父の荷道
小夜は、兄の下書きを読み終えるまで、鉄之助を次の場所へ行かせなかった。
五月十八日の昼前だった。
霊岸島の借間から持ち帰った紙は、畳の上に二枚ある。小宮が妹へ宛てた未投函の下書きと、野添市助、片岡弥吉、小宮佐一を三つの欄へ記した細長い名控え。
小夜は一枚ずつ受け取り、見つけた場所と、最初に読んだ者を確かめた。
「隠そうとしましたか」
「一度、懐へ入れかけた」
鉄之助は答えた。
りんも志乃も代わりに口を挟まなかった。
「それから?」
「お前の鍵で開けた部屋だと、りんに言われた。開いて持ってきた」
小夜は下書きの折り目を指で戻した。兄の字が途中から急いでいる。二人の死者の癖だけは、行の外へはみ出すほど細かく書いてあった。
「兄を、善い人に戻さないでください」
小夜は咳を一つのみ込んだ。
「二人の名を、誰へ売ったのか。それを見つけてください」
二枚は長持へ入った。原証書、帰京手紙、戦死通知と同じ場所だった。鉄之助が持ち出すことを許されたのは、辰五郎の荷札だけである。
午後、りんは父の納屋から空の魚箱を三つ運び出した。
「父ちゃんが運んだのも、この大きさ」
鯛を寝かせる平箱で、濡れれば一箱を一人で抱えるのは難しい。鉄之助は二箱を担ぎ、りんが一箱を持った。中身はない。重さを知るため、河岸で水桶を一つずつ載せる。
森巳代次は荷縄場の柱へ背を預け、三箱を見ると、返事をする前に腰の縄を巻き直した。
「辰五郎と運んだな」
鉄之助が問う。
「海運橋まで」
半拍あった。
「北詰で、舟の男へ渡した。俺はそこで帰った」
「赤石屋の裏蔵へは?」
「行ってない」
りんが荷札を開いた。魚油の染みた内側に、鯛三箱、海運橋北詰、赤石屋裏蔵、辰五郎とある。
「父ちゃんの字だよ」
「行き先を書いただけだろ」
巳代次は縄の端を揃えた。
「荷を渡す者が、蔵まで入るとは限らない」
筋は通る。荷札だけなら、橋で別の担ぎ手へ渡したとも読めた。
鉄之助は三箱を見た。
「舟へ下ろしたのは誰だ」
「辰さんと舟の男」
「三箱を二人で?」
「そうだ」
「水の入ったこの一箱を持て」
巳代次は手を出さなかった。
りんが反対の取手を持った。二人なら、箱を傾けずに石段へ下ろせる。一箱を舟へ置き、二人で上へ戻れば、三箱でも運べないことはない。
「二人だけでもできるよ」
りんは水面を揺らさず、箱を元の場所へ戻した。
三人目がいたと決めれば、巳代次の黙り方まで証拠にできる。鉄之助は、聞きたい答えへ箱を積みかけた。
「どれだけかかった」
「覚えてない」
「舟の印は」
「見てない」
巳代次は母の薬を取りに行く時刻だと言い、荷縄場を離れた。走りはしなかった。二人で下ろせることも、橋から先へ運ばなかったことも、まだ崩せていない。
りんはその背を追わず、水桶を箱から下ろした。
「父ちゃんと、さよりが嘘をついてるなら、別の嘘だよ」
「なぜ分かる」
「父ちゃんは裏蔵って書いた。さよりは橋で終わったって言った」
「どちらを信じる」
りんは答えず、箱に残った水を溝へ捨てた。
赤い石を染めた前掛けの男が、河岸の空箱を値踏みしながら歩いてきた。魚には目もくれず、蓋の合う箱だけを指で叩いている。
「その三つ、売るか」
りんが男の指を見た。
「何を入れるの」
「店の使いだ」
「鯛箱は水が漏れるよ」
「紙を敷く」
男は相場より高い銭を言った。箱の代ではなく、魚の臭いが染みた器を急いで欲しがる値だった。
りんは一文だけ上乗せさせた。
「運び賃は別。うちの担ぎ手が届ける」
男が鉄之助の顔を見る。鉄之助は右膝を少し曲げ、荷に使われるだけの男の顔で待った。
空箱の底へ乾いた藁が敷かれ、細長い紙包みが重ねられた。魚水を捨てたばかりの箱へ、濡らしてはいけない荷が入る。赤い前掛けの男は蓋を縄で締め、海運橋北詰を指定した。
橋まで運ぶと、別の担ぎ手が二人待っていた。
一人が箱を受け、川へ下りず北へ曲がる。
「舟はあっちだよ」
りんが呼ぶと、男は振り向かなかった。
鉄之助は二箱を担いだまま続いた。橋沿いの道から細い横丁へ入り、酒屋の土蔵を回る。三箱がぶつからず通れる道は一つしかない。前を行く男は迷わず、赤い石の印を掲げた店の裏へ着いた。
裏蔵の戸口には、魚を洗う桶も、鱗を捨てる籠もなかった。
前掛けの男が内側から閂を外した。
「ここへ置け」
「海運橋で渡す話だ」
鉄之助が言うと、男は運び賃を一文増やした。
「橋で受け取った。あとは店の荷だ」
りんは銭を受け取り、一枚ずつ濡れた指で数えた。男が急かしても、数え直した。父がこの戸をくぐったかは、誰も答えない。だが、魚荷の名をつけた紙包みは、いま三箱とも赤石屋の裏蔵へ入った。
戸が閉まる直前、床に同じ形の平箱が見えた。側面へ、内控らしい仮名と数字が墨で並んでいる。
帰り道、鉄之助はりんへ聞いた。
「辰五郎が赤石屋から銭を受け取る所を見たことはあるか」
りんの指が、運び賃の一枚だけを裏返した。
「ないよ」
「今のは、考えてから言ったな」
「今日の銭と、父ちゃんの銭を混ぜたくないだけ」
りんは運び賃を前掛けの隠しへ入れ、先に歩いた。
赤石屋の裏蔵では、三箱目の閂が落ちた。




