三日分の薬
日が傾くまで戻らなかった理由を、小夜は「危なかったから」では受け取らなかった。
「誰が、どこから、何を持って追いましたか」
本所の長屋へ入った鉄之助は、まだ草履も脱いでいなかった。小夜は壁へ背を預け、畳んだ夜着を膝へ置いている。枕元の小皿には薬包が五つ、角を揃えて並んでいた。
障子の外で、りんが咳払いをした。追手がいないことを確かめると言って、路地に残っている。
「売れなかった」
「それは結果です」
小夜は手を出した。
「証書を」
鉄之助は油紙をほどいた。原証書と戦死通知を畳へ置き、二つ折りの札だけを掌の下へ残す。小夜は証書の番号、七分利、額面百円を順に見て、端の折り目を指で確かめた。昨夜、自分で結んだ紐も見る。
「受取書は」
「ない」
「値を言った人は」
「いない。売買が禁じられている」
「預ければ貸すと言った人は」
「それも断られた」
一つ答えるたび、小夜の指が証書の上を進んだ。話を急かしはしない。鉄之助が省いた所だけで止まる。
「では、その手の下は何ですか」
鉄之助は札を出した。
外側の「い七十四」と四六二八一。死後の日付。折った内側にある辰五郎の名。鹿児島から日本橋へ一日で届いたことになっている運搬控。鉄之助が話し終えるまで、小夜は一度も口を挟まなかった。
障子が少し開いた。
「追ってきたのは二人。赤い石の前掛けが一人、あとから下駄が一人」
りんはそれだけ言い、また外へ目を戻した。鉄之助の代わりに理由をつけなかった。
「本所へ来なかったのは、家を知られないためですね」
「そうだ」
「その判断は、わかりました」
小夜は原証書を油紙へ戻し、自分の胸へ引いた。二つ折りの札は鉄之助の前へ押し返す。
「こちらは相良さまが持ってください。証書は私が持ちます」
「明日、別の店を当たる」
「今日、売れない紙は、明日も売れません」
「売らずに銭を作る道がある」
「預けて借りることも断られたと、いま聞きました」
鉄之助は言葉を失った。小夜は長持の蓋を開け、証書を底へ納める。戦死通知は戻さず、膝の上へ残した。
「相良さまは、兄に頼まれたから私を守ると言います。けれど兄が死んだ日も、証書を渡す日も、私より先に決めます」
声は低い。長く話すと、息の終わりに咳が入る。それでも言葉を曖昧にして鉄之助を楽にはしなかった。
「俺は小宮を見捨てた」
「私を守れば、見捨てなかったことになりますか」
ならない。
答えは出たが、鉄之助は口にできなかった。
小夜が薬包を一つ取り、また皿へ戻した。夜の分だった。
「飲まんのか」
「朝に飲みます」
「朝夕一つずつだ」
「五つあります。朝だけなら、あと五日近く保ちます」
「昨夜も抜いたな」
小夜は否定しなかった。
昨夜の粥が椀の半分に乾いている。火鉢の炭は崩れず、夜着の襟だけが何度も握られて皺になっていた。薬を抜いた分だけ咳が続き、眠れず、朝も粥を半分残した。皿には五つ残った。その代わり、眠りと食事が先に減っている。
「今夜は飲め」
「次をどう払うか決まっていません」
「俺が決める」
小夜は、はっきり首を振った。
「それをやめてください」
障子の外で魚売りの声が遠ざかった。りんは入ってこない。小夜が自分で言い終えるのを待っている。
「薬を抜くのはよくない。わかっています。昨夜、眠れませんでした。だから次を受け取る前に、別の借り方を決めます。証書は渡しません」
「誰に借りる」
「まだ決めていません。決める時は、私の名で借ります」
小夜は戦死通知を開いた。前年九月二十四日、小宮佐一戦死。鉄之助が何度も見た日付である。
その紙の下から、別の折り紙が現れた。
古い紙ではない。折った角に煤が入り、外側へ「小夜へ」とある。小宮の字だった。糧食簿へ名を書く時より整い、妹へ出す手紙だけにあった、右上がりの小さな癖が残っている。
鉄之助は手を伸ばさなかった。
「いつ届いた」
「届いたのではありません」
小夜は一度、息を整えた。
「兄が置いていきました。ひどく痩せて、左の腿を引きずっていました。塩の強い漬物へ文句を言って、夜が明ける前に出ていきました」
戦死通知の日付から、三か月近く後になる。
鉄之助が荷車の上で別れた小宮の顔と、煤のついた折り紙が重ならない。死者なら戻らない。戻ったなら、なぜ鉄之助にも妹にも生きていると告げず、また消えたのか。
小夜は手紙を戦死通知の上へ置いた。
「兄は去年の冬、ここへ来ました」




