生きている証人
翌朝、青柳の工房では、紙にも乾く順があるらしかった。
朝一番の光が差す棚に魚荷札、奥の風が弱い棚に預り証、火鉢から最も遠い所に名を空けた委任の紙が吊られている。紙の端はどれも揃い、墨の濃さだけが少しずつ違った。
「新吉、いる?」
りんが戸口から呼ぶと、前掛けを墨で汚した少年が顔を出した。
「姉さんの親方、また払いを延ばす気か」
「今日は字を見せに来た」
りんが二つ折りの札を出す。新吉は魚荷の面を先に見て、辰五郎の名へ指を止めた。
「これは俺じゃない。辰さんの字だ」
「反対は」
札を返した途端、少年の指が離れた。
工房の奥で、筆を洗う音が止んだ。
「新吉。糊を見てこい」
青柳は五十前の男だった。袖を肘まで上げ、爪の際へ墨が染みている。人の顔より先に札の切り口を見た。
「見せな」
鉄之助は渡さず、自分の掌へ載せた。
「い七十四。誰が書いた」
「紙へ聞け」
青柳は指の腹で空をなぞった。触れなくても、筆の入りと抜きが見えるらしい。
「魚油が先だ。内側で乾いてから折ってある。そのあと外へ別の墨で書いた。買付の字は俺じゃない」
「では、何がお前の字だ」
「決めつけるのが早い」
青柳は札の「預」の一字を見た。
「その字を教えたのは俺だ。手本を十二枚書いた」
りんが吊られた紙を一枚、光へ透かす。青柳の目が鋭くなった。
「触るな。まだ乾いてない」
「誰に頼まれた」
「仕事を頼む者だ」
「父ちゃんの札へ、何であんたの手本がいる」
青柳は答えず、新吉のいる裏口を見た。棚の上には役所へ出す見本らしい紙が一枚あり、余白に新吉の名が何度も練習してあった。
戸の外から、女の声がした。
「青柳さん。父は昨日も来ませんでしたか」
主語も用件も省かない声だった。
入ってきた女は、鉄之助たちより先に青柳を見た。二十歳を少し越えたほどで、抱えた帳面の角へ布を当てている。着物は地味だが、筆差しだけは手入れされていた。
「辰野志乃さんだ」
青柳が苦い声で言う。
「親父さんなら来てない」
「四月二十九日以後、一度も、ですか」
「一度もだ」
志乃はうなずき、次に鉄之助の掌の札を見た。
「その内控を、どこで」
「知っているのか」
「質問へ答えてください。赤石屋の『い』ですか」
怒ってはいない。だが「その札は何ですか」と曖昧に聞かず、読み取った条件を先に置いた。
鉄之助は入手した店と、秘密買付表の一行を話した。志乃は途中で説明を足さず、父・源吾の名が出る場所だけを帳面へ記す。
青柳が火鉢の灰を均した。
「俺が書いたのは預り証の手本と控えだ。証書を預かったと後で書ける紙。持ち主の名を空けた委任の紙も頼まれた。何に使うかは聞かなかった」
「聞かなかったのか。聞いて答えを要らないことにしたのか」
鉄之助が問うと、青柳は初めて顔を上げた。
「同じ仕事を断って、弟子へ飯を食わせられるか」
青柳は、糊を見に行った新吉の背へ言った。
青柳は帳場の底から、預り証と名を空けた委任紙の控えを綴じた一冊を出した。控えの原物は渡さない。志乃がその場で必要な欄だけを写すことを許した。
借主。預り主。証書番号。内控。
「い七十四」の欄だけは空いている。
「元の表で確かめます」
志乃は筆を置いた。
「表が残っていれば、ですが」
青柳は控えの原物を薄板の箱へ戻し、鍵を掛けた。工房の表戸にも鍵を下ろし、自分も行くと言った。新吉は青柳より先に草履を履いた。
「その書式を使われたままじゃ、次に俺が書く荷札まで疑われる。俺も行く」
仲買店は、昨日より早く格子を閉めかけていた。
帳場の男は鉄之助を見るなり、戸を閉める手を止めた。店の奥では番頭も小僧も黙っている。六人分の朝の仕事が、算盤を弾く前で止まっていた。
「持って帰れと言った覚えはない」
「表を見せろ」
「夜のうちに役所へ使いを出した」
男は帳場板を上げた。さらに下の浅い箱から、綴じていない一枚を出す。昨日と同じ魚油の臭いがした。
秘密買付表は、同じ仲買人の帳場に残っていた。
鉄之助が二つ折りの荷札を開く。志乃は原表へ顔を寄せ、「い七十四」から二行下までを写し始めた。字を自分の形へ直さず、払いと墨の継ぎ目まで写す。
四六二八一。七分利百円。借主、小宮佐一。借用、二月十二日。
荷札の外側と一字も違わない。
店の表戸が三度鳴った。
「内務省警視局、東京警視本署。黒田半蔵」
入ってきた男は声を張らなかった。紺の羽織に飾りはなく、後ろには筆箱を持った官吏が一人だけいる。黒田は店内を見渡した。
「店の者六人。客四人。出入口二つ。火は竈だけだな」
誰も答える前に、人数も危険も数え終えていた。
黒田の目が原表で止まる。
「店主。昨夜、使いに知らせた表は、それ一枚か」
「一枚です」
「こちらへ」
鉄之助が表の前へ立った。
「誰のために持っていく」
「今ここへ置けば、今日中に赤石屋が持ち去る。店を閉めれば六人の払いが止まる。原物だけを引き取る」
黒田は鉄之助をどかそうとしなかった。代わりに荷札を押さえる掌を見た。
「その手を半寸ずらせ」
「札は渡さん」
「取らない。内控と番号を読む」
鉄之助は掌を半寸だけずらした。
黒田は荷札の「い七十四」と四六二八一を読み、原表の同じ行へ指を置く。次に七分利百円、二月十二日までを照合した。
「一致。札は相良鉄之助が保持。原表は店主から引き取る」
後ろの官吏が、その通りに書いた。
志乃の筆がまだ動いている。黒田は懐中時計の蓋を開いた。
「今写している三行で止めろ」
「私の父の行まで必要です」
「三行だ」
志乃の筆が速くなった。怒るほど、背筋も字も崩れない。
三行目を終えたところで、黒田は原表を厚い紙へ挟んだ。紙紐を縦横に掛け、結び目へ官の印を押す。印が乾くまで誰にも触れさせない。
別の紙には、五月十六日、朝の時刻、仲買店の場所、赤石屋買付表一枚と書いた。店主の名を聞き、受取書の末尾へ加える。黒田自身も名を書き、店主へ渡した。
「品名と数を読め」
店主は声に出して読み、受取書を懐へ入れた。
正しい手順だった。鉄之助が刃を抜く場所は一つもない。
黒田は封じた原表を官吏へ持たせた。
「相良。札を家へ戻すな。戻れば、病人の家まで同じ目が行く」
小夜を知っているのかと問う前に、黒田は店を出た。
原表を失った帳場に、受取書だけが残る。志乃は三行の写しを胸へ入れた。青柳は、預り証と委任紙の控えを工房へ残したまま戸口に立っている。
「あの書式を持ってきた者は誰だ」
鉄之助が聞く。
青柳は、外で待つ新吉の墨だらけの手を見た。
「注文の文句を直したのは、周防、主――」
そこで口を閉じた。




