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兜町の赤い金  作者: megu
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第一章 紀尾井坂の翌日

大久保卿が斬られた翌朝、東京の魚はいつもより安かった。


日本橋の魚河岸では、夜明け前から男たちの声が飛んでいた。氷はあっても病人と氷水屋のもので、魚河岸には回らない。魚は人より早く腐る。誰が殺されようが、政府がひっくり返ろうが、鯛は鯛、鰯は鰯で、値がつかなければ川へ捨てられるだけだった。


「大久保さまの首が、紀尾井坂で飛んだってよ」


「首は飛んでねえ。腹を裂かれたんだ」


「馬車ごと斬られたって聞いたぞ」


「ばか言え。馬車ごと斬れるかい、刀が折れらあ」


噂は鱗と同じで、朝の光を受けるたびに色を変えた。昨日の朝、内務卿・大久保利通が紀尾井町で士族に襲われた。そこから先は、傷の数も犯人の人数も斬奸状の文句も、魚河岸の誰もが見てきたように話した。


相良鉄之助は、魚の山の間を抜けながら、そのどれにも耳を貸さないようにしていた。


貸さないようにしても、聞こえる。


士族。


斬奸。


西郷先生。


鹿児島の戦。


耳を塞いでも、どの言葉も胸の奥に残った。


鉄之助の懐にも、その言葉の残骸が一枚あった。


刀でも米でもなく、番号と利子で武士の禄を量った公債証書。国が、人の過去へ値をつけた紙だった。


「兄さん、どけよ」


背後から声が飛んだ。


振り向く前に、鉄之助の脇腹へ木箱がぶつかった。水を吸った箱だった。冷たさと魚臭さが着物に染みる。反射で手が背の荷紐へ落ちた。竹筒の硬い節に触れる。


「おっと」


声の主は、十六、七の娘だった。小柄だが、肩に担いだ箱は男の荷より大きい。額には汗、頬には魚の血。髪を手ぬぐいで乱暴にまとめ、素足に近い草履で濡れた石畳を踏んでいる。


「そんな物騒なもんに手をかけるほどの鯖じゃないだろ」


娘は鉄之助の背にくくられた竹筒を見て笑った。


「斬るなら先に値をつけな。今朝の鯖は安いよ」


鉄之助は竹筒から手を離した。


「ぶつかったのはお前だ」


「道の真ん中で死人みたいに立ってるからだ。魚河岸で止まっていいのは、魚と死体だけ」


娘はそう言い捨てて、箱を担ぎ直した。箱の隙間から小魚の尾がのぞいている。まだ動いているようにも見えた。


「兜町へ行きたい」


鉄之助が言うと、娘は足を止めた。


「あんた、魚を買いに来たんじゃないの」


「魚はいらん」


「飯は」


「いらん」


腹が鳴った。


娘は笑った。魚河岸の怒号の中でも、まっすぐ通る笑い声だった。


「腹はいるって言ってるけど」


鉄之助は答えなかった。


昨日の昼から何も食っていない。金はある。あるが、使えない金だった。小夜に突き返された銭を使えば、あの子の覚悟まで使う気がした。懐の内側に、油紙で包んだ証書が入っている。金禄公債。戦友の妹、小夜の家に残された最後のまとまった財産。これを売らなければ薬代が払えない。値切られれば、小宮の死まで安くなる。売らなければ、小夜がもたない。その矛盾を抱えて、鉄之助は兜町へ来た。売るまでは、一銭も減らせない。


