第六章 三井組ハウス
三人は兜神社の裏から、日本橋川へ落ちるように出た。
夜の川は黒く、橋の影を飲んでいる。志乃はためらわず、石垣沿いの細道を走った。草履が濡れた石を叩く。りんはその後ろを軽く追い、鉄之助は二人を追いながら、背後の足音を数えた。
三つ。
黒田の手下が三人。追い立てるだけで、間を詰めてはこない。
黒田本人は走っていない。走らなくても、こちらの行く先を知っている。そういう男だ。
「どこへ行く」
鉄之助が聞くと、志乃は振り向かずに答えた。
「札の城です」
「第一国立銀行か」
「正面からは入りません」
「入るつもりなのか」
「逃げるだけなら、すぐ捕まります。追われる理由を読まなければ」
りんが横から言った。
「気に入った」
「私は、あなたに気に入られるために走っていません」
「じゃあ何のため」
志乃は息を飲んだ。
「父を見つけるためです」
その答えに、りんは何も返さなかった。
海運橋のたもとに、第一国立銀行が夜の姿を立てていた。昼は名所、夜は番所。木造の二階建ての上に、城郭のような塔屋が乗っている。洋風の窓は暗く、ところどころに灯が残る。三井組が海運橋のたもとに建てた建物を譲り受けたものだと、志乃は走りながら言った。
「銀行は、あんな高い塔が要るのか」
鉄之助が言うと、志乃は短く答えた。
「要るのは塔ではなく、見せ方です」
「見せ方」
「人は、立派な建物に預ける方が安心します。証書や紙幣に書かれた約束を信じるには、石や柱や塔が必要なんです」
「約束なら、人の口で足りる」
「口は死にます」
志乃の声は冷たかった。
「帳面は残ります」
「帳面も燃える」
りんが言うと、志乃は胸に抱えた焦げた帳面を見た。
「だから写しを作ります」
第一国立銀行の裏手に、荷を運び込む背の低い戸があった。志乃はそこへ駆け寄り、袖の中から細い鍵を出した。
「盗んだのか」
鉄之助が聞く。
「父のものです」
「同じことじゃないの」
りんが言うと、志乃の眉が寄った。
「違います。盗みは帳簿に残りません。借りたものは返せば消えます」
「それ、盗人の理屈だよ」
志乃は返事をせず、鍵を回した。
戸は開いた。
中は、墨と油と木の匂いがした。魚河岸の濡れた臭いとは反対の、乾いた臭い。棚には帳面、紐で束ねた書類、封じられた紙包み。奥には低い机と、背の高い帳簿台がある。
「ここは」
「外から来る荷の仮置き場です。銀行の中ではありません。だから、私でも鍵を預かれた」
「私でも、か」
りんが言った。
志乃は目を伏せた。
「正式な行員ではありません。女ですから」
「女だと帳面が読めないのか」
鉄之助が聞くと、志乃は初めて彼をまっすぐ見た。
「読めます」
「なら問題ない」
「問題にする人が多いんです」
りんの口元が緩んだ。
「鉄さん、ときどき雑に正しいね」
「縮めるな」
志乃は机の引き出しを開け、紙包みを出した。油紙ではなく、きれいな紙で包まれている。中から現れたのは、一枚の紙幣だった。
「国立銀行紙幣です」
鉄之助は身を引いた。
「また札か」
「これが、いま米や荷を動かしている札です」
志乃は紙幣を机に置いた。
一円。
図柄には水兵の姿があり、細かな線と飾りが紙面を埋めている。鉄之助は思わず顔を近づけた。金禄公債よりも、ずっと細かい。
「絵だな」
「贋造を防ぐための線です。真似のできない線ほど、紙を本物にします」
「贋の札と、本物の札は何が違う」
「用紙だけではありません。誰がそれを本物だと認めるか、です」
りんが机に肘をついた。
「魚なら、腐ってるかどうかでわかる」
「信用は、紙がきれいなまま崩れます」
志乃は焦げた帳面を開いた。
「父の帳面には、金禄公債の番号と銀行紙幣の番号が並んでいました。本来は隣に来ない番号です。父は、どの公債がどの名義へ移り、その名義がどの札を支えるか——つなぎ目を見ていた」
「別の魚を同じ箱に入れてる」
りんが言った。
「魚河岸の言い方なら、それです。鯛の箱に鰯を入れて、箱の札だけは鯛のまま」
鉄之助は第零号公債を出した。
「この赤い印か」
志乃は答える前に、印へ目を寄せた。行灯の灯を引き寄せ、指の背で印の縁を確かめる。
