第二章 第零号公債
黒田半蔵の手が下りるより早く、りんが鉄之助の袖を引いた。
「こっち」
「橋を渡るんじゃないのか」
「橋は追う側の道だ。逃げる側は川を使え」
りんは海運橋のたもとを斜めに切り、石垣と荷車の隙間へ身体を滑り込ませた。鉄之助も続く。背の竹筒が壁に当たり、乾いた音を立てた。
「音を立てるな」
「この身体で魚の真似はできん」
「なら死体の真似でもしてろ」
背後で男たちの足音が散った。
海運橋の上から一人。兜町の通りから二人。川沿いからさらに二人。黒田は走らない。ただ立っている。黒い羽織の裾だけが、川風を受けて膨らんだ。
「殺すな」
黒田の声が聞こえた。
「証書を傷つけるな」
人ではなく、証書。
鉄之助は懐の油紙を押さえた。証書は汗で湿っている。小夜の兄の名だと思っていた証書が、いまは自分の命より重くなっていた。
りんは川へ下りる石段を駆けた。日本橋川は朝の商いでまだ眠っていない。平田舟が河岸に寄せられ、板の上に魚が並ぶ。氷は、ここまでは回ってこない。鯛の目は濁りはじめ、鰯の腹はすぐ裂ける。男たちはそれを怒鳴り、担ぎ、投げ、値をつける。
「下りるぞ」
「船か」
「船じゃない。市場の床」
りんは固定された平田舟へ飛び移った。揺れた。魚の水が跳ねる。鉄之助も続くと、舟の板が悲鳴を上げた。
「重い」
「俺に言うな」
「舟に謝れ」
りんは積まれた空箱を倒し、その下へ潜り込んだ。鉄之助は歯を食いしばり、すぐ身体を押し込む。箱の内側は魚の臭いで満ちていた。腐る寸前の甘い臭い。鹿児島の野戦病院で嗅いだ臭いに似ている。
足音が石段へ下りてきた。
「娘と男だ。背に竹筒を持った大男」
「川へは下りていない」
「見た者がいる」
「魚河岸の連中は、朝は目より口がよく動く」
男たちの声が近づく。箱の隙間から、黒い足袋が見えた。
鉄之助は息を止めた。りんの膝が脇腹に当たっている。小柄な身体なのに、逃げるときだけは影のように場所を取らない。
男の足が箱の前で止まった。
「ここは」
「鯖だ」
りんが、箱の奥から低い声を出した。
「昨日の売れ残りだ。開けるなら買ってけ」
男が黙った。
臭いは強かった。鯖は本当に箱に残っている。りんはその腐りかけをわざと自分の顔の近くへ引き寄せていた。鉄之助の胃がひっくり返りそうになる。
「行くぞ」
足音が離れた。
りんはまだ動かない。鉄之助も動けない。板の下で水が鳴り、舟の外で魚河岸の怒号が戻ってくる。五つ数え、十数え、二十数えたところで、りんがやっと息を吐いた。
「大丈夫」
「大丈夫ではない。臭い」
「魚の値段だよ」
りんは箱の隙間から外を見た。
「黒い羽織はまだ橋にいる」
「黒田半蔵」
「知ってるのか」
「知らん」
「知らない相手に名を聞くなよ。名を聞いたら、向こうもあんたの名を覚える」
「もう覚えられた」
「最悪だね」
りんは鉄之助の懐を顎で示した。
「見せな」
「これは俺のものではない」
「じゃあ、なおさら見せな。持ち主でもない男が抱えて死んだら、その証書は小夜って子にも戻らない」
鉄之助は黙った。
りんの言い方には、魚河岸の理屈があった。魚は、誰の思いが乗っていようと、腐れば終わりだ。証書も同じかもしれない。売る時を逃せば、命も薬代も戻らない。
鉄之助は油紙を開いた。
りんは濡れた指を手ぬぐいで拭き、証書に触れないよう顔を近づけた。
「金禄公債」
「読めるのか」
「魚河岸の娘を馬鹿にするな。請求書も荷札も読めなきゃ、鯛と鰯を取り違える」
りんは額面を見た。
「百円」
「読めた。読めても、わからん」
