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兜町の赤い金  作者: megu
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第三章 魚河岸の娘

魚河岸は、昼に近づくほど汚くなる。


夜明け前はまだ、魚も人も勢いで光っている。鯛の赤、鰹の黒、鰯の銀、職人の声、濡れた板を叩く草履の音。だが朝の一番の商いが過ぎると、残るのは鱗、内臓、泥、踏み潰された藁、血を吸った水だった。


りんはその汚さの中を、家の廊下のように歩いた。


「足元、見るな」


鉄之助は言われて、思わず前を見た。


視線を上げた足が、何か柔らかいものを踏んだ。


「見ろと言った方がよかったか」


りんが振り返りもせずに言う。


「お前は性格が悪い」


「魚河岸で性格のいい奴から先に潰れる」


鉄之助は草履の裏を石にこすりつけた。何を踏んだのかは、考えないことにした。


日本橋から江戸橋までの北岸一帯は、りんにとって一枚の地図だった。どの納屋の裏に空箱が積まれ、どの井戸の水がまだ冷たく、どの見世棚の主人が口は悪いが子どもに甘いか。りんは見ずに知っている。


鉄之助には、すべてが迷路に見えた。


納屋の間を抜け、積まれた板舟の横を通り、洗い場の水を跳び越える。男たちが魚を担いで怒鳴る。女たちが金を数える。小僧が骨を蹴飛ばして走る。


「りん」


太い声がした。


鰹を抱えた、丸い腹の男だった。顔は怖いが、目尻だけは、りんを見ると緩んでいる。


「弁蔵さん」


りんが名を呼ぶと、男は鰹を担ぎ直した。


「源蔵さんから聞いたぞ。橋で面倒に巻き込まれたって。……喜助が死んだことも、な」


「巻き込まれたんじゃない。巻き込んだ」


「余計悪い」


男は鉄之助を見た。


「誰だ、その柱みたいな男」


「飯代を払わない士族」


「払う」


鉄之助が言うと、男は鼻で笑った。


「士族が払うって言うときは、たいてい払えねえ時だ」


魚河岸の数人が笑った。


鉄之助は黙った。言い返せば、この場所では負ける。刀なら抜けた。槍なら折れた。笑いに対しては、どう戦えばいいのかわからない。


「弁蔵」


りんが言った。


「父ちゃんのことで聞きたい」


笑いが止まった。


弁蔵と呼ばれた男は、抱えていた鰹を板の上に置いた。


「中へ来い」


案内されたのは、川沿いの裏納屋だった。表は売り場、裏は一時置き場。魚と塩と縄の臭いが染み込んでいる。奥には古い帳面、割れた升、欠けた湯呑み、干した網が押し込まれていた。


