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兜町の赤い金  作者: megu
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第四章 海運橋の血文字

夜の兜町は、昼よりも帳面と証書の匂いが濃かった。


魚河岸は夕方になると、疲れた声と腐った水の臭いを残して眠りに入る。兜町は違う。店の格子の向こうで算盤が鳴り、行灯の下で帳面が開かれ、男たちが声を潜めて数字を交換している。声は低い。それでいて熱はある。


戦場の前夜に似ている、と鉄之助は思った。


誰もまだ撃っていない。誰もまだ倒れていない。だが、皆が明日の火を待っている。


りんは蕎麦屋台の陰にしゃがみ、錦絵を膝に広げていた。魚河岸の板舟に置かれていた一枚だ。第一国立銀行の塔が、昼に見たよりも大げさに描かれている。窓は大きく、塔は高く、屋根は城のように反っていた。


「絵の方が偉そうだな」


鉄之助が言うと、りんは鼻で笑った。


「名所ってのは、絵の中で育つんだよ。魚もそう。痩せた鰯でも、売り手の声で大きくなる」


「嘘ではないのか」


「嘘を買わせるほど下手じゃない。見たい形にして売るんだ」


りんは絵の塔の窓を指した。


そこに赤い印がある。


兜岩の欠け目と同じ形。


「父ちゃんの絵と同じ」


りんの声は落ち着いていた。落ち着かせているだけだと、鉄之助にもわかった。


屋台の親父が蕎麦を二杯置いた。


「伸びる前に食いな」


「金は」


鉄之助が言うと、りんが先に答えた。


「帳場につけといて」


「お前の帳場は穴だらけだ」


親父はそう言いながらも、蕎麦を置いて戻っていった。


鉄之助は箸を取った。温かい汁の匂いが立つ。魚河岸の飯とは違う。醤油と出汁と葱。食うと、腹の底に熱が落ちた。


「うまい」


「あんた、何食ってもうまいって言うね」


「腹が減っている」


「その腹、兜町で一番信用できるかも」


りんは自分の蕎麦をすすりながら、通りを見ていた。


海運橋の方は、昼の騒ぎが嘘のように整えられていた。死体は消えた。血も洗われた。橋の石柱の前には、何事もなかったように荷車が置かれている。


「消すのが早い」


鉄之助は言った。


「魚河岸より早い」


「魚は消しても臭う。血も臭う。けど、帳面の町は臭いまで帳面にしまうんだろ」


りんは蕎麦を半分残し、立ち上がった。


「行くよ」


「食わないのか」


「あとで食う」


「またか」


「追われる人間は、満腹になるなって父ちゃんが言ってた」


鉄之助は残りを飲み込んだ。満腹には遠い。動くには足りる。


二人は屋台の陰を離れ、海運橋へ近づいた。明治八年に石のアーチ橋へ改められたというその橋は、夜の川の上で白く浮いて見えた。欄干の向こうに、楓川の水が黒く流れ、その先で日本橋川と混じっている。遠くで船の櫓が水を叩いた。


第一国立銀行は、橋のたもとに塔を立てていた。


昼に見た時よりも、夜の方が奇妙だった。木造の身体に洋風の窓、上には城郭を思わせる塔。行灯の光が窓に漏れ、建物そのものが帳面を読んでいる。


「あれが日本で最初にできた国立銀行だってさ」


りんが言った。


「最初」


「最初って言葉は高く売れる」


「銀行は何をする」


「金を預かる。貸す。札を出す。人の信用を数える」


「信用は数えられるのか」


「兜町じゃ、数えられることになったんだろ」


鉄之助は塔を見上げた。


鹿児島で、仲間は数えられた。何名、何挺、何発、何俵。けれど、誰が怖がっているか、誰が妹の名を呼んで死んだか、誰が最後の飯を譲ったかは、どの帳面にも載らない。


信用を数えるとは、何を切り捨てることなのか。


「鉄さん」


りんが低く呼んだ。


「縮めるな」


「石柱」


海運橋のたもとの石柱は、昼に見た血文字を失っていた。水で洗われ、布でこすられたのだろう。白っぽい石の表面だけが残っている。


りんは、膝をついた。


「血は消えてない」


「見えん」


「見るんじゃない。触る」


りんは指で石の傷をなぞった。鉄之助もしゃがむ。石の表面には細い傷があった。数字を刻むように引っかかれた跡。血は落ちても、傷の奥に赤黒い粉が残っている。


「喜助さんの鑿だ。倒れてた手のそばに、転がってた。あれで刻んで、傷に自分の血が入ったんだ」


「一」


りんが言った。


「八」


鉄之助が続けた。


「七」


「八」


二人は顔を見合わせた。


一八七八。


りんの父の荷札三枚。海運橋の血文字。錦絵の赤い印。第零号公債。


「ただの年じゃない」


りんは言った。


「当たり前だ」


「違う。年なら一枚で済む。三枚に分ける必要がない」


りんは魚荷札を取り出し、石柱の傷に重ねた。


一枚目の「一八」が、傷の最初と合う。


二枚目の「七」が、石の欠けたところへ入る。


三枚目の「八」が、赤い粉の残る最後に重なった。


「荷札は順番を示してる」


「どこへ」


「橋から、銀行へ。銀行から、兜岩へ」


「なぜわかる」


りんは錦絵を広げた。塔の窓にある赤い印。そこから絵の余白へ、かすかな線が引かれている。摺りの失敗にも見えたが、魚河岸で汚れた荷札を見慣れたりんには、それが線だとわかった。