鉄之助には、その重みがわからなかった。百円と言われても、小夜の薬代に足りるのか、余るのか、騙されるのか、何もわからない。戦場では米一握りの値ならわかった。弾一発の値も、命一つの値も、嫌になるほどわかった。
だが証書の値はわからない。
紙は白く、折り目の角がまだ立っている。遺品というが、ばかに新しい紙だ——朝の仲買人は、番号を読む前にそう呟いていた。
「百円なら、安く叩かれても医者と薬にはなる」
りんは言った。
「ただし、いま表の店じゃきれいに売れない。利払いの前は名義替えが止まるって話だ。店の番頭がぼやいてた」
「なぜだ」
「持ち主が昨日と今日で違ったら、誰に利子を払うか、役所の帳面が狂うからだろ」
鉄之助は証書を見た。
「なら、小夜は金にできんのか」
「表ではね」
「裏では」
りんは笑わなかった。
「裏では、もっと安くなる。相場師はそういう日を待つ。病人がいて、米がなくて、待てない士族から買うんだ」
鉄之助の奥歯が鳴った。
「人の弱みを値切るのか」
「魚も同じだよ。嵐で船が遅れた日、江戸中の台所は高くても買う。大漁の日、漁師は泣くほど安く売る。値段は情けじゃなくて、間に合うかどうかで決まる」
「それが商いか」
「そうだよ」
「嫌なものだ」
「嫌でも食わなきゃ死ぬ」
りんの声は淡々としていた。魚河岸で育った者の声だった。
鉄之助はもう一度、証書へ目を落とした。表には細かな文様。太政官の文字。印。額面。利率。番号。
りんの指が止まった。
「ここ」
証書の端だった。
爪ほどの赤い印。丸でも山でもない。ひしゃげた兜のようにも、石の欠け目のようにも見える。
「これが何だ」
「普通の印じゃない。版木の傷みたいに、繊維の中に食ってる」
「仲買人も見ていた」
「赤い印の中にも、番号みたいな字がある」
鉄之助は読んだ。
「第零号」
口に出すと、箱の中の臭いが遠のいた。
りんは眉を寄せた。
「そんな番号あるのか」
「俺に聞くな」
「一番の前は、ふつう何もない」
「戦場では違う。先に死ぬ者がいる」
りんの目が鉄之助へ走った。
「縁起でもない」
そのとき、外で別の足音がした。さっきの密偵たちとも、魚河岸の荒い草履とも違う。ゆっくり、迷わず、板の上を歩く足音。
「りん」
年寄りの声だった。
「いるんだろ。鯖の箱で息をする馬鹿はお前くらいだ」
りんが舌打ちした。
「源蔵じい」
箱の蓋が指一本分持ち上がり、皺だらけの顔がのぞいた。片目が白く濁っている。だが残った片目は、針のように鋭かった。
「出ろ。黒いのは橋から動いた。だが戻る」
りんは先に這い出た。鉄之助も続く。源蔵と呼ばれた老人は、小柄で、肩が曲がっていた。手だけは若い。魚の鱗を剥ぐ者の手、縄を結ぶ者の手だった。
「誰だ、そのでかい荷物は」
「飯代を踏み倒しそうな士族」
「士族は飯代を踏み倒すほど器用じゃない」
源蔵は鉄之助を見ず、証書を見た。
「その証書をしまえ」
「知っているのか」
鉄之助が問うと、源蔵の顔に嫌な影が走った。
「去年の暮れにも、その赤い印を見た」
りんの肩が強張った。
「父ちゃんのこと」
源蔵は答えなかった。
「源蔵じい」
「りん、お前は関わるな」
「もう関わってる」
「なら、もっと関わるな」
「そういう言い方で止まるなら、魚河岸の娘なんかやってない」
源蔵は深く息を吐いた。
「お前の親父、辰五郎は、海運橋で荷を運んだ。第一国立銀行へ入る証書荷だ。中身は知らん。知らん方がいい荷だった」
「証書荷」
「公債、札、帳面。あのあたりは近ごろ、魚より帳面の方が重い」