娘は鉄之助の顔を見上げた。


「兜町なら、あっち。けど朝飯くらい食ってから行きな。腹が鳴る男は、相場師に足元見られる」


「相場師」


「公債を安く買って高く売る連中さ。腐る前に売るか、腐らせて泣くか」


証書が腐るものか。


そう言いかけて、鉄之助は黙った。


証書は腐らない。だが、値は腐る。昨日、小夜の長屋で大家がそう言った。公債は早く売った方がいい。士族はみんな売っている。ぐずぐずすれば、額面だけになる。


武士の禄が、額面だけの証書。


それを言った大家の喉を、鉄之助は危うく潰しかけた。


「おい、りん」


魚河岸の奥から太い声がした。


「その鯖、持ってけ。遅れるぞ」


「わかってる」


娘は返事をしてから、鉄之助へ顎をしゃくった。


「来な。道の途中までなら案内してやる。腹が鳴る士族を放っておくと、魚河岸の評判が悪くなる」


「俺は士族ではない」


「背中に怪しい竹筒くくって、腹を空かせて、公債を売りに兜町へ行く。じゃあ何だよ」


鉄之助は答えなかった。


士族ではない。


そう言いたかった。言えば言うほど、証書一枚で禄を買い取られた家の名にしがみついているようで、惨めだった。


娘、りんは魚箱を担いだまま歩き出した。鉄之助は一歩分置いて後を追う。魚河岸の端で、りんは川端の飯屋の前に箱を置き、店先の女から握り飯を二つ受け取った。


「一つはあんたの」


「金は」


「出世払い」


「出世はしない」


「じゃあ公債払い」


りんは笑い、握り飯を投げた。鉄之助は片手で受ける。塩のきいた飯に、焼いた魚のほぐし身が入っていた。温かい。


食うつもりはなかった。


一口食べると、もう止まらなかった。飯粒が喉を通るたびに、自分がまだ生きていることを思い出す。鹿児島の山で、泥のついた握り飯を奪い合った夜が戻ってくる。砲声、雨、腐った馬の臭い。戦友の小宮が笑っていた。生きて帰ったら、妹に東京のうまいものを食わせてやる。そう言っていた。相良も小宮も、旧幕に禄を食んだ家の生まれだ。それが官軍の徴募に応じ、同じ隊で西へ行った。


小宮は戻らなかった。戻らない、と紙が言った。負傷した小宮を後送の列に預けたのが最後で、届いたのは戦死の報せ一枚。鉄之助は、死に目を見ていない。


妹の小夜は、今も本所の長屋で熱を出している。


昨夜、鉄之助は自分の懐からわずかな金を出し、小夜の枕元へ置いた。小夜は痩せた指でそれを押し返した。


「兄の証書を売ってください。相良さまの情けで生きたら、兄が帰る場所まで借り物になります」


咳で声は擦れていた。それでも目だけは、鹿児島の山で死んだ小宮に似ていた。


「だから、一銭も使わないで。あの証書を、兄の名の証として扱ってください」


鉄之助はうなずくしかなかった。


鉄之助は最後の一口を飲み込んだ。


「うまい」


「だろ」


りんは自分の握り飯を半分だけ食べ、残りを手ぬぐいに包んだ。


「お前は食わないのか」


「あとで食う。魚河岸の人間は、食えるときに食って、食えないときの分を残す」


りんは箱をまた担いだ。


「あんた、名前は」


「相良鉄之助」


「鉄さんか」


「勝手に縮めるな」


「長い名は腹にたまらない」


りんは川沿いへ出た。日本橋川の水は朝の光を受けても黒かった。船が行き交い、荷が積まれ、男たちが罵り合う。橋の向こうに、妙な建物が見えてきた。


江戸から続く暖簾と、明治が急いで積んだ銀座の煉瓦。そのあいだを、魚の荷と証書の束が同じ川風に押されて動いている。


鉄之助は足を止めた。


木造の建物の上に、西洋風の窓と柱があり、その上に城郭めいた塔が載っている。見慣れた江戸の町屋とは違う。横浜にあるという異人館とも違う。日本の体に、異国の骨を無理に差し込んだような姿だった。


