赤い金
小宮佐一の字を写す朝、鉄之助は二本目の筆を小夜に断られた。
八月二十六日。本所の長屋には、東京警視本署の官吏が二人来ていた。二人は長持へ手を入れず、小夜が自分で出す原物だけを机の上で見た。
兄の帰京手紙。六月に上下を合わせた全文手紙。周防主計の見舞い状。開けたあとも使わずに戻した銀の包み。
「筆を二本にすれば早い」
鉄之助が言うと、小夜は首を振った。
「兄の手紙を分けて写さないでください」
一人の手で、最初から最後まで。小宮に有利な行も、不利な行も同じ濃さで。小夜はその条件を官吏にも言い直させた。
鉄之助は机の横へ脚を伸ばして座った。添木のため正座はできない。りんが荷車から下ろした低い台へ紙を置き、筆を取る。
雨戸の銭を酒にしたことから写した。
小宮の原文は、妹へ冗談を書く所だけ行が右へ上がった。鉄之助の写しは、気を抜くと右へ下がる。戦場の糧食簿でも、小宮は鉄之助の曲がった字を見て、米まで坂を転げるぞと笑った。
その声を思い出す行ほど、筆は軽く進んだ。
薬代が要った。死んだ者の名を二人ぶん渡した。死者なら、残る家を困らせないと思った。
そこで筆が止まった。
小宮は戦場で、鉄之助の嘘の名簿を黙って見た。次からは俺の名を使え、と言った。その友が、妹の薬代のために別の二人の名を売った。
鉄之助が「二人ぶん」の上へ吸い紙を置こうとすると、小夜が手を出した。
「墨は垂れていません」
「少し休む」
「休むなら、筆を紙から離してください」
鉄之助は筆を上げた。消さなかった。
水を一口飲み、次の行へ移る。
筆へ墨を含ませすぎ、次の一字だけが濃くなった。鉄之助は前の行へ戻らず、その濃さのまま書いた。小夜は兄の原文と見比べ、息が続く間に一行ずつうなずいた。
咳が出ると、原物を先に伏せた。鉄之助の写しではなく、兄の紙へ飛沫が落ちないようにする手だった。
小宮は、自分の証書番号を秘密買付の一行へ混ぜた。現物は小夜が持っている。同じ番号が二つあれば、どちらかが嘘になる。周防主計から名簿を整える仕事を受け、赤石屋から前金を取った。周防は余計な一行を戻せと言った。戻らなければ事故と呼ぶな。ただし、橋へ誰が来るかは本人にも分からない。
最後の、漬物の塩を減らせ、まで写した。
右手の中指に、筆胼胝が潰れて墨が入った。鉄之助が指を布へ隠すと、小夜は原物から顔を上げた。
「兄は、その指より字が上手でした」
「知っている」
「ですから、似せなくてよいです。相良さまが全部を写したと分かる字にしてください」
鉄之助は曲がった最終行を書き直さなかった。
小夜は原物と写しを一行ずつ追った。各頁の末尾へ小宮小夜と書き、鉄之助も写し手として名を入れる。官吏二人は、原物と照らした時刻だけを控えた。
原物の最後の頁を長持へ戻す時、小夜は兄の手紙より先に鉄之助の曲がった写しを見た。二人ぶん、と濃くなった一字も、そのまま乾いていた。
周防の見舞い状は、官吏が写しを取り、その場で小夜へ返した。小夜は折り目を合わせ、兄の手紙とは違う紐で結んだ。
銀の包みは手つかずのまま、小夜が自分で長持へ戻した。助けを受けた物も、兄が書いた物も、官吏に預けて帰らせはしなかった。
「助けていただいたことも、書いてください」
小夜が言った。
「薬問屋の猶予と、長持を戻したことです」
「兄の名を売った話のあとへですか」
官吏が問う。
「どちらも、私が受けたことです。兄のことのあとへ続けてください」
周防が助けた二つを消せば、責めるためだけの紙になる。兄が二人の名を売ったことを消せば、友を守るためだけの紙になる。小夜は助けられたことも、兄が傷つけた人も順に読み返し、小宮小夜と署名した。
午後、鉄之助は荷車で東京警視本署へ入った。
巳代次は別の待機室にいる。顔を合わせる道も塞がれていた。
周防の前へ届いたのは、小夜が自分で署名した言葉と見舞い状の写し、それに未開封の第四号が一包みあるという事実までだった。青柳は一月十七日に巳代次へ紙を運んだと述べている。だが、包みの内側には、まだ誰の答えも届かない。
周防は紙へ目を通した。
名を呼ぶ時は、相良とも小宮とも間違えなかった。薬問屋で初めて会った日と同じだった。その丁寧さを見ていると、竹筒の中の刃より、鉄之助の膝の痛みの方が先に戻った。
「見舞い状は一月十七日の前に、小宮小夜さんの療養へ使う物として手配しました。返しを求める文言は入れていません。六月に薬問屋へ猶予を頼んだ時も、長持を戻した時も、見返りは求めていません」
「似た紙の私信は」
受取掛が聞く。
「紙と運搬先だけで、私が書いた物とは認めません」
「開かれた後は」
「本文を記録した紙を見て答えます。未開封の品へ、先に意味を与えることはできません」
周防は巳代次の名を呼ばなかった。薬代を出すとも、前借りを消すとも言わなかった。助けた事実を盾にせず、知らない本文への答えだけを止めた。
鉄之助は、その言い分を嘘として切れなかった。
「小宮を助けたかったのか」
鉄之助が問うた。
周防は小夜の供述を伏せなかった。
「小宮小夜さんの暮らしが止まれば、薬問屋と魚河岸の支払も止まる。私はそれを避けました」
「佐一は」
「帰着の申出を、私は正式には受けていません。小宮佐一さんが何を混ぜたかは、妹さんへ残した本人の言葉です。私が知っていたことにはできません」
助けた理由から逃げず、佐一の死については答えなかった。
「私が暮らしをつないだことは、小宮佐一さんの後の行を消す理由にはなりません」
周防の声は、薬問屋の猶予を頼んだ時と同じく穏やかだった。同じ声で助けた暮らしを語り、自分に役立つ善意だけを答えの全部にはしなかった。
聴取が終わったのは午後四時十分だった。
周防は自分の筆と紙を数えられ、別棟へ移された。門へ向かう道ではなく、見張りの立つ渡り廊下へ入る。赤石屋とも巳代次とも違う場所だった。
鉄之助は、助けた男が自分を守る言葉を選び終えたあとも、自由に町へ戻るのではないことだけを見届けた。
本所で写した小宮の全文を、翌日の受取へ回すかと問われた。
鉄之助は最初の頁を開いた。
「二人ぶん」の行は、乾いた墨で残っている。
「全部を回す」
「小宮小夜さんの許しは」
鉄之助は各頁の小夜の名を示し、その下にある自分の名まで指を滑らせた。潰れた筆胼胝の黒い筋は、まだ消えていなかった。
受取掛へ渡すと、曲がった最終行が紙束の下へ消えた。友の字に似せなかった写しだけが、翌朝まで鉄之助の手を離れた。
机の端に、まだ何も受けていない用紙が置かれた。
八月二十四日・第四号。
書かれているのは、日付と品の番号だけだった。その先はすべて空いている。
鉄之助が友の不利な行を削らずに渡しても、未開封の包みだけは、翌朝まで一字も語らなかった。




