斬らない刃
八月二十七日の朝、鉄之助は門番に求められる前に竹筒を開けた。
刃を鞘ごと抜き、柄を自分へ向けず受取台へ横たえる。
鞘が木へ触れ、乾いた音を一つ立てた。竹筒は急に軽くなったのに、鉄之助の右腕だけがしばらく同じ重さを覚えていた。
「事件の記録が渡り終わるまで、ここへ置く」
門番は刃の外形と鉄之助の名を書き、受取札を一枚返した。
鉄之助は札を懐へ入れた。右脚には添木があり、門から受取室まで官吏の肩を借りた。刀を取りに戻るなら、同じ肩をもう一度借りなければならない。
受取室には二人の受取掛がいた。
一人が保管庫の鍵を机へ置いた。二本目を待つあいだ、誰も第四号の用紙へ先の字を書かなかった。
廊下の向こうから夜番が来た。
夜を保管庫の外で過ごした男は、自分の帯へ結んだ鍵を外した。紐には一晩締めた曲がりが残り、受取掛の鍵とは歯の形が違った。
受取掛二人と夜番が保管庫へ入った。鉄之助は受取室に残り、扉の向こうで鍵が一つずつ回る音を聞いた。
三人は、二十四日から変わらない扉の封を見た。受取掛の一人が第一鍵を使い、夜番が第二鍵を使う。もう一人の受取掛が二人の手元を見届けて第四号の外包を出し、破れと焼け端を以前の控へ合わせた。
受取掛二人と夜番は、封印、二本の鍵、開披時刻を互いに確かめ、その欄へそれぞれ名を書いた。三人が書き終えるまで、包みは閉じたままだった。
夜番は二つ目の鍵を持って部屋を出た。
第四号を開いたのは、受取掛二人だけだった。
油紙を外すと、青柳が直した横と縦の折り、焼けた外端、本文の端へ寄った濃さの違う墨が現れた。受取掛は紙を開いた順のまま置き、あとから足された墨を本文の続きにはしなかった。
鉄之助と巳代次が入ったのは、そのあとだった。
巳代次は官吏に挟まれ、鉄之助とは別の壁際へ座る。
本文には、小宮家の原証書を回収し、小宮の帰着を明朝の名簿へ載せるな、橋から先へ戻すな、とあった。
筆の運びと紙は、官封にある周防の注文指示と近い所がある。違う所もあった。受取掛は、似ている、を、同じ人物が書いた、へ直さなかった。
余白の墨は本文より乾きが早く、筆圧も違う。青柳がつけ直した折り目は、乾いた余白の墨の上を擦っていた。赤石屋の一月十七日当日帳に近い字形はある。だが、書く手を見た者はいない。
「お前が受けた時、余白はあったか」
巳代次は半拍置いた。
「あった」
「誰が書いた」
「見ていない」
「その夜、誰と話した」
「赤石屋の裏で、藤兵衛さんと二人です」
巳代次は、重し縄を残せ、切る時を待てと口で言われ、周防の文は小宮を死人のままにする意味だと聞かされた、と述べた。
受取掛は、赤石屋が面会もその言葉も否んでいることを巳代次へ告げた。
「お前がしたことは」
受取掛は、今度は巳代次へ顔を向けた。
巳代次は竹筒の方を見なかった。
「小宮さんが泳げないと知っていた。腰から脇へ重し縄を回した。切れる時に、切らなかった」
縄の結び、掌の傷、海運橋で上がった身体の痕は、巳代次の行為を支えても、命じた者の名までは運ばなかった。
巳代次は自分の行為だけを読み、名を書いた。
鉄之助の指が、空の竹筒を一度つかんだ。
門の受取台までは、中庭を挟んで見えた。取りに立てば、官吏の肩を借りても間に合う距離だった。巳代次の署名が乾くまで、鉄之助は椅子の横木から手を離さなかった。
官側の供述を終えると、巳代次は中庭の机でもう一枚の紙を求めた。
小夜へ宛て、二行を書き、実名を入れた。二行目の前で筆は一度止まった。許しを求める文を足す余白はあった。巳代次は墨を足さず、実名を書いて紙を閉じた。
自分で折り、自分で封をする。受取掛は中身を読まず、宛名と封じた時刻だけを見た。
「届けてくれ」
巳代次は鉄之助へ言った。
「読んでよいのか」
「小夜さんに決めてもらう」
鉄之助は封を開かず、懐の刃があった場所と反対へ入れた。
鉄之助は小宮の全文写しを机へ出した。
二人の死者情報を売った行も、赤石屋から前金を得た行も残っている。鉄之助は小夜と自分の名を見届け、友の写しから手を離した。
周防が私信を見たのは、そのあと、鉄之助のいない部屋だった。
戻った署名回答で、周防は、紙質と筆の運びが自分の仕事文書に近いことを認めた。ただし帰着を名簿へ載せる権限は自分になく、「橋から先へ戻すな」を殺害の意味で書いたとも認めなかった。
赤石屋は顔を合わせないまま、余白を書いたことも、巳代次へ重し縄の話をしたことも否んだ。
鉄之助が受取室で待つあいだ、二人の声は聞こえなかった。届いたのは、それぞれが自分の名を書いた答えだけだった。
午前の鐘が一つ進んだころ、巳代次の身柄が東京裁判所側へ渡された。
受取は九時十分。巳代次だけを載せた車が、中庭を出た。
車へ乗る前、巳代次は右の掌を一度開いた。縄を締めた古傷に、今朝の署名でついた墨が残っている。鉄之助が最初に疑った手と、自分の行為を書いた手は同じだった。
巳代次は母の薬代を頼まなかった。この中庭で、頼める者の名を一人も口にしなかった。
赤石屋は十一時四十分に出た。車へ上がる前、昨日まで鍵を下げていた腰へ手をやり、空いた紐を袖の内へ押し込んだ。
周防の車は二時二十分だった。三人は待つ部屋も車も共にせず、互いの答えを聞かないまま門を越えた。
三台を見送るあいだ、鉄之助の右膝は添木の中で熱を持った。斬りに立たないまま耐えた痛みは、周防の車が門を越えても消えなかった。
黒田は車にいなかった。自分の申告を読まれる側として、本署に残った。
三時十分、第四号の私信原物と、その日に各人が署名した供述が東京裁判所側へ渡った。添えられたのは受取控と署名写しだけである。残存原簿、送金控、口銭控、既存の官封、黒田の自己申告は、元の保管庫から動かなかった。
夕方、鉄之助は、巳代次が小夜宛てに封じた手紙を本所の長屋で小夜へ手渡した。
「俺が確かめたのは、森巳代次が自分で書き、自分で封じたことだけだ」
「途中で開けましたか」
「開けていない」
「では、相良さまは外へ出てください」
小夜はりんを一人だけ残した。
「これを仮名垣さんへ見せるかも、私が決めます」
鉄之助は敷居を越えた。障子が閉まるまで待たず、荷車へ戻った。
魚河岸まで、りんが引くという。鉄之助が乗ると、りんは懐から刃の受取札を出せと言った。
「なぜ」
「取りに戻らないよう、私が持つ」
鉄之助は札を渡した。
「事件が終わるまでだ」
「いつ終わるかは、あんた一人で決めないで」
りんは受取札を前掛けの内へ入れた。斬らずに戻ったことを褒めず、預かる期限だけを変えた。
鉄之助は荷車の横木を握った。
りんが歩き出す。
二人の間に刃はなく、車輪は同じ魚河岸へ向かった。




