正しい怒り
六月二日の朝、新吉は薬の受渡札を帯へ入れたまま、鉄之助に腕を取られた。
青柳の工房を出たところだった。
「放せよ」
新吉は振りほどこうとした。墨の乾いていない指が鉄之助の袖へ五本つく。
「片岡弥吉と書いたのはお前か」
「誰だ、それ」
「小宮家の証書番号を、その名へつけた」
「知らない」
返事は早かった。鉄之助には、早すぎるように聞こえた。
昨夕、志乃が写した代理名の「片」は、青柳の工房で見た荷札の手本と同じ払いだった。内控の数字も、昨日の契約束だけわずかに細い。鉄之助は新吉が魚荷札へ数字を書く手を見ている。
新吉は帯の紙を守ろうと身体をひねった。
「それを見せろ」
「小夜さんの受渡札だ。昼までに薬問屋へ入れる。姉さんから頼まれた」
りんが河岸の荷を片づけている朝だけ、新吉が弁蔵の使いを請けていた。札を届け、薬包を受け取る者へ控えを戻す。先週も同じ道を歩いたという。
「だから見せろ」
「俺の仕事まで取るのか」
鉄之助は帯から札を抜いた。
そこにも、片岡の代理名と似た数字がある。
「同じ手だ」
「親方の手本を写した。工房の字だ」
「書いたことは認めるんだな」
「その札はな」
「相良さん、離してください」
志乃が工房から出てきた。
新吉の受渡札と、自分の写しを見比べる。すぐには同じとも違うとも言わなかった。
「払う所は似ています。ただし、工房では同じ手本を使います」
「本人がいま書いた」
「いま書いた物だから、昨日の紙も本人が書いたとは決まりません」
鉄之助は新吉の腕を離さなかった。
小宮の名控えを売った相手に近づいた。ここで手を緩めれば、また原表のように官の封へ入る。
鉄之助は夜明け前、黒田へ使いを出していた。昨日見た代理名の筆を、青柳工房で確かめると伝えた。返事を待たず新吉を押さえたが、黒田はその使いを受けて来た。
通りの向こうに黒田半蔵がいた。
東京警視本署の官吏を一人連れている。
黒田は三人の前へ来ると、最初に懐中時計を見た。
「午前八時二十二分。相良が少年の右腕を押さえている。紙は二枚か」
「こいつが偽の名を書いた」
鉄之助は志乃の写しを示した。
新吉が叫ぶ。
「書いてない」
黒田は声を上げなかった。
「新吉。昼までに運ぶ物は」
「小宮小夜さんの受渡札」
「それ以外に持っている紙は」
「魚荷札が四枚。親方の使いの注文書が一枚」
黒田は官吏に持ち物を書かせ、鉄之助の手から受渡札を取った。
「工房で、いつから白紙委任状を写した」
「俺は写してない。預り証の手本を二枚、親方に言われてなぞっただけだ」
「似た払いだけでは筆者と決めない。だが、手本を写した本人として、持ち物と原物の出所を確かめる」
黒田は新吉の腕ではなく、官吏が書いた持ち物控えを指した。
「東京警視本署へ連れていく。相良、その手を離せ」
「待て」
りんが河岸の方から走ってきた。
息を整える前に、新吉と受渡札を見た。
「その札、今日の小夜ちゃんの分」
「こちらで預かる」
黒田が言う。
「控えを返せば、問屋の受渡しは続く」
「返すのはいつ」
「照合が終わった時だ」
りんは鉄之助を見た。
「あんたが呼んだの」
「使いを出した」
「でも、渡した」
黒田は新吉を歩かせた。新吉は一度も鉄之助を振り返らなかった。墨のついた袖だけが、人混みの中へ消えた。
昼を過ぎても、受渡札は薬問屋へ届かなかった。
鉄之助たちが本所の長屋へ着くと、障子は開いたままだった。小夜の草履がない。枕元には朝の空包と、前週の受取書だけが残っている。
長屋の女が、橋の方へ歩いていったと教えた。
「止めなかったのか」
「自分の薬を受け取りに行く人を、どうして止めるんだい」
鉄之助は走った。
薬問屋までの道は、小夜の脚なら遠い。橋の手前で休んだ跡を、りんが見つけた。井戸端の石へ、前週の受取書と同じ紙の角がこすれている。小夜はそこで座り、また立った。
問屋へ着いた時、小夜は帳場の前にいた。
背を曲げずに立とうとして、片手だけを板へついている。主人へ、前週の受取書を差し出していた。
「先週、運んだ人の字です。新吉さん本人が、受け取った時刻と自分の名を書きました」
主人は受取書を開いた。
「今日の札がない」
「札を運ぶ人が連れていかれました。私の受渡しと、その人が別の紙を書いた疑いは、分けてください」
短く話すたび、呼吸を置く。それでも、主人が理解したふりで先へ進むことを許さなかった。
志乃が追いつき、前週の署名と片岡の代理名を並べた。
「新吉さん本人の署名は、最後の縦画が左へ寄ります。代理名は右へ抜けています」
志乃は自分の帳面を開いた。
二月に父から清書を頼まれた日付。青柳の手本を新吉がなぞった受渡札。代理名の「片」は青柳の手本と同じ入りで、細い内控数字は志乃が清書した日付と同じ払いだった。
工房で同じ手本をなぞれば、誰の紙にも二人の癖が移る。昨日の一行だけを書いた手を、そこから一人に決めることはできない。
「私の数字と、青柳さんの手本を、新吉さん一人の字だと思いました」
志乃は主人へ向き直った。
「私も、順を逆に見ました」
鉄之助が新吉を捕らえた時、志乃は断定を止めた。止めただけで、黒田の前では鉄之助の誤りを覆せなかった。
主人は弁蔵の帳面と前週の受取書を照合し、小夜本人に今日の受取欄へ署名させた。同じ療養立替から、薬包が出る。受渡札を一枚失っただけで、借りの口まで新しくはしなかった。
小夜が筆を置いた直後、咳が続いた。
袖を口へ当てる。離した布に、赤い点が二つあった。
鉄之助が抱えようとすると、小夜は先に受取書を主人へ戻した。
「控えを、ください」
主人が写しを渡すまで、店を出なかった。
「なぜ一人で来た」
鉄之助が問うと、小夜は受取書を懐へ入れた。
「待っていれば、新吉さんが止めたことになります」
「俺が止めた」
「では、謝る相手を間違えないでください」
りんは小夜の反対側へ回り、肩を貸した。鉄之助の側は空いたままだった。
青柳が店先に現れたのは、その時だった。
髪に紙屑をつけ、工房から走ってきたらしい。志乃へ頭を下げた。
「代理名の並びを持ってきたのは、新吉じゃない」
青柳は、紙の乾き具合を確かめるように言葉を切った。
「辰野源吾さんだ。あんたの親父さんだよ」




