魚河岸の娘
「昼の荷が動き出す前に、父ちゃんの納屋へ入れる」
りんは三つ目の角を選びながら言った。
魚河岸へ戻る道を二度変えた。買付表は仲買店の帳場に残った。それでも、赤い石の前掛けは消えない。男たちは近づかず、りんが角を選ぶたび同じ方へ折れた。
昼荷の車が出れば、河岸の道は一度空く。隠れる荷も、肩をぶつける人も減る。りんは空箱の角を指で叩き、車の出る順を聞いていた。父の納屋まで、あと二つの荷溜まりを越えなければならない。
「川端は使えない。荷縄場を抜ける」
りんは空箱を抱え、干した網の間へ入った。濡れた草履が板の節へ引っかかる。鼻緒が切れ、右足だけが前へ出た。
箱を落とさなかった代わりに、足裏が板へついた。魚骨が一本、親指の脇へ刺さる。りんは抜こうとせず、片足で立ったまま後ろを見た。
「動くな」
縄束の陰から男が立ち上がった。
荷縄場の親方が怒鳴った。
「巳代次、重し縄が二本足りねえぞ。前借りぶんまで引くからな」
男は親方へ片手を上げ、切れた草履を取った。二十代半ばほどで、日に焼けた指の節に古い裂け傷がある。腰へ巻いた縄だけは、汚れていても端が揃っていた。
「さより、急いで」
りんが通り名で呼ぶ。
森巳代次は返事を半拍遅らせた。
「鼻緒じゃ保たない。重し縄を細く裂く」
巳代次は魚骨を毛抜きで抜き、血を水で流した。二巻きした縄の端を、一度だけ逆へくぐらせる。結び目を足裏へ沈め、濡れた板に当たらない長さで切った。手つきは早いが、急いで端を余らせることがない。
「父ちゃんがいなくなってから、ここの細い荷を代わりに持ってくれてる」
りんは鉄之助へ言い、草履を履いて二度踏んだ。
「借りが増えた」
「帳場には付けない」
「おっ母さんの具合は」
巳代次はまた半拍置いた。
「昨夜は寝た。今日の前借りで薬種屋へ払う」
親方が前借りぶんまで引くと言った理由を、りんは聞き返さなかった。巳代次もそれ以上は続けず、切り残した縄を自分の腰へ戻した。
巳代次の目が、りんの空箱ではなく、その下に隠した油紙へ一度だけ落ちた。
それから「誰か来た?」と問うまでにも、わずかな間があった。
「鯖を買わない客が二人」
りんが言うと、巳代次は縄束を肩へ担いだ。
「晒し縄のある角を右へ。今日は荷車が塞いでる」
親方がまた呼ぶ。巳代次は走らず戻り、白い縄を干し柱へ掛けた。結び終えると、垂れた端を右へ払った。
晒し縄の角を右へ曲がると、赤い前掛けは見えなくなった。
鉄之助は干した網の隙間から後ろを見た。巳代次はもう縄束の陰へ戻っている。代わりに、さっき柱へ掛けた白い縄が、歩く者の目の高さで揺れていた。
二巻きした端が、一度だけ逆へくぐっている。りんの草履と同じ結びだった。白い端は、二人が曲がった右の路地へ垂れていた。荷を縛るには高すぎ、乾かすなら端が短すぎる。
魚の洗い水が細い溝を流れ、板舟を担ぐ男たちが通りを埋めている。鉄之助は空箱を縦にして身体を滑らせた。背後の二人には、こちらの姿が見えないはずだった。
それでも下駄の音は、白い縄の角で迷わず右へ折れた。
「止まれ」
鉄之助はりんの肩を掴んだ。
「痛い」
「あの縄が道を教えている」
「さよりが、あいつらへ?」
りんは即座に首を振った。
「あの人は父ちゃんの荷を持ってる。私の草履も直した」
「直した手で結んだ印だ」
「結び方なら、荷縄場の誰でも見る」
「あの縄は、俺たちが曲がってから掛けた」
「あんたは、さよりが誰か知りもしない」
「知らん。だから手だけを見た」
鉄之助は戻ろうとした。巳代次の襟を掴めば、追う二人も出てくる。そこで騒げば、父の納屋へ着く前に油紙を奪い合うことになる。
りんが鉄之助の袖を掴んだ。
「今は紙を入れる。疑うのは、逃げ切ってから」
濡れた指が、袖を離さなかった。
父の納屋は、江戸橋寄りの板倉の裏にあった。錠へ差した鍵は赤錆で一度止まり、りんが腰を入れると回った。中に魚はない。空の桶、欠けた秤、乾いた藁が、辰五郎の帰りを待ったまま積まれている。
秤の片皿には、小石が三つ載ったままだった。りんは入るなり二つを右、一つを左へ移し、釣り合いを確かめた。針が戻ると、ようやく空箱を下ろす。
「父ちゃんは、帰ったら最初に秤を見た。私が留守に借りても、石の並びまで元へ戻しておく」
「いつから帰らん」
「去年の暮れ。海運橋へ三箱運んだ夜から」
鉄之助は三箱という数を覚えた。慰めを言う場所ではなかった。納屋には辰五郎が最後に切った縄も、茶渋の輪が残る茶碗もあり、娘が毎日錠を動かしていた。
鉄之助は戸を閉め、二つ折りの札を藁の上へ広げた。内側にも、魚油の染みた字があった。
りんが先に読んだ。
鯛三箱、海運橋北詰、赤石屋裏蔵。端へ辰五郎と書かれている。文字の最後が大きく右へ跳ねていた。
「父ちゃんの字だ」
りんは秤の石の裏を見せた。辰の一字が、同じように右へ跳ねて彫ってある。荷札は辰五郎自身が書いたものだった。
鉄之助は受け取ろうとした。りんの指は開かなかった。
「運んだだけかもしれん」
「荷運びは罪じゃない」
「中身を知っていたかもしれん」
りんは荷札の魚油を親指で擦った。
「それも、私が見る」
りんは秤の皿へ荷札を置いた。鉄之助が原証書と戦死通知を油紙へ戻し、その上へりんが荷札を開いたまま重ねて包み直した。
外で、追ってきた下駄が一度だけ納屋の前を通り過ぎた。
鉄之助は戸へ手を伸ばさなかった。追手を斬るより先に、りんが何を証拠へ残すかを待った。
りんは父の名を、赤石屋の内控の裏へ折り戻さなかった。




