第十章 錦絵の中の塔
巡査の提灯が牛鍋屋の暖簾を照らしたとき、鉄之助たちは裏口から逃げていた。
そのまま浅草へは向かわなかった。りんの案内で茅場町の外れの物置に潜り、日が落ちるまで動かなかった。志乃は膝の上で帳面を写し、りんは戸の隙間から路地の人影を数え、鉄之助は腕の布を締め直しては緩めた。追手らしい足音は、二度、戸の前を素通りした。
日が沈んでから、三人は路地へ出た。
腕の傷は浅くない。布で縛ると、痛みが肩まで上がった。りんが先に走り、志乃が帳面を胸に抱えて続く。鉄之助はその後ろを歩いた。走れないのが腹立たしい。
「医者へ行く」
鉄之助は言った。
「駄目」
りんが振り向きもせずに返した。
「駄目とは何だ」
「小田島のところには黒い羽織の男がいる。朝、お梅さんに聞いたでしょ」
「小夜が待っている」
「鉄さんが捕まったら、小夜ちゃんに薬を持っていく人もいなくなる」
鉄之助は黙った。
りんの言うことは正しい。正しいから余計に腹が立つ。
志乃が路地の角で立ち止まった。
「先に青柳へ行きましょう」
「摺師か」
「はい。小田島先生が罠なら、罠を張っている側の控えを読まないと近づけません。青柳は、半次さんの錦絵を摺った職人です。あの絵に、医者と黒田をつなぐ手がかりがあるかもしれない」
「絵が薬になるか」
「なりません」
志乃はまっすぐに言った。
「でも、絵が刃になることはあります」
りんがうなずいた。
「魚だって、骨を抜かないと食えないんだよ。まず骨」
「人を魚にするな」
「じゃあ牛?」
「さっきから肉の匂いが取れん」
りんの口元が動いた。
その笑いは、すぐに消えた。夜道の先で、まだ人を呼ばう声がしている。誰かが牛鍋屋の一件で引かれるだろう。お梅か、緋桜隊の残した男か、何も知らない客か。
三人は人通りの途切れた道を選び、浅草へ向かう荷車に紛れた。
荷車の主は、りんの顔を見るなりため息をついた。
「また面倒を運ばせる気か」
「面倒じゃないよ。人」
「もっと悪い」
荷は団子粉と味噌樽だった。りんは勝手に樽の陰へ鉄之助を押し込み、志乃をその横に座らせた。自分は車の後ろへ腰をかける。樽の間へ身体を沈めるとき、腕の傷が開いた。布に新しい染みが広がる。鉄之助は歯で結び目を締め直した。
「あとで払う」
「魚河岸のあとでは、だいたい払われない」
「今日のは公債払い」
「燃やされる証書はいらん」
荷車は夜の町を軋ませて進んだ。火の落ちた店、まだ灯のある小間物屋、酒に赤くなった人足、新聞を売る少年。角の向こうで、大久保卿を斬った者たちの名を読み上げる声がしていた。別の角では、金禄公債を早く売れと触れ回る男がいた。
「売るなら明日まで」
男は声を張った。
「取引所が開けば、値はもっと荒れる。今なら高く買う。士族の皆様、今なら高く買う」
荷車の上で、鉄之助の手が自然に竹筒へ伸びた。
志乃が言う。
「高く買うと言う人ほど、たいてい安く買います」
「なぜわかる」
「本当に高く買う人は、声を張らなくても売り手が来ます」
りんが後ろから顔を出した。
「魚も同じ。よく叫ぶ買い手は、だいたい腹が汚い」
「腹はみんな汚いだろう」
「魚の腹と人の腹は違うの」
荷車の主が咳払いをした。
「腹の話はやめろ。団子粉がまずくなる」
押し殺した笑いが荷車に落ちた。
鉄之助はその笑いを噛んだ。笑えるうちは、まだ動ける。
荷車の主は、しばらく黙って手綱を引いていたが、やがて懐から竹皮の包みを出した。
「割れた団子だ。売り物にならん」
りんが受け取る。
「ただ?」
「あとで魚河岸に顔を出したとき、いい鯵を回せ」
「それ、ただじゃない」
「世の中にただはない。覚えておけ」
志乃が顎を引いた。
「相場の根本みたいなことを言いますね」
「団子の話だ」
包みの中には、押されて平たくなった団子が三つ入っていた。蜜はほとんど竹皮に吸われている。りんは一つを鉄之助の口元へ突き出した。
「食べて」
「いらん」
「血を流した人は食べる」
「団子で血が戻るか」
「気分は戻る」
鉄之助は仕方なく噛んだ。固い。甘い。味噌と牛肉と血の匂いが口に残っていたので、その甘さが妙に腹立たしかった。
荷車の主はついでのように、甘酒の入った竹筒も渡してきた。
「それも割れ物か」
