黒田半蔵
八月二十五日の朝、黒田半蔵は、濡れた紙を急いで閉じるなと命じられた。
命じたのは、昨日まで黒田の下で受取を書いていた男だった。
「この部屋では、あなたも差出人です」
受取掛は二人いる。一人が葉を数え、もう一人が泥、破れ、黒糸の穴を声に出す。黒田はその間へ新しい間紙を差し込んだ。
海運橋から戻った葉は端が波打ち、月別の数字、内控の符号、姓の半分が、泥の切れ目からばらばらに出た。水を含んだ繊維は指へ薄皮のように付き、急げば二枚を一枚として剥がす。
黒田には、半分の姓と前後の符号から候補を二つまで狭められた。七月なら、その二つから残す方を選んだ。筆へ伸ばした手の前へ、受取掛が間紙を入れた。
「読める字だけを」
黒田は手を戻した。合わない綴じ穴も、続かない番号も、自分の指で寄せなかった。
海運橋の箱、杭に残った切断黒糸、二つの鍵、区分に使った札も、人別の小包みから出された。持ち主ごとの包みを崩さず、乾いた物を机の端へ置く。
「失われた名は何人だ」
黒田が問うと、受取掛は筆を止めた。
「元の全葉がないので、数えられません」
「そう書け」
「あなたの判断でなく、状態として書きます」
八月二十五日・第三号には、残存原簿と箱、切断黒糸、鍵二、区分札、それに湿り、泥、欠落が記された。海運橋の仮封が正式な受取へ移っても、失われた人数の欄だけは作れなかった。
保管庫の鍵は二つだった。
受取掛が一つを取り、夜番がもう一つを帯へ結んだ。黒田の前には一本も残らなかった。
次に倉番が来た。
七月、霊岸島の貸倉で黒田が焼かなかった支払帳を、両腕で抱えている。
「紙問屋と人足の頁だけです。手から離しません」
「それでよい」
倉番が頁を開いたまま持ち、黒田は受取の印を追った。薄紙、糊、舟、人足。八月にも支払は続き、昨日の働きへ今日の銭が渡っている。黒田が箱を丸ごと封じなかったため守られた行だった。
机の向かいには、七月五日に焼かせた秘密引合簿を置く物がなかった。燃え残りを拾った者も、受けた控えもない。黒田が火鉢へ入れた原物は、その不在しかここへ渡せなかった。
人足の受取印の一つは、魚油で半分にじんでいた。印の横には、七月六日、受取済み、と倉番の字がある。黒田が支払帳を残した翌朝、実際に渡った銭だった。
守った、という言葉を使えば、その一行は黒田を助ける。
選ばれなかった名は、黒田を責める字にさえ戻れない。確かめられない所を、推し量った字で埋めることもできなかった。
「閲覧のみ」
受取掛が紙へ書いた。倉番は頁を閉じ、その日のうちに原物を持ち帰った。
黒田は文箱を開けた。
五月に引き取った秘密買付表の官封。青柳工房の三綴り官封。受取書へ載せず、別に持っていった周防の注文指示一枚。
受取掛が封と印を読み、八月二十五日・第四号として受けた。三群が移るたび、黒田の文箱は軽くなった。最後に蓋を閉じると、中で動く物はなかった。以後はどれも、黒田一人の鍵では開かない。
「昨日の私信包は」
黒田が問う。
受取掛が保管簿の一行だけを見せた。八月二十四日、朝七時。第四号、私信らしき包み一、未開封。受取掛と夜番が鍵を持つ。
「封を見ますか」
黒田は廊下から保管庫の扉を見た。二つの印へ近づかず、鍵も求めなかった。
「決められた朝に、決められた者が開けばよい」
最後の紙は、黒田が自分で書いた。
一月十八日。海運橋下で揚がった小宮佐一の身体を、足を滑らせた事故として扱った。腰から脇へ回った縄の痕と、橋番が聞いた争いの時刻を控えから落とした。
六月三日。青柳工房から受けた周防の注文指示を、三綴りの受取書へ入れず、照合の名で自分の文箱へ移した。
七月五日。秘密引合簿の必要行を写させたのち、原物を焼かせた。
「小宮を殺す前に知っていた、とも読める」
受取掛が言った。
「そうは書いていない」
「では、いつ知った」
「遺体を見たあとだ」
黒田はその時刻を足した。殺害への加担とは書かない。事故扱いにした責任も、焼かせた責任も、支払を守った一行で差し引かなかった。
「なぜ焼いた」
受取掛は、問いを短くした。
「偽の借りが一枚回った六月十七日、魚河岸の七件が止まりかけた。米と薬へ疑いが移る速さを見た。全件が出れば、その日の支払から崩れると思った」
「だから、残す名を選んだ」
「そうだ」
「選ばれなかった本人へ聞いたか」
黒田は筆を持ったまま答えなかった。
聞いていない。その一行も自分で足した。
末尾へ自分の名を書く。
黒田半蔵。
受取掛が読み返し、黒田の自己申告を八月二十五日・第五号として受けた。
版元からの照会紙が一枚、机へ回ってきた。黒田が外へ渡せる名を選ぶための欄があった。
黒田は、渡してよい名へ印をつけようとした。
受取掛が照会紙を黒田の手から取り、回答欄へ「事件資料の交付なし」と書いた。黒田は筆を持ったまま、名を選ぶ仕事が自分からなくなるのを見た。
黒田は、机の端に置いていた保管鍵を見た。以前、自分の文箱に使った鍵だった。もう今日の三つの受取には合わない。
小夜へ出す通知だけを作らせた。
初め、黒田は「出頭」と書いた。
六月、薬を受ける本人の名で借りると小夜が決めたこと。赤石屋へ署名を求められても、自分で断ったこと。黒田はどちらも報告で読んでいた。
出頭の二字へ線を引いた。
周防が薬問屋の猶予と長持の返還で行った助力について、本人の話を聞く場があること。小宮の手紙を示すかは小夜本人が選べること。出席しない場合も、その理由を罪や拒絶にしないこと。
黒田は通知の宛名を確かめ、使いへ渡した。呼び出しとは書かせなかった。
使いへ渡す直前、黒田は小夜の名を自分の手で読み直した。以前なら、通知を受けた人数の一人として数えた。今は、来ないと選べる一人の名だった。
使いが本所へ出る。
机には、黒田が守った支払の閲覧控と、黒田が消した記録へ自分で書いた名が残った。
保管庫の鍵は受取掛と夜番の懐にあり、黒田の懐だけが空いていた。
黒田は古い文箱の鍵を机へ置き、持ち帰らなかった。