弁蔵は戸を閉めた。


「黒い羽織の男が来た」


りんの顔が硬くなった。


「いつ」


「さっきだ。お前を知らないかと聞いた。知らねえと答えたら、魚河岸に知らないものはないはずだと言いやがった」


「それで」


「魚を一尾買っていった」


鉄之助は眉をひそめた。


「魚を」


「腐りかけの鯖をな。値切りもせず、こちらの言い値で」


りんの眉が動いた。


「また言い値か。源蔵じいも見てる。前から、そうやって顔ぶれを数えてたんだ」


弁蔵は吐き捨てるように言った。


「あれは脅しよ。魚河岸の値は知ったぞ、って買い方だ」


りんは黙っていた。


魚河岸で値を知るとは、人を知ることだ。誰が誰に借りがあり、誰の家に病人がいて、誰が明日の仕入れに詰まっているか。


鉄之助は黒田の顔を思い出した。


証書を傷つけるな。


人より証書を大事にする男が、魚を買う。


その意味の端が見えた。


「弁蔵」


りんは父の荷札を出した。


「これを見たことは」


弁蔵の目が、札の隅で止まった。


赤い印。


兜岩の欠け目を縮めたような形。


弁蔵はすぐには答えなかった。戸の外の気配を確かめてから、声を低くした。


「辰五郎が消える前、同じ印の札を三枚預けていった」


「三枚」


「お前には見せるなと言われた」


「何で」


「見せたら、お前は追うからだ」


りんの顎が上がった。


「追うよ」


「だから見せなかった」


「今は」


弁蔵は目を伏せ、それから奥の箱を開けた。


「……まあ、なんだ。死人が二人になったら、話は別だ」


塩の袋の下に、竹皮で包んだものがある。竹皮をほどくと、魚荷札が三枚出てきた。


一枚目には「鯛」。


二枚目には「鰹」。


三枚目には「干鱈」。


どれも字は魚の名だった。だが隅に、同じ赤い印がある。形は一枚ごとに違う。欠けた兜岩のようであり、橋の石柱の傷のようでもあった。


りんは三枚を並べた。


「魚の札じゃない。魚河岸の荷札はもっと汚い、もっと急いだ字になる。これはきれいすぎる。見せるための汚し方だ」


りんは札を指でずらした。


「魚の名は、道の名だ。鯛は金持ちの店へ、鰹は初物の速さで、干鱈は長持ちの蔵へ。荷の動きが違う」


弁蔵がうなずいた。


「……まあ、なんだ、辰五郎はこう言ってた。魚荷の道筋と証書荷の道筋は似てる。腐るものと腐らないものの違いだけだ、と」


「証書は腐らない」


鉄之助が言うと、りんがすぐ返した。


「値は腐る」


魚河岸で出会った朝の言葉だった。鉄之助は黙った。


弁蔵は三枚の札を裏返した。裏には淡い墨で数字が書かれている。


一八。


七。


八。


「一八七八」


りんの声がかすれた。


海運橋の血文字と同じ数字。


鉄之助の背が冷えた。


「年号か」


「西洋の年だね」


弁蔵が言った。


「辰五郎は、これを笑っていた。明治の役人は元号を使う。異人は西洋の年を使う。商人は、儲かる方を使う、と」


「外国商館か」


「知らん」


「知らないことが多すぎる」


「知ってる奴から消えたんだ」


弁蔵の声は重かった。


外で、小僧が「鰹が出るぞ」と叫んだ。


その声にかぶせるように、腹の鳴る音がした。


鉄之助の腹だった。


りんの眉間から影が抜けた。


「また鳴った」


「鳴っていない」


「今のを魚河岸で否定するのは無理だよ」


弁蔵が立ち上がった。


「食わせてやれ。腹が空いた男は、考える前に斬る」


「斬る刃も隠してるけどね」


りんはそう言って、札を懐へしまった。


表へ出ると、初鰹がまな板に載っていた。江戸の人間は初物に目がない。値が張る。見栄も張る。まだ脂は浅いが、初の字だけで人が寄る。


りんは端の身を二切れもらい、飯屋の女に酢と飯を頼んだ。鉄之助の前に、細く切った鰹と握り飯、干物の切れ端、熱い汁が並ぶ。


「金は」


「また出世払い」


「出世はしない」


「じゃあ小夜払い」


鉄之助の手が止まった。


りんはすぐに視線をそらした。


「冗談」


「冗談にするな」


「悪かった」


二人の間に、湯気が上がる。


りんは鉄之助の横顔を見た。怒り方が、武士の面子を傷つけられた時のそれではなかった。


「その子、病人ってだけじゃないんだね」


鉄之助は箸を置いた。


「小夜は、施しを受けない。兄の証書で生きると言った。俺が勝手に哀れんだ金を出せば、兄まで二度死ぬ」


「きつい子だ」


「寝込むだけの子なら、とっくに死んでいる」


鉄之助は鰹を口に入れた。血の味がした。生臭いのではない。鉄に似た味だ。戦場の血を思い出して吐きそうになる。


りんは、うまそうに食べた。


「魚は血も食うんだよ」


「人の血は食わん」


「魚河岸じゃ、似たようなもんを見る」


りんは飯を飲み込んだ。


「父ちゃんは、魚の血は怖くない人だった。でも、赤い印を見た夜だけは震えてた」


「どんな男だ」


「声がでかくて、嘘が下手で、酒が入ると同じ話を三度する」


「魚河岸の男は皆そうではないのか」


「父ちゃんは四度する」


鉄之助は鼻で笑った。


りんも笑った。それからすぐ、箸を置いた。


「母ちゃんが死んでから、父ちゃんは私を船に乗せた。ここは危ないから見るなって言いながら、全部見せた。どの橋の下に流れが巻くか、どの問屋の前で喧嘩が起きるか、誰の借金が本当で誰の泣き言が嘘か」


