第十一章 取引所開業前夜
五月は、折り目をつけられた布のように畳まれて過ぎた。
青柳源助の死は病死に、牛鍋屋の騒ぎは酔った士族の喧嘩に、半次の死体は無宿人の行き倒れになった。
名前を変えれば、事件は目立たなくなる。
鉄之助はその二週間で、それを覚えた。
小夜の熱は下がらない。りんが魚河岸の網で薬だけを長屋へ届け、小夜は飲むたび「これは誰の情けですか」と聞いた。りんは魚の話に逃げ、鉄之助は長屋の外でそれを聞いた。桐野千景と緋桜隊は姿を消し、公債買い取りの貼り紙だけが夜ごと裂かれて緋色の糸を残した。黒田は追ってこなかった。先に手配札を置き、人がそこへ歩くのを待つ男には、路地の先に伸びる巡査の影だけで足りた。
志乃は青柳の錦絵を重ね、七つ目の窓から伸びる線を兜町の地図に写した。線は第一国立銀行の塔を外れ、海運橋を渡り、兜岩をかすめて鎧橋の方へ折れ、その先に東京株式取引所があった。
明治十一年五月三十一日。
兜町は、祭りの前のようで、祭りではなかった。
海運橋へ向かう人波は、兜町の外からも来ていた。駿河町の越後屋の方からは反物を扱う手代が来る。日本橋本町の薬種問屋の小僧は、木箱を抱えたまま背伸びして取引所の門を見ている。京橋を抜け、銀座の煉瓦街を踏んできた靴は、泥のつき方が違った。築地明石町の方から流れてきた洋紙めいた匂いもある。新橋停車場へ向かう荷車の音まで、川風に混じって聞こえた。
町のどの筋から来た者も、海運橋の方へ首を伸ばしていた。
提灯が出ている。屋台も出ている。蕎麦の湯気、酒の匂い、魚河岸から流れてきた生臭さ、人力車の車輪が跳ねる泥。太鼓も笛もなく、あるのは、証書束を懐に入れた男たちの息だった。
「人が多すぎる」
鉄之助は笠を深くかぶった。
「明日から取引が始まるんです」
志乃も、いつもの着物の上に古びた羽織を重ね、顔を目立たなくしている。
りんは魚籠を背負っていた。籠の中身は、青柳の錦絵と薄紙、志乃の写し、それに鉄之助の傷を縛る布だ。
「取引って、何を売るの」
りんが聞いた。
志乃が周囲を見ながら答える。
「最初は公債です。旧公債、新公債、秩禄公債。中で声にかかる公債と、門前で値踏みされる金禄公債が、同じ熱を持っています」
「株式取引所なのに」
「名前が先に走ることはよくあります」
鉄之助は取引所の門を見た。
まだ新しい木の匂いがする。門前には、職人、仲買人、両替商、見物人、士族、新聞売りが入り混じっている。明日の開業を見ようと、すでに場所取りをする者までいた。
誰かが叫んだ。
「金禄公債、買うぞ。今日中なら高い」
別の男が続ける。
「明日は値が荒れる。売るなら今だ」
売るなら今だ。
この半月、鉄之助はその声をどこでも聞いた。
小夜の長屋の前でも。
魚河岸の飯屋でも。
青柳の葬いの帰りでも。
門前の端で、痩せた士族が証書を握っていた。連れている子供は咳をしている。士族は証書を商人へ差し出し、商人は首を振った。
「それでは買えん」
「昨日は、その値でよいと」
「昨日は昨日。明日、取引所が開く。値は下がるかもしれん」
「子に薬がいる」
「だから今買ってやると言っている」
商人が出した額は、士族の顔を白くするほど低かった。
鉄之助の足が動いた。
志乃が袖をつかむ。
「駄目です」
「あれは」
「あの人を助けても、次の人が同じ値で売らされます」
「なら見ていろと言うのか」
志乃の手が震えた。
「見ます。見ないと、仕組みがわかりません」
「仕組みで子が救えるか」
「救えないこともあります」
志乃は苦しそうに言った。
「でも、仕組みを読まないと、誰が殺しているのかもわかりません」
りんが二人の間に入った。
「喧嘩はあと。まず蕎麦」