「あれが第一国立銀行」


りんが言った。


「海運橋の三井組ハウス。今は銀行。錦絵にもなる名所さ。見物かい」


「いや」


鉄之助は睨んだ。


「札を金に変える城か」


「金を札に変える城かもね」


りんの言葉に、鉄之助は返せなかった。


兜町へ入ると、臭いが変わった。魚と潮の臭いが遠のき、墨、馬糞、煙草、油、汗の混ざった臭いになる。商人たちが早足で行き交い、店先では男たちが証書束を広げて声を潜めている。制服の巡査は三尺棒を提げ、官吏は書類の風呂敷を抱えて早足に過ぎる。誰も刃を見ていない。皆、帳面の行を見ている。


鉄之助にはそれが気味悪かった。


「この先」


りんは間口の狭い店の前で止まった。看板には「公債売買取次」とある。中では細い目の男が帳面をつけていた。りんは箱を店の裏へ運ぶ。


「ここなら、士族の公債も値踏みはする。いまは利払いの時期で、表の名義替えは止まるって話だけどね。ただし、安く叩かれても泣くなよ」


「泣かん」


「斬るなよ」


「相手次第だ」


「それが一番困る」


りんは呆れた顔をして店の奥へ消えた。


鉄之助は懐の油紙を確かめた。


小夜の顔が浮かぶ。熱で赤くなった頬。兄の戦死を聞いたときも泣かなかった娘が、薬代の話になった途端に声を詰まらせた。兄が残したものはこれだけです。相良さま、これは兄の名です。そう言って証書を差し出した。


名なら売れない。


だが売らなければ、小夜が死ぬ。


鉄之助は店へ入った。


「公債を売りたい」


帳面の男は顔を上げた。年は四十前後。細い顎に、油で撫でた髪。商人の目だった。刃ではなく、懐の厚みを見る目。


「金禄かい」


「そうだ」


「額面は」


「読める。だが百円が薬代に足るのか安いのか、その意味がわからん」


男の口元が歪んだ。


「士族さんは、字は読めても金は読めねえ」


鉄之助の手が背の竹筒へ落ちた。


男の笑みが引っ込む。


「冗談だ。見せてみな」


鉄之助は油紙をほどいた。


下付が始まったばかりの、折り目もまだ新しい紙だった。小夜の兄が大事にしまっていたのだろう。表には細かな文様と印があり、額面、利率、番号が記されている。鉄之助には数字の細かい意味はわからない。それでも、この一枚が小夜の兄の代わりに家へ残ったことだけは知っている。


