第五章 兜岩
辰野志乃と名乗った女は、燃えかけた帳面を胸に抱いたまま、火から一歩も退かなかった。
行灯の油が地面を走り、細い火が社の前を舐めている。兜岩の影が、火に押されて揺れた。夜の社は、昼よりも狭く見える。狭い場所に、火と血と証書が集まりすぎていた。
「帳面の中にいる、とは何だ」
鉄之助が問うと、志乃は彼の背の竹筒を見た。
「刃物で聞く人には、まだ言えません」
「抜いていない」
「抜くつもりの手です」
鉄之助は黙った。
りんが志乃へ詰め寄る。
「あんた、父ちゃんを知ってるの」
「辰五郎さんなら、名前だけ」
「名前だけで、どうして私を見てわかる」
志乃はりんの手元を見た。りんは父の魚荷札を握っている。赤い印が火の光を受け、乾いた血のように見えた。
「その札を持っているからです」
「この印は何」
志乃はすぐには答えなかった。
代わりに、社の裏へ視線を向けた。
「先に、その人を」
兜岩の影に倒れていた男は、まだかすかに息をしていた。鉄之助が肩を起こすと、男の胸から血が広がった。町人の着物。荷運びの手。爪の間に墨が入っている。懐には、第一国立銀行を描いた錦絵が折り込まれていた。
りんの顔が強張る。
「半次さん」
「知っているのか」
「父ちゃんと荷を運んでた人。喜助さんとも一緒にいた」
半次はかろうじて目を開けた。りんを見る。視線が焦点を結ぶまでに、呼吸が三度漏れた。
「辰の、娘か」
「父ちゃんは」
半次の唇が動いた。
「帳面の、下だ」
りんの肩が跳ねた。
「生きてるの。死んでるの」
半次は答えなかった。答える力が残っていないのか、答えそのものが怖いのか、鉄之助にはわからなかった。
「板舟の絵は」
りんが問うと、半次の口の端がわずかに動いた。
「俺だ……呼んだのは、俺だ。弁蔵の店を、見張ってた。喜助は、お前に渡す気だった。渡す前に、やられた」
半次の指が地面を探った。血で濡れた指先が、さっき書きかけた文字へ伸びる。
三。
その横に一本。
王。
さらに、下に点。
玉。
「三井の三じゃない」
半次は息だけで言った。
「玉だ」
「玉」
志乃の顔色が変わった。
「どの帳面に」
半次は笑った。笑おうとして、血を吐いた。
「帳面は、燃えた」
「燃えていません」
志乃は胸に抱えた帳面を強く握った。
「半分だけ」
半次は志乃を見た。
「なら、半分で、逃げろ」
「全部でなければ意味がありません」
「全部を、持つ者から、死ぬ」
それが半次の最後の声だった。
りんが半次の肩を揺すった。
「半次さん。父ちゃんは」
返事はない。
魚河岸の娘は泣かなかった。泣かない顔で、男の目を閉じた。魚を締めるときの手つきに似ていた。乱暴ではなく、迷いもない。
その手が、襟元で止まった。
「……匂いがする」
りんは半次の襟へ鼻を寄せた。血でも味噌でもない、薄い残り香。
「紙と、油の匂いだ」
刺した誰かが、すれ違いざまに残していった匂いだった。
鉄之助は、りんの手を見ていた。戦場では、死者の目を閉じる暇がなかった。閉じたところで、次の砲声が開かせる。だがりんは閉じた。父の手がかりを抱えたまま死んだ男の目を、きちんと閉じた。
りんは立ち上がり、志乃へ向き直った。
「あんた、見たんだろ」
「……」
「先にここにいたのは、あんただ。半次さんを刺した奴を、見たんだろ」
志乃は目をそらさなかった。
「半次さんに呼ばれました。着いた時には、もう刺されていた。火は、襲った側が行灯を倒したんです。私は、燃えかけた帳面を拾っただけです」
りんは志乃の袖口を見、手を見、最後に目を見た。血の跡も、拭いた跡もない。墨の匂いはしても、油の匂いはしない。
「……わかった。今は信じる」
志乃は半次の懐から血の染みた錦絵を抜き、袖に収めた。余白の横流しの数字に、りんが目を落とす。
「西洋の年で付ける帳面は、商館の側だ。父ちゃんたち、そっちの帳面にも載ってたのかもしれない」
志乃が、兜岩の前に膝をついた。
「この岩は、兜を埋めた場所だと聞きました」
「伝説だろ」
鉄之助が言うと、志乃はうなずいた。
「伝説です。源義家の兜とも、別の武将の兜とも言われています。どれが本当かは、帳面ではわかりません」
「帳面でわからないこともあるのか」
「あります。けれど、帳面に残る嘘もあります」
志乃は兜岩の欠け目を指でなぞった。
「この赤い印は、岩の形を写したものです。でも、神社の印ではありません。荷の目印でもありません。帳簿の中で、ある勘定だけに付いていました」
「そこだけ、証書の番号の前に、もう一つ番号がありました」
「勘定」
鉄之助には、またわからない言葉だった。
志乃は帳面を開いた。半分は焦げている。端が黒く縮れ、頁をめくるたびに灰が落ちる。だが中央の数行は読めた。
貸方。
借方。
金禄。
