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12/16

市場が開く日

六月一日、東京株式取引所の門が開いても、小夜の一枚は中へ入れなかった。


立会場では、別の公債の名と数が飛び交っていた。書記が一つの値を読み上げるたび、次の声がそれを押し返す。買う、売る、何枚。見えない荷を、声だけで奪い合っている。


門外の貸席には、金禄公債を持つ者が並ばされていた。


売買はまだできない。赤石屋の手代は同じ文句を繰り返し、代わりに三十円の貸付を勧めていた。


鉄之助は油紙を懐へ押し込み、列の最後に立った。


りんは少し離れた魚桶の脇にいる。志乃は今津の机の横で、契約が一件終わるまで筆を出さなかった。


鉄之助の前には、幼い娘を連れた戸田孝作という男がいた。今津が借用証の名を読み、男が自分の名だと答えた。


戸田は七分利百円の証書を机へ出し、三十円を受け取った。赤石屋の手代は借用証へ戸田の指印を取る。次に原証書を受け取り、預り証の店控えを畳む。最後の白紙委任状には、持ち主の名だけを書かせ、日付と代理人を空けた。


娘が机の上の銀貨へ手を伸ばし、父親が慌てて引いた。


「薬種屋へ行く分だ」


三十円は、戸田親子の今日を変えた。赤石屋がいつか得るかもしれない差は、まだ机の上にはない。


今津は成立した紙を一枚ずつ読み、店控えと持ち主控えを分けた。戸田は自分の控えに二つの空欄も残っていることを確かめ、娘の手が届かない懐へ入れた。慈善とは言わず、正しい取引とも言わなかった。


戸田は娘の手を引き、受け取った銀貨を懐に薬種屋へ急いだ。


鉄之助の番が来た。


今津は貸席の竹簾を下ろした。次を待つ者の声は聞こえるが、机の紙と銀貨は外から見えない。


鉄之助は油紙を開き、原証書を自分の掌へ載せたまま、番号の行だけを手代へ向けた。


原証書の番号を見た手代の筆が止まった。


四六二八一。


「現物は、小宮家にあったのか」


五月十五日の仲買人と、同じ問いだった。


「今も小宮家の物だ」


鉄之助は番号を見せると、すぐ原証書を油紙へ戻し、紐を結んで懐へ入れた。


「なら、借主は小宮小夜」


「勝手に書くな」


手代は筆を止めた。鉄之助の名を借主へ入れることも拒んだ。


「持ち主が借りる。代理なら、持ち主の委任を先にもらう」


形だけを見れば、筋を通している。だが、その委任の代理人欄は空白のままだった。


今津が三十枚の銀貨を十枚ずつ分けた。


「ここまでが、今日渡る銭です」


次に算盤で八十二を置いた。


「こちらは見込です。九月九日に解禁され、百円券を八十二円で政府が買うことになり、その時まで証書が有効で、書類が通れば、初めてこの額になる」


三十と八十二を、同じ算盤の上へ置かない。今津は二つの数の間を空けた。


「差は五十二円だな」


鉄之助が言う。


「見込どおりなら。赤石屋は保管、争い、値外れの危険を引き受けた分だと主張します」


「戸田が薬種屋へ急ぐわけは、その危険に入らんのか」


今津は、戸田の空いた座を見て声を落とした。


「その危険を値へ入れる店は、最初から三十円を出しません」


赤石屋の手代が借用証を鉄之助へ向けた。


「持ち主の名を。今なら払う」


「本人は来ていない」


「代理欄へ相良さんの指を。小宮さんの名は、番号控えから移せる」


さきほど口にした筋を、手代自身が外した。持ち主の委任を先にもらうと言いながら、その委任をいま空白のまま作ろうとしている。


魚河岸の立替を返せる。今夜から先も、しばらく銭を置ける。鉄之助が自分の指を押せば済むなら、もう押していた。


小宮小夜と書かれた欄の横で、朱肉が待っている。


——私の名を書かない。


鉄之助は借用証を裏返した。


「その番号を見て、別の紙を出したな。そこも読む」


「店の物だ」


「俺の指を取る紙なら、番号が重なった理由を先に言え」


手代は紙束へ両手を置いた。


今津が算盤を伏せる。


「先約がある番号なら、私は取り次げません。番号、借主、代理受取だけ、ここで読んでください」


赤石屋の手代は今津を睨んだ。仲介人が判を置かなければ、三十円の貸付も成立した形にできない。


手代は番号控えを開き、該当する二行だけを机の中央へ向けた。


同じ証書番号があった。


四六二八一。


借主欄は小宮佐一。二月十二日。ここまでは五月十五日の秘密買付表と同じである。


その下の代理受取欄には、野添市助と書かれていた。


鉄之助が鹿児島で死を確かめた男だ。


「死者を代理にするのか」


手代が紙を引いた。


「古い書き損じだ」


「書き損じなら、なぜ内控が同じですか」


志乃の敬語が硬くなった。


「原証書を見ずに、番号と死者名を先へ入れた紙です」


手代は一行目を指で隠した。すぐ下にも同じ番号がある。


鉄之助は朱肉から指を離した。


「取引はしない」


「三十円が要らないのか」


「要る」


鉄之助は銀貨を見た。


「だが、俺が小夜の名を使って受け取る銭ではない」


手代は一枚も渡さず、紙束を抱えた。今津は銀貨を元の袋へ戻し、取引不成立と自分の控えへ書いた。


りんは鉄之助を褒めなかった。


「帰って、証書を数えるよ」


「一枚しかない」


「一枚だから数えるの」


本所へ戻るまで、油紙は鉄之助の懐にあった。小夜は紐、折り目、番号を確かめてから長持へ戻した。


「置きませんでしたね」


「置かなかった」


「置きたいと思いましたか」


「思った」


小夜はそれ以上、赦すとも責めるとも言わなかった。


志乃が貸席を出てから、今津が開かせた二行を記憶で写し、畳へ置いた。二行目にあった代理名だった。


小夜は兄の名控えを長持から出し、並べた。


野添市助の次に書かれていた死者。


片岡弥吉。


志乃の写しにも、同じ名があった。


「兄が売った、二人目です」


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