鉄之助は兜町の通りを思い出した。証書を見つめる男たち。札を金に変える城。金を札に変える城。
源蔵は続けた。
「辰五郎は、その荷の中に赤い印を見たと言った。兜岩の欠け目に似ている、と」
「兜岩」
りんの手が、荷札を握り直した。
「父ちゃんもそう言った」
源蔵はうなずいた。
「そのあと、辰五郎は消えた。海運橋で血を見た者もいる。死骸は上がらなかった」
りんの顔から表情が抜けた。魚河岸で笑い、怒鳴り、走っていた顔ではない。幼い子どもが夜の川を見つめる顔だった。
「あの倒れてた人は」
「喜助だろう。辰五郎と同じ荷に関わった男だ」
「死んでた」
源蔵は目を閉じた。
「なら、次はお前たちだ」
鉄之助は証書を油紙に戻した。
「この証書を小夜の薬代に変える」
源蔵が笑った。乾いた笑いだった。
「無理だ」
「なぜ」
「それは金禄公債の顔をしているが、帳面では別の役を背負わされている」
鉄之助の手が止まった。
「どういう意味だ」
源蔵は鉄之助から証書を取り、光に透かした。朝日が文様を浮かび上がらせる。赤い印の周りだけ、繊維の流れが違って見えた。
「普通の証書なら、額面と番号と印で終わりだ。だがこれは、繊維の奥にもう一つ線がある。荷札と同じだ。表の文字は行き先を見せる。裏の印は、本当の行き先を知る者だけが読む」
りんが身を乗り出した。
「どこへ行く印」
源蔵は川の向こうを見た。
「兜町だ」
「ここも兜町だ」
「もっと奥だ。橋と銀行と社と取引所。六月一日に開くという新しい市場。あそこへ吸い込まれる証書の、親札だ」
「親札」
「表の証書番号とは別に、何枚もの証書を束ねる裏の札だ。魚荷なら、箱の中身をまとめる荷札。これ一枚を読めば、どの箱に何が入っているかわかる」
鉄之助は懐の油紙を、着物の上から押さえた。
「源蔵」
りんが言った。
「父ちゃんは生きてる?」
源蔵はすぐには答えなかった。
魚河岸の怒号が遠くなる。川の匂いが濃くなる。橋の向こうで、黒い羽織がまた動いた。
「生きてるなら帳面の向こう、死んでるなら帳面の下だ。……どっちにしろ、魚河岸からは竿が届かん」
源蔵は証書を鉄之助へ返した。
りんは何も言わず、濡れた手を固く握った。
そのとき、橋の上で黒田半蔵が懐から薄いものを抜いた。指先で一枚を選び、欄干の外へ、落とした。
白い札が舞い、風に煽られ、平田舟の魚の上へ落ちる。
魚荷札だった。りんが拾う。魚の水で端が濡れている。
墨で「辰」と書かれている。りんの父、辰五郎の辰。
そして札の隅に、赤い印。
証書と同じ、兜岩のような欠け目。
黒田は追ってこない。りんが札を拾うところまで見届け、静かに背を向けた。
源蔵が舌を鳴らした。
「あの黒羽織、前から市場に来てた。腐りかけの鯖を、値切りもせず言い値で買ってく。値切らねえ客ってのは、魚を見ちゃいねえ。買い出しの顔ぶれを見てやがるんだ」
「誘ってる」
りんが言った。
「父ちゃんの札で、私を」
鉄之助は仕込みの竹筒を背に戻した。
「行くな」
「あんたは行くだろ。小夜の薬代のために」
「俺は」
「同じだよ」
りんは魚荷札を握りしめた。
「証書一枚で、人はどこへでも走る」
小夜の命も、りんの父も、この第零号も、六月一日に開くという公債の市場へ向かって引かれていた。
市場はまだ開いていない。それでも人の名には、もう値札がついている。
りんは橋の方を睨んだまま言った。
「鉄さん」
「縮めるな」
「もう遅い。あんた、私と来な」
「どこへ」
「魚河岸だよ」
りんは、父の荷札を懐に押し込んだ。
「この印を見たことがある奴を、片っ端から起こす」