玉。
「金禄公債の帳面です」
志乃は言った。
「けれど、公債の出入りだけではありません。誰が安く買い、誰が高く売ったか。どの証書が銀行の資本に回り、どの証書が市場へ出る前に消えたか。その写しです」
りんの手が、袖の中の荷札を握った。
「父ちゃんは、それを運ばされた」
「そのはずです」
「はずで済ませるな」
志乃の指が、帳面の焦げた縁を強くなぞった。
「私は中にいません。銀行の正式な人間ではありません。父の帳簿仕事を家で手伝っていただけです」
「じゃあ何でそんなものを持ってる」
「父が消えたから」
りんの目が変わった。
「あんたも」
志乃はうなずいた。
「左遷、と言われました。けれど父は、辞令より先に帳面を隠しました。戻らなかった」
三人の間に、火の音だけが残った。
「玉とは何だ」
鉄之助が聞いた。
志乃は帳面の焦げ残りを見た。
「玉勘定」
「正式な言葉か」
「いいえ。隠し名です。帳面の表に書けない金を、別の名前で呼んだのだと思います。父はこれを、赤い金と呼びました」
鉄之助は第零号公債を懐から出した。
「この証書も、その赤か」
金禄公債の端にある赤い印。兜岩の欠け目。半次が残した玉。燃えた帳面。
志乃は証書を見て、息を止めた。
「見せて」
「触るな」
「触りません。見ます」
志乃は証書の表に顔を近づけた。火の光では足りないのか、行灯の残った芯を寄せる。
「第零号」
「知っているのか」
「父の帳面にありました。番号の前にある番号。市場へ出る証書を束ねる親番です」
「源蔵じいも親札と言った」
りんが言うと、志乃はうなずいた。
「魚荷札の言い方なら、それが近いです。表の公債番号とは別に、裏で何枚かを束ねる札です」
鉄之助は証書を戻そうとした。
そのとき、社の外から拍手が聞こえた。
一度。
二度。
神前の拍手ではない。人を呼び止めるための、乾いた音だった。
「見事だ」
黒田半蔵が鳥居の向こうに立っていた。
背後には二人。昼に見た男たちとは違う。役人風の着物だが、袖の中に重さがある。短筒か、棍棒か。
黒田は社に向かって軽く頭を下げた。
「兜町の神は、今夜は忙しい」
鉄之助は竹筒の口金に手をかけた。
「そこまでだ」
黒田は言った。
「相良鉄之助。紀尾井町で大久保卿が斬られた翌日に、刃を隠して東京を歩く。どう書けばよいか、わかるか」
「書く」
「そうだ。罪は、調書に書けば罪になる」
黒田の目が、志乃の帳面へ移った。
「辰野志乃。その帳面は国家のものだ」
志乃は帳面を抱きしめた。
「父のものです」
「国家に仕えた者の帳面は、国家のものだ」
「人まで帳簿に入れるのですか」
黒田の目は、帳面の墨のように冷えていた。
「入れる。入らぬ者は、消える」
りんが一歩前へ出た。
「父ちゃんも消したのか」
「辰五郎は、魚の荷と証書荷を取り違えた」
「答えになってない」
「答えは高い」
黒田は手を差し出した。
「証書と帳面を渡せ。娘たちには手を出さない。相良、お前の小夜という娘にも、医者を付けよう」
小夜。
鉄之助の腹の奥が冷えた。
小宮の家も相良の家も、旧幕に禄を食んだ家だ。その二人が官軍の徴募に応じて西へ行った。帳面は、そんな家の妹の名まで拾っている。
「なぜ知っている」
「証書を追う者は、人の名前も追う」
黒田の声は静かだった。
「お前が欲しいものは金ではない。時間だ。病人の時間は、金より安く買える」
小夜の咳が、耳の奥で乾いた。枕元へ置いた金を押し返した細い指。兄の証書を兄の名の証として扱ってください、と言った声。
鉄之助は、仕込みの刃を抜きかけた。
りんの手が止めた。
「抜くな」
「離せ」
「今抜いたら、小夜って子の名まで、帳面に入れられる」
鉄之助の手が震えた。
志乃が半歩、鉄之助へ寄った。
「逃げ道があります」
「どこに」
りんが聞く。
「神社の裏。川へ出る細道。父が使っていました」
黒田の指がわずかに動いた。
男たちが前へ出る。
黒田の男たちが踏み出す前に、志乃は帳面を火へ投げた。
「な」
りんが叫ぶ。
帳面は燃え上がらなかった。焦げた頁の間に、湿った布が挟んであった。火は白い煙を吐き、社の前を覆った。
「走って」
志乃が言った。
鉄之助はりんを押し、志乃の肩をつかんだ。三人は社の裏へ飛び込む。
背後で、部下が問う声がした。追いますか、と。
「追うな。縛れば帳面が閉じる。歩かせれば帳面が開く。網は、親が入ってから上げる」
黒田の声は、煙より静かに社の裏まで届いた。
「それにな、この一件は表の調書に書けん。書けば、札の信用ごと崩れる」
兜岩の影を抜け、三人は夜の兜町を走った。走りながら、鉄之助の耳には別の言葉が残っていた。
小夜という娘に、医者を付けよう。
断った。断った手の中で、証書だけが汗を吸っていた。