鉄之助が聞く。
「飲めば割れん」
りんが吹き出した。
志乃も目を伏せて笑った。
青柳の仕事場は、表に派手な絵草紙を並べる店ではなかった。大通りから一本外れた路地にあり、入口は狭い。だが奥へ入ると、和紙と墨の匂いが濃くなった。乾いた版木が積まれ、色別の皿が並び、吊るされた摺り見本が灯に揺れている。
表の戸は半分閉まっていた。
りんが軽く叩く。
「青柳さん。魚河岸のりん」
返事はない。
もう一度叩く。
奥で、何かが倒れる音がした。
鉄之助は志乃を下げ、戸を開けた。
店の奥に男がいた。五十前後、痩せて、指の爪に赤や藍の色が入り込んでいる。男は床に落ちた版木を拾おうとして、腰を押さえていた。
「誰だ」
「りんだよ。辰五郎の娘」
男の顔が変わった。
「帰れ」
「帰らない」
「ここに来るなと言われただろう」
「誰に」
男は答えなかった。
志乃が一歩前へ出た。
「青柳源助さんですね。半次さんが持っていた第一国立銀行の錦絵について、聞きたいことがあります」
青柳は顔をしかめた。
「あの絵は売り物だ。聞くことなどない」
「売り物なら、版元の判で終わりです。これには、摺師の隠し印がある」
志乃は懐から半次の錦絵を出した。焦げと血で端が傷んでいる。
「柳の下に、細い七。あなたの手ですね」
青柳の目が、灯より暗くなった。
鉄之助は店の奥を見た。
版木がある。刷りかけの紙がある。絵の中には、橋、役者、開化の街、洋館、蒸気車があった。役者絵と開化絵を同じ棚に入れ、江戸の色で明治の洋館を売る店だった。第一国立銀行の姿も何枚もある。高い塔。白い壁。海運橋。見物人。和とも洋ともつかない、明治の顔。
「あれは城だな」
鉄之助が言った。
青柳が鼻で笑った。
「城なら、いまの世に描けん。あれは銀行だ。金をしまう城だ」
「金は、証書で動くようになった」
「だから城がいる」
青柳はようやく立ち上がった。
「何を知りたい」
志乃が錦絵を広げた。
「この第一国立銀行の窓の数です」
青柳は黙った。
志乃は指で塔をなぞる。
「実物の塔と、この絵では、窓の並びが違います。普通の見物人は気づきません。けれど海運橋から見上げると、ここにあるはずのない窓が一つあります」
りんが覗き込んだ。
「窓?」
「七つ目」
志乃は言った。
「この塔には、七つ目の窓が描かれています。でも実物にはありません」
志乃は錦絵から目を上げなかった。
「七だけが、絵から浮いています」
鉄之助には、同じ窓が多すぎてよくわからなかった。
「間違えたのではないか」
青柳が笑った。
今度の笑いは、紙を裂く音に似ていた。
「絵師が窓を間違えると思うか。橋から見た影、塔の角、瓦の数、見物人の笠。名所絵は嘘を描く。だが、嘘にも銭を取るだけの筋がいる」
「なら、なぜない窓を描いた」
「描かされた」
青柳は奥の棚から、同じ絵の摺り違いを何枚も出した。藍が濃いもの、朱がかすれたもの、雲の形が違うもの。どれも第一国立銀行を描いている。志乃が指した窓だけは、あるものとないものがあった。
「最初の摺りにはない」
志乃が言った。
「途中から増えています」
「そうだ」
青柳は一枚を裏返した。
裏には墨で数字が書いてあった。
七、三、玉。
鉄之助の背が冷えた。
「玉だ」
りんも息を呑む。
青柳は湯呑を引き寄せ、飲まずに置いた。
「辰五郎に頼まれた。あいつは荷を運ぶ男だが、目がよかった。海運橋の上で、銀行の塔を見上げて言った。源助、ない窓を一つ描け。見る者が見れば、そこが入口になる、と」
「入口が七つあるのか」
鉄之助が言うと、青柳は首を振った。
「一つ足りないから、七を描けと言われた」
「父ちゃんが」
りんの声から張りが抜けた。
「辰五郎は何を運んだ」
鉄之助が問う。
青柳は首を振った。
「魚ではない。重くもない。だが、持つ者がみな怖がる荷だった」
「証書か」
「証書は軽い。怖さは重い」
志乃が錦絵を持ち上げ、灯に透かした。
「この七つ目の窓は、窓ではありませんね」
青柳の眉が動く。
「何に見える」
「取引所の入口」
志乃は半次の錦絵と青柳の摺り違いを重ねた。りんが棚から出した薄紙を使い、二枚の塔をぴたりと合わせる。七つ目の窓は、銀行の塔から外れ、紙の余白へ移った。
余白に、細い線が浮いた。
