三十円
五月三十一日の朝、鉄之助は小夜の名を、弁蔵の帳面から早く消したかった。
七日ごとの療養立替は二度、更新されていた。
薬包は朝夕に渡り、医師も一度来た。米と卵、炭、家賃まで、使った分だけ小夜の欄へ増えている。上限の三十六円にはまだ遠い。それでも帳面を開くたび、鉄之助には借りが小夜の身体へ積まれていくように見えた。
弁蔵は残り枠を読み、帳面を閉じた。
「次の七日も続ける。受取は揃ってる」
「俺がまとめて払えば、ここを閉じられるな」
「払う銭があるならな」
弁蔵は鰹包丁を取り、話を終えた。
河岸の外で待っていたりんが、鉄之助の持つ紙を抜いた。
紙には、三十円とだけ大きく書いてある。
「どこで聞いたの」
「今津という仲買だ。証書を売らずに貸す者を知っている」
「売れない物は預からないって、弁蔵が言った」
「赤石屋は預かる」
りんは紙を鉄之助の胸へ押し返した。
「父ちゃんの荷が入った店だよ」
「だから行く。条件を見れば、向こうの帳面も見える」
「小夜ちゃんの証書で?」
鉄之助は答えず歩いた。りんはついてきたが、横には並ばなかった。
今津清兵衛は、鎧橋近くの貸席で算盤を借りていた。
羽織は地味で、裏地だけが滑らかだった。客の足音が止まるたび、誰が来たかを見る前に算盤を伏せる。
「金禄を売る話なら、帰ってください」
今津は鉄之助の名を聞いたあと、最初にそう言った。
「いまは売買の禁止が解けていません。表では売れない。取引所の立会へ持ち込むこともできない。私が正価をつけたと言えば、仲買の名を失う」
「三十円は何だ」
「貸付です」
今津は三枚の紙を並べた。
一枚目は借用証。借主が三十円を受け取る。
二枚目は預り証。七分利百円の原証書を赤石屋へ預ける。
三枚目は、日付と代理人の名が空いた委任の紙だった。
「三つを一緒に使うのか」
「赤石屋の条件はそうです。金は今日出る。証書は向こうが持つ。禁止が解けたあとの手続を、この白い所へ入れる」
「質に取るのか」
「その言葉で官の前へ出せる形ではありません」
今津は紙の端を揃えた。
「法が取り立ててくれる約束ではない。原証書を握る店と、今夜の銭が要る持ち主の約束です。嫌なら、署名しないことです」
りんが三枚目を持ち上げた。
「名前も日付もない。あとで何にでもできる」
「だから高く貸さない。赤石屋はそう言う」
「三十円は高いの」
「今日の三十円としては大金です。百円券の先を考えれば、安い」
今津は値を一つに決めず、幅を言った。解禁が遅れれば紙を抱える期間が伸びる。買上げがなければ見込は外れる。持ち主が争えば表へ出せない。その危険を引いても、赤石屋の取り分は厚い、と認めた。
鉄之助は借用証を見た。
「これで、小夜の立替を返せる」
「今までの分は払えます。これから先の薬、飯、炭まで足りるとは言いません」
今津は小夜を救えるとも、三十円で足りないとも断言しなかった。
「九月に何がある」
志乃が貸席へ入ってきた。
父の旧い仕事控えを抱えている。りんが今朝、先に知らせていたらしい。
今津は彼女の帳面を見て、三枚の紙を伏せた。
「まだ公に出た話ではありません」
「赤石屋は、その話を条件へ入れています」
「内議の見込です。九月九日に禁止を解く。政府が買うなら、百円に八十二円ほど。どちらも外へ約束できる段階ではない」
鉄之助は三十円の字を見た。
貸した三十円。見込の八十二円。間には五十二円ある。赤石屋は、その差がまだ一文も生まれていないうちから、原証書と空白の委任を取ろうとしている。
「誰から聞いた」
「周防主計さんの周りです」
今津は名を正しく言った。
「本人から聞いたとは言いません。聞いた者も、いつ外へ出してよい話かは言わなかった」
薬問屋で、周防の指が隠した予定紙を鉄之助は思い出した。今津の三枚には、その時は読めなかった日付と値が先回りしている。
「借りる」
鉄之助が言うと、りんが紙を机へ置いた。
「小夜ちゃんは、毎週、自分で残りを読んでる」
「三十円を入れれば、魚河岸へ負わせずに済む」
「あんたが小夜ちゃんの名を消したいだけでしょ」
「借りを減らすんだ」
「自分で書いた名を、本人に聞かず消すの?」
今津は二人を止めなかった。算盤へも手を伸ばさない。契約が割れるのか、まとまるのかを待つ顔だった。
鉄之助は三枚を返した。
「明日、証書を見せる。預けるかは、その場で決める」
「持ち主の承諾を」
今津が言った。
「私には、相良さんの義理と小宮小夜さんの所有を同じ物として扱う理由がありません」
本所へ戻ると、小夜は三枚の条件を最後まで聞いた。
鉄之助が「見せるだけだ」と言うと、指折り条件を返した。
「原証書を店へ置かない。指印を押さない。私の名を書かない。店の外へ出る時に、原証書を持っているか確かめる」
鉄之助は一つずつ復唱した。
小夜は長持から証書を出し、油紙の紐を自分で結んだ。
「八十二円は、どの公の紙にありますか」
「まだない」
「では、三十円より先に、その八十二円を見せてください」