線の先は、絵の端で切れていた。


「余白が足りない」


「絵が切れているのか」


「たぶん、もう一枚ある」


鉄之助は橋の向こうを見た。


「黒田が持っている」


「か、父ちゃんが隠した」


りんは石柱から立ち上がった。


「兜岩へ行く」


「罠だ」


「罠を見に行く」


「踏むな」


「それは努力する」


海運橋から兜神社までは、近い。それでも夜の兜町は、昼より道が長く感じられた。通りの奥から、帳面を閉じる音が聞こえる。格子の隙間で、目だけが動く。誰かが見ている。


鉄之助は竹筒の口金に触れた。


「抜くなよ」


りんが言った。


「まだ何もしていない」


「あんたの手は、考えるより先に動く」


「戦では、その方が生き残る」


「ここでは、先に罪人になる」


鉄之助は手を離した。


廃刀令の後、刃を持つこと自体が疑いになる。まして大久保利通が斬られた翌日だ。黒田がその気になれば、鉄之助を斬奸の仲間に仕立てることくらい簡単だろう。


兜神社は、川辺の店に押されていた。


鉄之助は、神社と聞いてもっと大きなものを想像していた。そこにあったのは、川の近くに押し込まれた社だった。大きな寺社の威光はない。夜の闇に沈めば、通り過ぎても気づかないほどだ。


「ここが公債の市の看板になるんだって」


りんが囁いた。


「公債の市」


「証書や公債を売り買いする人たちのことさ。取引所ができるから、ここの世話をする者も変わるらしい」


「神も相場で動くのか」


「人が動かすんだよ」


社の脇に、岩があった。


兜岩。


錦絵の赤い印と同じ欠け目を持つ石。


鉄之助は近づいた。岩は、伝説を背負うには背が足りない。源義家が兜を埋めたとも、兜を掛けて祈ったとも、別の武将の兜を供養したとも言われるらしい。どれが本当かはわからない。


だが、血と証書と金が集まるには、ちょうどいい大きさだった。


りんは岩の欠け目に魚荷札を当てた。


ぴたりと合った。


「父ちゃんは、これを写した」


その声は震えていなかった。震えないように、強く握られていた。


鉄之助は周囲を見た。行灯の影だけが動いている。


「錦絵を」


りんが言った。


「出して」


鉄之助は懐から錦絵を出した。第一国立銀行の塔。赤い印。余白へ伸びる線。


りんは錦絵を岩に重ねた。絵の端が、岩の欠け目に沿って折れていることに気づいた。


「折り目」


「何だ」


「ここで折るんだ」


りんは錦絵を慎重に折った。塔の窓の赤い印が、余白の線と重なり、さらに裏の淡い墨と重なった。


文字が現れた。


三。


たった一字。


「三」


鉄之助が言った。


「三枚目か」


「三井の三かもしれない」


りんは第一国立銀行の方を見た。


「三番目の橋かもしれない」


「三人目の死体かもしれん」


りんが睨んだ。


「嫌なこと言うな」


「戦では、悪い方がよく当たる」


そのとき、社の裏で物音がした。


湿った木が軋んだ。


誰かが息を呑む音。あるいは、濡れたものが石に落ちる音。


鉄之助はりんを背にかばった。


「誰だ」


返事はない。


社の裏へ回る。月明かりは届かない。川の湿った風が、錦絵の端を震わせた。


りんが火打ち石を取り出した。


「持っていたのか」


「魚河岸の娘は、火と刃物と縄を持つ」


「刃物」


「魚用だよ。あんたと違って」


火花が散り、火種ほどの明かりが生まれた。


その明かりの先に、手が見えた。


人の手だった。


社の裏、兜岩の影に、男が倒れている。口元に血。着物は町人のものだが、懐から錦絵がのぞいていた。


第一国立銀行の錦絵。


昼の喜助が持っていたものと同じ。余白に、横へ流した細い数字が見えた。一八七八。縦に書く漢数字とは違う、異人が帳面に付ける書き方だった。


りんが息を吸った。


「また」


鉄之助は男の首筋に触れた。


まだ温かい。


「生きている」


男の目がかろうじて開いた。唇が動く。声はほとんど息だった。


「三、ではない」


鉄之助は耳を近づけた。


「何だ」


「三、を、消せ」


男の指が、血で地面をなぞった。


三の横に、もう一本。


王。


いや、違う。


りんが呟いた。


「玉」


社の表から悲鳴が上がった。


女の声だった。


鉄之助が振り返る。


りんはもう走り出していた。


「待て」


「待てない」


社の前、兜岩の赤い欠け目の向こうに、行灯が倒れていた。


火が地面を舐める。


その火の中で、黒い羽織の影が一つ、静かに立っていた。


黒田半蔵ではない。


もっと小柄な影。


女だった。


彼女は燃えかけた帳面を抱え、鉄之助とりんを見た。


「遅い」


その声は、怒っているようにも、泣いているようにも聞こえた。


「辰野志乃です」


女は言った。


「その錦絵を持っているなら、あなたたちはもう、帳面の中にいます」


志乃は倒れた行灯の火を草履の先で踏み消した。火の粉が一つ跳ね、焦げた紙の匂いだけが、夜の社に残った。


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