「今か」
「腹が減った顔で怒ると、刃物より怖い顔になる」
「もとから怖い」
「もっと怖い」
りんは近くの蕎麦屋台に三人を押し込んだ。屋台というより、板を渡しただけの立ち食いだ。店主は忙しそうに湯を切り、椀を並べている。酒をひっかける仲買人たちが、取引所の方を見ながら声を張っていた。
「明日からは、ここで値が立つ」
「人形町の両替商も、みんなこっちへ顔を出すらしい」
「渋沢さんだの、今村さんだの、偉い衆が作った市場だ。もう裏でこそこそやる時代じゃない」
「裏が表に出るだけだろう」
その最後の声だけ、妙にはっきりしていた。
鉄之助は振り向いた。
屋台の端に、男が座っていた。四十前後。着物は地味だが、羽織の裏だけが妙に高そうだった。髪はきちんと撫でつけ、指には金粉のような艶がある。商人に見えて、商人にしては周りの会話を聞きすぎていた。
男は蕎麦をすすり、椀を置いた。
「怒るなら、値に怒りなさい。金禄の門前値は今日で六十がらみ。人を怒鳴っても一銭も上がらん」
鉄之助は男を見た。
「誰に言っている」
「刀を持っていないふりが下手な人に」
りんが魚籠を胸へ寄せた。
志乃は顔を上げない。
男は笑った。
「安心しなさい。ここで騒ぐ気はない。明日までは、どの証書も値を失っていない」
「何者だ」
「今津清兵衛」
近くの仲買人が、声をひそめた。
「今津だ」
「公債の今津」
「あいつに値を聞くな。足元を見られる」
今津はその噂を聞いても、顔色を変えなかった。
「足元を見るのが相場師の仕事でね。歩き方を見れば、懐の証書がいま何枚か、だいたい当たる」
今津の前の蕎麦椀は、ほとんど空だった。
汁の底に葱だけが残っている。話しかけてきた時には、もう食い終えていたのだ。
鉄之助は蕎麦を食わずに言った。
「公債を買い叩く男か」
「買い叩く日もある。買い支える日もある。金禄百円の束が、朝は八十で動いて、夕には六十五で叩かれる。中身は同じ紙で、動くのは値段だけだ」
志乃の箸が止まった。
今津は志乃を見た。
「帳面を読むお嬢さん。今の言葉、写してもいいよ」
「結構です」
「そうか。では私が覚えておく」
りんが不機嫌に言った。
「うさんくさい」
「いい鼻だ。魚河岸の子か」
「魚はうさんくさくない」
「うさんくさい魚は売れないからね。うさんくさい証書は売れる」
今津は酒を一口飲んだ。
「明日、この取引所で最初に動くのは、会社の夢ではない。国の借りだ。中では公債に声がつく。外では金禄を抱えた士族が売り、両替商が買い、銀行が見る」
今津は空の蕎麦椀を指で叩いた。
「市場とは、困った人間が、困っていない人間に証書を渡す場所だ」
鉄之助の拳が固まる。
「それを知っていて、買うのか」
「もちろん」
「恥はないのか」
今津は蕎麦椀の底を見た。
「ある。恥では米が買えん。それだけの話だ」
鉄之助は立ち上がりかけた。
りんが足を踏んだ。
「痛い」
「蕎麦こぼす」
志乃は椀の汁を見たまま言った。
「今津さん。あなたは第零号公債を知っていますか」
屋台の音が、そこで遠のいた。
今津の目だけが、笑わなくなった。
「知らないと言ったら」
「嘘です」
「知っていると言ったら」
「危険です」
「では、ちょうどいい」
今津は懐から煙草入れを出したが、火をつけなかった。指先で何度も蓋を撫でる。
「第零号は、値をつけてはいけない証書だ」
鉄之助が言う。
「なぜ」
「値がつけば、場が存在を認める。そうなれば新公債にも金禄にも影が差す。どれが売れる紙で、どれが裏の束ね札か、買い手が疑い出す。疑いは、値より早く走る」
今津の指が、煙草入れの蓋の上で止まった。
