市場が開く日
六月一日、東京株式取引所の門が開いても、小夜の一枚は中へ入れなかった。
立会場では、別の公債の名と数が飛び交っていた。書記が一つの値を読み上げるたび、次の声がそれを押し返す。買う、売る、何枚。見えない荷を、声だけで奪い合っている。
門外の貸席には、金禄公債を持つ者が並ばされていた。
売買はまだできない。赤石屋の手代は同じ文句を繰り返し、代わりに三十円の貸付を勧めていた。
鉄之助は油紙を懐へ押し込み、列の最後に立った。
りんは少し離れた魚桶の脇にいる。志乃は今津の机の横で、契約が一件終わるまで筆を出さなかった。
鉄之助の前には、幼い娘を連れた戸田孝作という男がいた。今津が借用証の名を読み、男が自分の名だと答えた。
戸田は七分利百円の証書を机へ出し、三十円を受け取った。赤石屋の手代は借用証へ戸田の指印を取る。次に原証書を受け取り、預り証の店控えを畳む。最後の白紙委任状には、持ち主の名だけを書かせ、日付と代理人を空けた。
娘が机の上の銀貨へ手を伸ばし、父親が慌てて引いた。
「薬種屋へ行く分だ」
三十円は、戸田親子の今日を変えた。赤石屋がいつか得るかもしれない差は、まだ机の上にはない。
今津は成立した紙を一枚ずつ読み、店控えと持ち主控えを分けた。戸田は自分の控えに二つの空欄も残っていることを確かめ、娘の手が届かない懐へ入れた。慈善とは言わず、正しい取引とも言わなかった。
戸田は娘の手を引き、受け取った銀貨を懐に薬種屋へ急いだ。
鉄之助の番が来た。
今津は貸席の竹簾を下ろした。次を待つ者の声は聞こえるが、机の紙と銀貨は外から見えない。
鉄之助は油紙を開き、原証書を自分の掌へ載せたまま、番号の行だけを手代へ向けた。
原証書の番号を見た手代の筆が止まった。
四六二八一。
「現物は、小宮家にあったのか」
五月十五日の仲買人と、同じ問いだった。
「今も小宮家の物だ」
鉄之助は番号を見せると、すぐ原証書を油紙へ戻し、紐を結んで懐へ入れた。
「なら、借主は小宮小夜」
「勝手に書くな」
手代は筆を止めた。鉄之助の名を借主へ入れることも拒んだ。
「持ち主が借りる。代理なら、持ち主の委任を先にもらう」
形だけを見れば、筋を通している。だが、その委任の代理人欄は空白のままだった。
今津が三十枚の銀貨を十枚ずつ分けた。
「ここまでが、今日渡る銭です」
次に算盤で八十二を置いた。
「こちらは見込です。九月九日に解禁され、百円券を八十二円で政府が買うことになり、その時まで証書が有効で、書類が通れば、初めてこの額になる」
三十と八十二を、同じ算盤の上へ置かない。今津は二つの数の間を空けた。
「差は五十二円だな」
鉄之助が言う。
「見込どおりなら。赤石屋は保管、争い、値外れの危険を引き受けた分だと主張します」
「戸田が薬種屋へ急ぐわけは、その危険に入らんのか」
今津は、戸田の空いた座を見て声を落とした。
「その危険を値へ入れる店は、最初から三十円を出しません」
赤石屋の手代が借用証を鉄之助へ向けた。
「持ち主の名を。今なら払う」
「本人は来ていない」
「代理欄へ相良さんの指を。小宮さんの名は、番号控えから移せる」
さきほど口にした筋を、手代自身が外した。持ち主の委任を先にもらうと言いながら、その委任をいま空白のまま作ろうとしている。
魚河岸の立替を返せる。今夜から先も、しばらく銭を置ける。鉄之助が自分の指を押せば済むなら、もう押していた。
小宮小夜と書かれた欄の横で、朱肉が待っている。
——私の名を書かない。
鉄之助は借用証を裏返した。
「その番号を見て、別の紙を出したな。そこも読む」
「店の物だ」
「俺の指を取る紙なら、番号が重なった理由を先に言え」
手代は紙束へ両手を置いた。
今津が算盤を伏せる。
「先約がある番号なら、私は取り次げません。番号、借主、代理受取だけ、ここで読んでください」
赤石屋の手代は今津を睨んだ。仲介人が判を置かなければ、三十円の貸付も成立した形にできない。
手代は番号控えを開き、該当する二行だけを机の中央へ向けた。
同じ証書番号があった。
四六二八一。
借主欄は小宮佐一。二月十二日。ここまでは五月十五日の秘密買付表と同じである。
その下の代理受取欄には、野添市助と書かれていた。
鉄之助が鹿児島で死を確かめた男だ。
「死者を代理にするのか」
手代が紙を引いた。
「古い書き損じだ」
「書き損じなら、なぜ内控が同じですか」
志乃の敬語が硬くなった。
「原証書を見ずに、番号と死者名を先へ入れた紙です」
手代は一行目を指で隠した。すぐ下にも同じ番号がある。
鉄之助は朱肉から指を離した。
「取引はしない」
「三十円が要らないのか」
「要る」
鉄之助は銀貨を見た。
「だが、俺が小夜の名を使って受け取る銭ではない」
手代は一枚も渡さず、紙束を抱えた。今津は銀貨を元の袋へ戻し、取引不成立と自分の控えへ書いた。
りんは鉄之助を褒めなかった。
「帰って、証書を数えるよ」
「一枚しかない」
「一枚だから数えるの」
本所へ戻るまで、油紙は鉄之助の懐にあった。小夜は紐、折り目、番号を確かめてから長持へ戻した。
「置きませんでしたね」
「置かなかった」
「置きたいと思いましたか」
「思った」
小夜はそれ以上、赦すとも責めるとも言わなかった。
志乃が貸席を出てから、今津が開かせた二行を記憶で写し、畳へ置いた。二行目にあった代理名だった。
小夜は兄の名控えを長持から出し、並べた。
野添市助の次に書かれていた死者。
片岡弥吉。
志乃の写しにも、同じ名があった。
「兄が売った、二人目です」