りんは魚河岸を見渡した。


「だから、私はここを歩ける。地図なんかなくても」


「俺には汚れた市場にしか見えない」


「それでいい。知らない人には汚いだけに見える。その方が、隠すには都合がいい」


鉄之助は札を見た。


「赤い印を隠したのか」


「たぶん逆」


りんは飯碗を置いた。


「魚河岸に隠すんじゃない。魚河岸を使って、兜町へ運んだ。誰も魚の荷を細かく見ない。臭いし、早く運ばないと腐る。そこに証書を混ぜれば」


「誰も止めない」


「止めても、魚だと言えばいい」


鉄之助は、朝の箱を思い出した。腐りかけの鯖。黒田の手下たちが開けなかった箱。


「弁蔵」


りんが言った。


「父ちゃんが最後に運んだ荷は」


弁蔵は周囲を見た。


「夜だ。月がなかった。辰五郎と喜助と、あと二人——半次と、紙屋の若いのだ。細くて色の白い。通りじゃ、さよりと呼ばれてた。押送舟から平田舟へ荷を移した。箱には鯛と書いてあったが、やけに軽かった」


「行き先は」


「海運橋」


「第一国立銀行?」


「その手前で、黒い男が受け取った」


鉄之助が身を乗り出した。


「黒田か」


「顔は見ちゃいねえ。ただ……まあ、なんだ、荷を受ける手つきが素人じゃなかった。役人の手だ、ありゃ」


廃刀令のあと、刀は表から消えた。それでも夜の橋で証書荷を受け取れる者は限られている。官か、官の顔を借りた何かだ。


「その夜、父ちゃんは帰らなかった」


りんは言った。


弁蔵はうなずいた。


「喜助は翌朝、金を持ってきた。辰五郎からだと言ってな。お前のために預かってくれと」


「金」


「使ってない」


弁蔵は納屋から古びた巾着を持ってきた。中には、銀貨と紙幣が混じっている。古い札、見慣れない札、手垢のついた新しい札。


鉄之助は紙幣を一枚つまんだ。


「これも金か」


「通れば金だ」


りんが言う。


「通らなければ」


「ただの札」


鉄之助は、金禄公債を思った。証書一枚に、人の禄も、病人の薬代も、父の消息も乗っている。戦で奪い合った米俵より頼りなく、それでいて米俵より人を動かす。


巾着の底に、折り畳まれた絵があった。


りんが開く。


絵だった。


稚拙な線で、石が描かれている。横に細く、父の字。


兜岩。


その石の欠けた形が、赤い印と一致していた。


りんはしばらく声を出さなかった。


鉄之助も黙っていた。


魚河岸の喧噪が、遠い祭りのように聞こえる。


「父ちゃんは」


りんは言った。


「兜岩を見に行ったんだ」


「兜神社か」


「あのあたりは、公債の市の連中が拝む場所になるって父ちゃんが言ってた。証書だの公債だのを扱う人間は、神さまにも帳面の無事を頼むのかって笑ってた」


「行くのか」


「行く」


「罠だ」


「知ってる」


「なら」


「鉄さん」


りんは鉄之助を見た。


「小夜って子は、罠じゃないから助けるの?」


鉄之助は答えられなかった。


小夜を救うことも、もしかすると罠だ。証書を売りに出た時点で、自分はもう帳面の線に引かれている。黒田も、仲買人も、死んだ喜助も、それを知っていた。


りんは巾着を閉じた。


「私は父ちゃんを探す。あんたは小夜を助ける。どっちも、その帳面の向こうにある」


「俺は足手まといになる」


「なるだろうね」


「認めるのか」


「でも、殴るのはうまい」


りんは口元だけで笑った。


「帳面の町には、証書を読める奴と、道を読める奴と、殴れる奴が要る。今のところ、私たちには二つしかない」


「証書を読める奴がいない」


「だから探す」


「どこで」


りんは第一国立銀行の塔が見える方を指した。


「札を金に変える城」


鉄之助はその建物を睨んだ。


「あそこにいるのか」


「帳簿を読める女がいるって、父ちゃんが言ってた。銀行の中じゃなく、周りで証書を運ぶ仕事をしてる。名前は――」


りんが言いかけたとき、納屋の外で悲鳴が上がった。


鉄之助は立ち上がる。りんは先に走っていた。


外へ出ると、魚河岸の端で人だかりが割れていた。板舟の前で、飯屋の女が腰を抜かしている。


板舟の上に、一枚の絵が載っていた。鯛の箱を運んだ小僧が言うには、さっきからずっとそこにあった。誰かが黙って置いていったのだ。女はそれを片づけようとして、裏を返した。


第一国立銀行を描いた錦絵だった。


その中央、塔の窓のところに、赤い印。


そして裏には、短く一行。


「兜岩で待つ」


りんは錦絵を掴み、言いかけた名の続きを口にした。


「志乃。帳簿を読める女。先に、その人を見つける」


りんの顔が、魚河岸の娘の顔に戻っていた。


泣く顔ではない。


走る顔だった。


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