市場は開く
仮名垣迅平は、最初の一行を組む前に、紙代と植字工の賃を別の封へ入れた。
八月三十一日の組版所には、小夜と青柳だけを呼んだ。
次の号が止まっても、刷る前に働いた者の取り分までは止めない。迅平は封の表へ自分の名を書き、版元の机へ置いた。
そのあとで、売れる方の紙束を見た。
失われた個人名簿を埋めるほどの名はない。
迅平は、残った名を仮の活字で一度並べた。本人の紙まで戻れない名を指で外すたび、組版台へ白い隙間が増えた。
以前なら、隙間へ「全貌」「巨悪」「官の闇」と入れた。
今朝は三つとも活字箱へ戻した。
机に置けたのは、小夜が兄の加害まで囲った書付と、手から離さない巳代次の私信。青柳が自分の運んだ範囲だけを書いた紙。それに、戸田と新吉が自分で線を引いて送った二枚だった。
戸田は百円券を預けて三十円を受けた取引を選び、新吉は師匠の手本から実際に写した所までを選んだ。二人の線は、迅平の見出しのために引かれたのではない。
線の外にも字はある。迅平には読めた。読めることと、刷れることを同じにすれば、六月と何も変わらない。
小夜は自分の書付へ掌を置き、青柳は自分の副控を手から離さない。迅平は二人の手の外へ活字を置かなかった。
「官の受取は」
迅平が問うと、青柳は自分の副控を掌へ置いたまま見せた。
「俺の名がある所だけだ。控を記事の飾りにするな」
「官の封があると書けば、記事が強くなる」
「俺が知っているのは、自分が出した文と、受けた控だけだ」
青柳は言葉を足さなかった。
本署からも裁判所からも、事件を教える紙は来ていない。迅平が官の紙で読めるのは、誰でも見られる公債公示と市場の値だけだった。
「失った名を、一人も出さないのですか」
小夜が聞いた。
「出せば売れる」
迅平は版面の広い空欄を叩いた。
「だが、本人の紙がない名は、おれがまた名乗ることになる」
六月、迅平は「主計の下で帳面を扱った者」と急いで刷り、倉田徳次を借間から追い出した。名を書かなかったから傷つけなかった、とはもう言えない。
旧記事の訂正を、同じ号の上段へ入れた。
紙を運んだ者、文を直した者、金を受けた者を分けず、無実の帳簿係へ疑いを向けた。裏づける原物なしに急いだのは仮名垣迅平である。
最後へ本名を書いた。
訂正を上段へ入れると、事件の見出しは二段から一段へ落ちた。
迅平は「死者百名の大陰謀」と組みかけた活字を崩した。百という数は、失った葉からは出せない。代わりに「本人の紙が残した一件」と置く。
売れ行きが落ちる、と自分で思った。
おれの誤りで空いた家賃は、見出しを大きくしても埋まらない、と書きかけた。その文も、立派に聞こえた分だけ削った。
残したのは、何を誤り、誰へ訂正するかだけだった。
小宮家の一件は、戸田の三枚で金の流れを一つだけ出す。
百円券を預け、戸田本人が受けたのは三十円。委任紙の日付と代理人は空き、九月九日後の買上げ見込は八十二円ほどだった。
迅平は「五十二円の差益」と組みかけ、五と十と二を箱へ戻した。八月三十一日には、まだ一銭も成立していない。売れる数字を未来から借りれば、また他人の暮らしを見出しへ先売りする。
ほかの家を、戸田と同じ選択をした者にはしなかった。
森巳代次の私信について、小夜が原物を開いた。
二行だけだった。
——小宮佐一が泳げないと知りながら、私は重し縄を残し、切れる時に切らなかった。
——この一行だけは、あなたが伏せないと選んでも、私は異議を言わない。
末尾に森巳代次の実名がある。
「一行目を載せます」
小夜が言った。
「二行目も、出所を示すために必要です。巳代次さんが許したことと、私が載せると決めたことを一つにしないでください」
迅平は二人の選択を一つの文へ押し込まなかった。巳代次が一行の開示を許したことを書き、その次の文で、小夜が掲載を決めたと組んだ。
周防と赤石屋の名を拾いかけた指は、活字箱の上で止まった。二人から、紙面へ出せる本人の紙は来ていない。迅平は町で膨らんだ噂を足さず、その分の空所を残した。
青柳は版面を最後まで読んだ。
「これを出せば、官の印刷仕事は来なくなる」
「外すか」
「俺の運んだ所は外すな」
青柳は、自分の書付の末尾へもう一度名を書いた。
九月二日、月曜の朝、号外は魚河岸と兜町へ出た。
昼前、青柳が組版所へ戻った。工房へ回るはずだった官用紙の注文包みを抱えている。封は開かれず、表の青柳宛てに取り消しの線が引かれていた。
「新吉へ渡す紙が、また減る」
迅平が版面の青柳の行へ手を掛けた。
「今なら、次の刷りから外せる」
「減ったままで刷れ」
青柳は注文包みを脇へ置き、自分の活字が紙に残るのを見た。
東京株式取引所の立会には、売買できる新公債の現物が一枚出た。今津清兵衛が扇を開き、値を一度だけ呼んだ。
誰も受けなかった。
前なら、幅を変え、相手の腹を読み、二声目を出した。今津は出さず、扇を閉じて場を下りた。
その日の午後、内務省警視局名の書付が版元へ来た。迅平が以前使った匿名記事の出所を確かめるまで、次の号を留めるという。
別の使いが、東京警視本署から迅平本人への出頭書を持ってきた。
「泊まりか」
迅平が聞く。
「書付にはない。本人が来いとある」
迅平は縄を掛けられず、監視もつかず、自分の足で出た。版元の机には、紙代と植字工賃の封が残っている。
市場は開いていた。
それでも金禄公債の売買はまだ禁じられ、小夜の四六二八一は長持の底から動かなかった。