男は証書を受け取り、最初はいつもの商売顔で見た。


次に、目の色が変わった。


証書を持つ指が止まり、喉が上下する。男は証書の番号を読み返した。さらに、証書の端にある爪ほどの赤い印へ顔を近づける。


「どこで、これを」


声が低くなった。


「戦友の家だ」


「その戦友は」


「死んだ」


「いつ」


「鹿児島で」


男は証書を返さなかった。


店の口で洟を拭いていた小僧が、下駄も突っかけずに表へ走り出た。使いにしては、速すぎる足だった。


「これは買えねえ」


「値がつかんのか」


「そうじゃない」


男は店の外を見た。さっきまでざわついていた表通りが、急に遠くなったように感じた。


「これは売り物じゃねえ」


「なら何だ」


男は証書を油紙に戻そうとして、手を止めた。


「命取りだ」


「帳面に載せれば、載せた者の名まで追われる。番号を口にしただけで、耳のある奴が寄る」


店の奥で床板が鳴った。


鉄之助は振り返るより早く、身を沈めた。頭のあった場所を、黒い棒が横切る。樫の短棍だった。相手は二人。どちらも町人のなりをしているが、足運びが違う。


鉄之助は背の竹筒を外し、口金をひねった。節の内側から、細身の刃が滑り出る。


狭い店内で刃が光る。


「証書を置け」


奥の男が言った。


「お前には読めん証書だ」


「読めん証書でも、俺が預かったものだ」


「士族のものは、もう国のものだ」


その言葉で、鉄之助の腹の底に火がついた。


一人目が踏み込む。鉄之助は短棍を持つ手首を打ち、膝で腹を蹴った。二人目が懐へ手を入れる。短筒。銃だ。


刃より速い。


鉄之助が詰めるより先に、店の裏から魚箱が飛んできた。


箱は二人目の顔面に当たり、鯖が散った。生臭い水が床へ弾ける。


「こっち」


りんだった。


「馬鹿、店で仕込みを抜くな」


「向こうが先だ」


「どっちでもいい。死んだら魚より安くなる」


りんは裏戸を蹴り開けた。鉄之助は仲買人の手から証書を奪い返し、裏へ飛び出す。背後で短筒が鳴った。耳の奥が白くなる。弾は戸口の柱を抉った。


銃声に、表の通りが一拍だけ黙った。一枚売りの声が止み、どこかで人を呼ばう声が立つ。


裏路地は狭かった。魚箱、酒樽、薪、汚れた水桶。りんはその間を迷わず走る。鉄之助は大柄な体を何度もぶつけながら追った。


「あいつらは何者だ」


「知らない」


「知らんのに助けたのか」


「飯代をまだ返してもらってない」


りんは振り返らずに言った。


表通りへ出ると、朝の兜町はもう人で満ち始めていた。商人、車夫、役人風の男、三尺棒を提げた巡査、新聞売り。刷りたての一枚売りを握った少年が走っている。


「内務卿暗殺、内務卿暗殺」


声が空へ跳ねる。


国が血を流している朝に、兜町では公債が売られている。


鉄之助は懐を押さえた。証書はまだある。ただ、油紙の端が破れ、証書の隅が見えていた。そこに、仲買人が見て顔色を変えた赤い印がある。


りんは海運橋の方へ走った。


「川へ出れば撒ける」


「なぜお前がそこまで」


「だから飯代」


「握り飯一つで命を張るのか」


「命じゃない。足だ」


りんは笑った。


「走るのは得意なんだよ」


そのとき、前方から人が逃げてきた。


一人ではない。三人、四人。顔を強張らせ、海運橋の方を振り返りながら逃げてくる。りんの足が止まった。


「何だ」


鉄之助が聞くより早く、橋のたもとが見えた。


海運橋の石柱。


その白っぽい石の表面に、赤い文字が書かれていた。墨とは違う、錆びたような、濡れたような赤。


一八七八。


数字だった。


橋のそばに、男が倒れている。血はその男の指から石柱へ伸びていた。男はすでに動かない。手のそばに、荷役の使う鑿が一本転がり、刃先に石の粉と血がこびりついている。懐から、色鮮やかな錦絵が半分のぞいていた。第一国立銀行の塔が描かれている。


りんの顔から血の気が引いた。


「あの人」


「知っているのか」


「父ちゃんと、最後に一緒にいた人だ」


鉄之助は倒れた男へ近づこうとした。


その前に、橋の向こうから黒い羽織の男が現れた。年は三十半ば。刀は差さず、手に節の詰んだ杖を提げ、それでいて誰も咎めない歩き方をする。目は細く、笑っていない。背後に二人、同じような男を従えている。


男は倒れた死体も、石柱の血文字も見なかった。


鉄之助の懐を見た。


「第零号公債」


低い声だった。


「それをこちらへ」


鉄之助は竹筒の口金に手を置いた。


「名を言え」


男は口角だけを上げた。


「黒田半蔵。名を聞いたことを、すぐ後悔する」


りんが息だけで呟いた。


「鉄さん」


「勝手に縮めるなと言った」


「今は縮んでくれた方がいい。逃げるよ」


大久保利通の血が乾かない東京で、別の血が兜町の石に染みていた。


鉄之助は仕込みの刃を抜いた。


「りん」


「何」


「逃げ道は」


りんは、魚河岸で見せたのと同じ顔で笑った。


「川なら、私の方がこの人たちより詳しい」


黒田半蔵が手を上げた。


その合図で、橋の上の男たちが動いた。


相良鉄之助は、証書一枚を懐に抱えたまま、明治十一年の兜町を走り出した。


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