「場が立たない朝を、一度だけ見たことがある。御一新の年だ。札差の店先で、値のつかん紙を握った男が、先に刀を抜いた。あれからは、値の立つ場だけを信じることにしている」
志乃の顔が白くなった。
「だから黒田さんは帳面を回収しようとしている」
「黒田?」
今津は初めて片眉を動かした。
「官の犬に追われているのか。なら、長くない」
りんが睨む。
「犬じゃない。もっと嫌なもの」
今津は答えず、視線を取引所へ戻した。
志乃は一呼吸置いてから聞いた。
「あなたも、信用を守る側ですか」
今津は鼻で笑った。
「国の信用など、役人に任せる。私は値を見る。値が立つ場が消えれば、善人も悪人も、同じ暗闇で証書を奪われる」
「ただ、動くのは黒田一人とは限らん。燃やしたい者も、偽りたい者も、売り抜けたい者もいる。困ったことに、その全員が正しい顔をしてここへ来る」
そのとき、志乃が魚籠から青柳の錦絵を半分だけ出した。
「この絵の人物配置を見てください」
「見ない」
「なぜ」
「見れば、値がつく」
「絵にもですか」
「つく。買い手が私なら、なおつく」
志乃は錦絵を籠へ戻し、指先で縁を二度なぞった。
鉄之助には、その会話の半分しかわからない。ただ、今津が第零号の危うさを知っていることだけはわかった。
りんが急に魚籠を抱え直した。
「あれ」
門の脇、人の波の向こうに、青柳屋へ毒を投げた男がいた。
細い手。黒い羽織。顔は笠の陰に隠れているが、歩き方に見覚えがある。
男は薬箱を持っていた。
箱の側面に、小田島と墨で荒く書かれている。良庵の薬箱というより、名だけを背負わされた箱に見えた。
「小田島」
鉄之助は立った。
今度は、りんも止めきれなかった。
男は取引所の裏手へ回る。門を避け、職人が出入りする木戸へ向かう。木戸の脇に、白い番傘を差した男が立っていた。青柳の新しい錦絵に描かれていたのと、同じ白い番傘だった。
志乃が息を呑む。
「罠の絵と同じです」
「追う」
鉄之助は走った。
腕の傷が裂ける。布が赤くなる。だが、足は止まらない。
男は振り向いた。目が合う。
恐れはなかった。
男は木戸の中へ消えた。白い番傘も、いつの間にか消えていた。
鉄之助が木戸へ手をかけた瞬間、横から杖が伸び、胸を押した。
今津だった。
「入るな」
「どけ」
「入れば、明日の朝には、お前が取引所を襲った士族になる」
「小夜の医者につながる男だ」
「だから罠だ」
今津の声は軽くなかった。
「ここは明日から市場になる。市場に最初に必要なのは、信用だ。開業前夜に血が流れれば、誰かが責任を取らねばならない。元士族、西南帰り、隠し刃、怪しい公債。お前ほど都合のいい責任はない」
鉄之助は杖を払いのけようとした。
志乃が追いつき、腕をつかんだ。
「鉄之助さん」
「小夜が」
「ここで捕まったら、小夜さんも第零号も終わります」
りんも息を切らして来た。
「鉄さん。今は駄目」
りんは木戸を振り返った。魚籠を抱える手に、先に力が入った。
「それより、番傘の男。足音がしなかった。人混みでも、足音は残るもんだ。あれは残らなかった」
木戸の内側から、人の声がした。笑い声。証書束を数える音。木箱を置く音。
その中に、小田島の薬箱を持った男がいる。小夜の薬と青柳の毒が、同じ木戸の内側にいた。
鉄之助は奥歯を噛みしめた。
今津は杖を下ろした。
「いい目だ。高く売れるうちは、しまっておきなさい」
「お前は何を知っている」
「値を知っている」
「武士の禄のか」
「そうだ」
今津は淡々と言った。
「明日、この街で、武士の禄の値段が決まる」
夜風が日本橋川から吹き上がった。
取引所の門の上で、新しい札が揺れている。
東京株式取引所。
その文字は、まだ誰の血も吸っていないように白かった。