橋。
もう一つの橋。
そして、兜町の内側へ曲がる道。
「海運橋から、兜岩へ。兜岩から、まだ先がある」
志乃が言った。
「東京株式取引所」
青柳は目を閉じた。
「言うな」
「なぜ」
「言えば、殺される」
奥の戸が鳴った。
鉄之助は竹筒を抜いた。りんが手近な版木をつかむ。志乃は錦絵を畳んだ。
戸の隙間から、黒い羽織が見えた。
黒田ではない。
若い男だった。顔に見覚えはない。だが、手の動きが役人ではなく、博徒でもない。紙を扱う者の手だ。細く、速い。
男は何かを投げた。
折った紙包み。
青柳が叫んだ。
「水」
鉄之助は反射で紙包みを竹筒ではじいた。包みは青柳の足元の版木に当たり、白い粉が咲く。青柳が身を折って咳き込んだ。りんが水桶を蹴り倒す。水が床を走り、粉を伏せた。
男は逃げた。
鉄之助は追おうとしたが、腕の痛みで一歩遅れた。その一歩で、男は路地へ消えた。
「くそ」
「追わない」
りんが鉄之助の前に立った。
「今のは毒か」
志乃が青柳を見る。
青柳は床に膝をついていた。顔色が悪い。唇が白い。
「吸ったのか」
鉄之助が近づく。
青柳は首を振ろうとして、また咳き込んだ。
「僅かだ……だが、俺にはそれで足りる。前からだ……一度にじゃない」
「何」
「茶に……入れられていた」
りんが店の隅の湯呑を見た。中には、冷めた茶が半分残っている。
「誰が」
「版元の使いが月に二度来る。茶を淹れてやるのが決まりでな」
青柳はそこで言葉を切り、湯呑から目をそらした。それ以上、名は出なかった。
志乃が青柳の背を支えた。
「辰五郎さんはどこです」
青柳の指が、床の錦絵を探った。鉄之助がそれを拾い、手元へ持っていく。
青柳は震える指で、七つ目の窓を押した。
「塔の中じゃない」
「どこだ」
「塔の……影だ」
志乃が息を止める。
「影」
青柳はかすかにうなずいた。
「銀行の影に……市場を作る。公債を売る市場だ。証書を守る者、証書を燃やす者、札を偽る者が、同じ日に集まる」
「いつ」
鉄之助が問う。
青柳の目が、天井の摺り見本へ向いた。
そこには、まだ刷られていない新しい絵が吊られていた。第一国立銀行の塔ではなく、別の建物の前に人が集まる絵だ。旗が立ち、男たちが押し寄せ、提灯に「株式」とある。
「取引所」
志乃が言った。
青柳は最後の力で、鉄之助の袖をつかんだ。
「開く前に」
「何をだ」
「止めろ」
「何を止める」
「値が……つく」
青柳の手から力が抜けた。
りんが青柳の肩を揺らした。
「青柳さん」
返事はない。それでも胸は、まだ浅く上下していた。
店の外で、誰かが走る音がした。さっきの男か、別の追手か。もうわからない。
志乃は青柳の摺り違いを三枚、震える手で畳んだ。
「持っていきます」
「盗みか」
鉄之助が言う。
「預かります。摺った人が殺されかけた絵です。置いていけば、次に来た手が燃やします」
りんは青柳の湯呑を見つめていた。
「父ちゃんも、これを知って消えたんだね」
鉄之助は答えられなかった。
りんは表の戸を開け、路地へ声を投げた。
「浅草口の青柳さんが倒れた! 医者を呼んで!」
雨戸の軋む音が、二軒、三軒と続く。人の起きる気配を確かめてから、三人は裏へ抜けた。
七つ目の窓。塔の影。開く前に止めろ——摺師の最後の声を、鉄之助は腕の傷ごと抱えた。
青柳の仕事場を出ると、夜明け前の空が白み始めていた。
通りの向こうで、男がまた声を張っている。
「公債を買う。金禄公債を買う。取引所が開く前なら、まだ間に合う」
鉄之助は、その声の方へ歩き出しそうになった。
りんが袖をつかむ。
「小夜ちゃんのところへ行く?」
鉄之助は空を見た。
「行く」
志乃が言った。
「ただし、小田島先生へまっすぐ行くのは危険です。先に、取引所の前を見ます」
「なぜ」
「青柳さんの新しい絵です。あれはまだ開いていない場所を描いていました」
「未来を描いたのか」
「いいえ」
志乃は錦絵を抱え直した。
「依頼主が、開業の日の絵を先に注文したんです。誰が門前に立ち、誰が裏口から入るかまで」
りんが言った。
「祭りの絵じゃないね」
「はい」
志乃はうなずいた。
「罠の絵です」
鉄之助は懐の第零号公債を押さえた。
証書は、まだ冷たかった。




