焼けた控え
格子越しに、青柳が新吉の名のある稽古控えを火鉢へ入れるのが見えた。
六月三日の朝だった。鉄之助が戸へ手を掛けた時には、火鉢の中で紙の端が丸まっていた。
「何をしている」
戸を引くと、青柳が身体で塞いだ。
「帰れ」
「源吾の紙を見せろ」
「見せたら、新吉が書いたことにされる」
青柳は次の一枚を火へ入れた。燃やしているのは、新吉が手本をなぞった稽古控えだった。黒田へ渡すと約束した原物の三綴りには触れていない。
弟子がなぞった手本、師匠が受けた注文、注文主が持ち込んだ原稿。同じ棚へ置けば、外から来た者には全部が工房の字に見える。鉄之助が昨日、その見方をした。
「燃やせば、新吉が戻るのか」
青柳の手が止まった。
「黒田に原物の在処を言った」
「なぜ」
「あの人は、出せば新吉を返すと言った」
火鉢の灰から小さな火が上がり、吊ってあった薄紙へ移った。
青柳が振り返る。濡らす前の紙は、声より速く燃えた。
鉄之助は戸を蹴り開け、青柳を外へ押した。火は乾燥棚の下を走り、糊の桶へ落ちる。糊は燃えないが、桶の脇に積まれた端紙が赤くなる。
「志乃、表の帳面を持て。りん、水だ」
「命令しないで」
りんは言い返しながら、隣家の井戸へ走った。
志乃は棚へ手を伸ばした。青柳が薄板の箱を指す。
「預り証と、委任の控えはそこだ。上の三綴り」
「四つあります」
「薄い一枚は別だ」
鉄之助が箱を抱えた。火のついた紙が肩へ落ち、袖を払う。
出口まで三歩の所で、青柳が煙の中へ戻った。
「新吉の署名がある」
最初に一人で任された魚荷札を、壁の木枠から外そうとしている。弟子の名を守ると言って、弟子が自分で書いた一枚まで焼かせまいとしていた。
梁から焦げた紙束が落ち、青柳の背へ当たった。青柳は膝をつく。
箱を持ったままでは起こせない。
鉄之助は床へ箱を置き、青柳の襟と腕をつかんだ。右膝が沈む。木枠を抱えた青柳ごと戸口へ引きずり出す。
戻った時、箱の片側へ火が移っていた。
志乃が上の三綴りを抜き、薄い一枚を袖へ挟む。鉄之助は残る箱を蹴って火鉢から離した。下半分の紙は黒く貼りつき、字を開けない。
りんと近所の者が水を運んだ。
水をかければ墨も流れる。青柳は燃えている棚と、まだ乾いていない官仕事の見本を見比べた。
「右だ。左は捨てろ」
りんは右の棚へ水を浴びせた。
左にあった赤石屋の控えが、火の中で折れた。青柳自身が選んだ。全部を守ったふりはしなかった。
火が屋根へ届く前に、炎は落ちた。
工房の前には、濡れた紙と煤が積もった。青柳は近所の軒下へ座らされても、焼けた指を水桶へ入れず、助かった三綴りを数えていた。
「新吉は」
鉄之助が問う。
「まだ東京警視本署だ」
「黒田へ渡す前に、源吾の注文を見せろ」
志乃が薄い一枚を開いた。
父の名はない。注文主の文言を整えた者として、周防主計と書かれている。余白には、青柳が役所で文言の直しを受け取った日が四つ並んでいた。五月九日、十四日、二十一日、二十八日。
借主名を空ける。証書番号、内控、日付の位置を揃える。代理人名は別紙から写す。
費用の支払欄には、赤石屋の内控と「横浜洋銀」の四字があった。
志乃は紙を持つ指を変えた。
「父は、この指示どおりに名を並べました」
志乃は四つの日と指示の要点を、自分の帳面へ写した。
青柳がうなずく。
「源吾さんが、代理名を並べた原稿を持ってきた。二月十二日の数字だけは、あんたが清書した紙だった。俺が預り証の手本へ移した。新吉がなぞった二枚には、借主も代理名も入っていない」
鉄之助が一人を捕らえた線は、四人の手を通っていた。
約束の六時に馬の足音が止まり、黒田半蔵が官吏二人と来た。
黒田は工房の前で負傷者と出入口を確かめ、火元と焼失範囲を官吏へ書かせる。
「延焼なし。原物は」
青柳は濡れた三綴りを差し出した。
黒田は昨日預かった受渡札を文箱から出し、三綴りのうち読める行と並べた。似ているのは手本の入りと数字だけで、新吉本人の署名にある左へ寄る終画は、代理名の行にない。青柳に、借主と代理名を入れた原稿の持込人をもう一度言わせ、官吏が源吾の名を書いた。
「これで新吉を返せ」
「照合した。戻す」
黒田は道の向こうを見た。
新吉が官吏に付き添われて立っていた。帯も筆差しも返され、小夜の受渡札を自分で持っている。
鉄之助が近づくと、新吉は煤のついた工房を先に見た。
「俺の字に、触るな」
「すまなかった」
「それで昨日の俺が消えるのか」
新吉は青柳のいる軒下へ走った。りんもそちらへ行き、鉄之助には声をかけなかった。
青柳は木枠から外した魚荷札を注文控の綴りへ添え、別の細紐で留めた。黒田は三綴りを厚紙で包んだ。紐を縦横に掛け、結び目へ官の印を押す。焼けた端が乾かないため、別の薄紙を当てた。
「青柳。受取書を読む」
官吏が品名を書いた。
預り証控、一綴り。
白紙委任状控、一綴り。
注文控(新吉自筆魚荷札一枚添付)、一綴り。
青柳工房。六月三日、午前六時十八分。焼損あり。
黒田が名を書き、青柳へ渡した。
志乃が薄い一枚を差し出す。
「これも原物です」
周防の名がある紙だった。
黒田は内容を読み、三綴りとは別に持った。
「受取書へ加えてください」
「こちらで照合する」
「品名と一枚を、加えてください」
黒田は答えず、その紙を折らずに文箱へ入れた。三綴りを封じた包みとは別だった。
受取書は書き直されない。
青柳が読んだ三点に、周防主計の一枚だけが入っていなかった。