「……この赤、朱ではありません。蘇芳です。役所の印肉ではない」
「すおう」
「染めの赤です。朱より安く、色が沈む。役所は使いません」
志乃は国立銀行紙幣と金禄公債を並べ、焦げた帳面の切れ端を置いた。零。玉。一八七八。そして紙幣の番号らしき列。
「合うのか」
鉄之助が聞く。
「合いすぎます」
志乃の声は震えていた。
「公債番号、紙幣番号、錦絵の版元番号。三つを重ねると、一つの場所を示します」
「場所」
「原版です。紙幣を刷るためのもと。版があれば、同じ紙幣を作れる」
「本物の偽物を作れるってこと」
「偽物の本物です」
志乃は言った。
「見分けがつかなければ、人は使います。使って損をした人が怒れば、札そのものを疑う。信用が崩れれば、銀行も市場も止まります」
そのとき、外の戸口で戸板を擦る音がした。
鉄之助は竹筒をつかむ。りんが机の上の証拠束を素早くまとめる。志乃は帳面の切れ端を袖へ隠した。
「開けろ」
男の声。
黒田の手下ではない。もっと若い。だが恐怖で硬くなっている声だった。
志乃は顔をしかめた。
「番頭の佐伯さんです」
「味方か」
「味方というほど強くありません」
りんが言う。
「それは味方じゃないね」
戸が叩かれた。
「辰野さん。いるんでしょう。黒田様が来ています。出てください。今なら、まだ」
今なら、まだ。
その先を、番頭は言わなかった。
志乃は帳面を閉じた。
「ここには裏口がありません。裏口のない部屋は、黒田も表の一箇所しか見張らない」
「何で逃げ道のない所へ来た」
鉄之助が言うと、志乃は机の下から紙包みを出した。
「あるのは、隠し場所です」
包みを開くと、あんぱんが三つ出てきた。
鉄之助の思考が、そこで途切れた。
「何だこれは」
「あんぱんです」
「饅頭か」
「パンです」
りんが一つ取った。
「銀座の木村屋のやつ? 煉瓦街の」
「はい」
「何でこんな時に」
「食べないと、頭が動きません」
志乃は真顔だった。
鉄之助は渡されたあんぱんを見た。パンという西洋の食べ物に、餡が入っている。
一口食べた。
甘かった。
「うまい」
りんが笑った。
「ほら、また」
戸がさらに強く叩かれた。
「開けますよ」
志乃は紙幣を包みに戻し、あんぱんの包み紙を広げた。内側に、細かい数字が書かれている。
「本当の隠し場所はこちらです」
「食い物に書くな」
鉄之助が言うと、志乃は平然と返した。
「帳面は燃えます。食べ物の包みは誰も帳面だと思いません」
りんが感心したように言った。
「あんた、魚河岸に向いてる」
「向いていません」
「向いてるよ。臭いが甘いだけで、やってることは同じ」
志乃は目を伏せて笑った。
その短い笑みを、鉄之助は見た。
この女は、怯えている。父を失い、帳面を抱え、黒田に追われている。それでも数字を見る目だけは揺れない。戦場で砲声の中でも弾込めを間違えない兵に似ていた。
戸が開いた。
若い番頭が顔を出す。後ろに黒田半蔵が立っていた。
「辰野志乃」
黒田は静かに言った。
「数字は読めたか」
志乃はあんぱんを飲み込んだ。
「読めました」
「では渡せ」
「嫌です」
黒田の顔から笑みが消えた。
「女の身で、何を守る」
志乃は机の上の紙幣を指で押さえた。
「身ではありません。数字です」
黒田が一歩入った。
鉄之助は仕込みの刃を抜いた。
今度は、りんも止めなかった。
狭い荷置き場に、刃と帳面と甘い匂いが満ちた。
志乃が言った。
「相良さん」
「何だ」
「読めています。写す時間を、十息」
鉄之助は黒田を見た。
「十息だ」
「何が」
「お前をここで止める時間だ」
黒田は初めて、鉄之助だけを見た。
「西南の残り火が、兜町で燃えるか」
「帳面よりはよく燃える」
鉄之助は踏み込んだ。
りんは棚の赤い紐を引いた。紙包みが床へ落ち、封じられた帳票が散る。番頭が足を止めた。帳票を踏めば証拠を潰す。黒田の部下も半歩遅れた。
その背後で、志乃の筆が包み紙を走った。
十息。
その十息で、帳面の町の形が変わる音がした。
志乃は筆を止め、顔を上げた。
「これ、贋札の原版につながる番号です」




