代が小さな包みを抱えて入り、出る時には何も持っていなかった。それでも来た時より肩を落とさず歩いていく。
小夜の証書は、あの戸口へも入れない。
やがて役所の小使が来て、向かいの薬問屋を示した。
「周防さまはこちらで会うそうです」
店の奥では、薬棚の前に二人の男が立っていた。一人は問屋の主人。もう一人は、黒田より少し若く見えた。鼠色の羽織に汚れはなく、帯へ差した筆が歩いても揺れない。
「相良鉄之助さん」
男は名を間違えず、次に座敷へ上がらず立ったままの鉄之助を見た。
「周防主計です。小宮小夜さんの件と聞きました」
鉄之助が小使へ預けた言葉は、小宮家の薬について話したい、だけだった。
「次の往診と薬包を、二日待ってほしい」
「支払いを、ですね」
「そうだ」
問屋の主人が帳面を開いた。
「前の分も残っています。往診の医師へ渡す分、薬種屋へ回す分、運ぶ人足。二日延ばせば、こちらが三つへ頭を下げる」
「俺が払う」
「いつ」
鉄之助は答えられない。金禄公債を売れないことだけはわかったが、いつ売れるかは誰も言わなかった。
周防が主人の帳面を自分へ向けた。
「選べる形は二つです」
声に同情は混ぜなかった。
「一つは、戦死者小宮佐一の遺族救恤として、今回だけ別の口へ移す。小夜さんに返す義務は残りません。もう一つは、小宮小夜さん本人の払いとして二日延ばす。私が受渡しを確認します。二日後には別の支払手段が要ります」
鉄之助は昨夜の声を思い出した。
決める時は、私の名で借ります。
「小夜の払いにしてくれ」
周防は一度だけうなずいた。
「そうでしょうね。昨日、残り五包を朝だけにすれば保つ、と考えた方なら、一回の救恤は選ばない」
鉄之助は周防の手を見た。
「なぜ昨日の残りを知っている」
問屋の主人も顔を上げた。
周防は問いから逃げず、しかし答えにも近づかなかった。
「医師の出入りと、払われなかった分を調べました」
「額面も知っているのか」
「七分利、百円。小宮佐一さんの名で交付された一枚です」
鉄之助は周防の襟元をつかみかけた。
右手が動く前に、問屋の小僧が薬包を包み直す音がした。薄紙が二度擦れ、紐を切る音が続いた。
「相良さん」
周防は声を強めなかった。
「私をここで殴るか、小夜さんが今夜眠れる方を先に決めるか。その二つです」
鉄之助は手を下ろした。
周防は主人へ筆を借りた。小宮小夜本人の払い、二日間、薬包と次回往診の受渡しを止めない。費目を混ぜず、使った分だけを記す。短い書付へ自分の名を添えた。
主人はまだ渋い顔をしている。
「役所が払うわけではないのでしょう」
「払いません。私が確認したという信用だけです。受けるか断るかは、あなたが決めてください」
命令しなかった。
主人は店の者三人を見た。薬包を折る女、棚を掃く小僧、荷を待つ人足がいる。二日分なら引き受ける、と言い、書付を帳面へ挟んだ。
次の往診で渡す分が棚の一角へ取り置かれた。薬の中身が変わるわけではない。咳と熱を少し和らげ、眠れる時間を作るだけだ。それでも小夜は、残る包を朝夕に使っても、次が途切れない。
「なぜ助ける」
鉄之助は問うた。
周防は薬包でなく、問屋の帳面を見た。
「一人の未払いで三つの店が止まる方が高くつきます。小宮小夜さんにも、店の者にも、二日は同じ二日です」
主人は帳面を閉じ、小僧は取り置きの札を棚へ掛けた。周防の一筆で、今夜の薬と次の往診がつながった。
主人が受渡しの小札を差し出した。鉄之助は周防へ背を向けて受け取り、懐へ納めてから、そのことに気づいた。赤石屋の手代には一度も背を向けなかった。
「恩に着る」
「二日後にも、その言葉で払える店はありません」
周防は笑わずに言った。
机の端に、別の予定紙があった。東京株式取引所、諸公債、金禄。並んだ字の次に日付らしい墨が続いている。
鉄之助が目を移すと、周防は予定紙へ手を置いた。
「金禄は今、売れません。今日わかるのはそこまでです」
「いつまでだ」
「表へ出せる答えは、まだありません」
周防は薬問屋を出るまで、相良とも小宮とも呼び違えなかった。
その指だけが、予定紙の一日を隠したまま動かなかった。




