裏帳簿
森巳代次を斬るには、鉄之助は舟底から起きる必要があった。
海運橋の石段に、巳代次は官吏二人を挟んで座らされている。逃げようとはしなかった。濡れた袖を絞る新吉とは別の位置で、掌の古傷だけを膝へ向けていた。
鉄之助の右脚には、ずれた板が巻かれたままだった。傷から出た血は足袋まで届き、膝へは力が入らない。竹筒は腰にある。
官吏が一枚の紙を置いた。
「この男を以前から森巳代次と知る者。今ここで受けた身体の状態を見た者。その二つだけへ名を」
懐中時計は六時二十五分を指していた。官吏は時刻を先に書き、鉄之助へ筆を渡した。
鉄之助は竹筒を開けなかった。
魚荷用の手車へ腹を預け、筆を取る。森巳代次と同じ人間であること。自分の目で見た時、立って話せ、右の掌に古傷があり、目立つ新傷はないこと。書かれていない罪も、動機も足さなかった。
相良鉄之助。
名を書き終えると、巳代次が初めて顔を上げた。
六月、鉄之助は同じ掌を見て殺しかけた。巳代次も忘れてはいなかった。
「名乗れば、あんたに先に斬られると思った」
「今朝まで、そのつもりだった」
「母は、俺の前借りが止まれば薬種屋へ払えない」
「ここで俺に言っても、払われん」
「分かってる」
返事は半拍遅れた。
「捕まったなら、黙って帰る銭もない」
鉄之助は巳代次の濡れた胸元を見た。
「なら、七か月も黙っていた紙を、なぜ今まで捨てなかった」
巳代次は答える前に、母の薬代を言った時より長く間を置いた。
「端は焼いた」
「全部ではない」
「全部なくなれば、俺が縄を掛けたことだけ残る。あの紙があっても、俺がやったことは消えない。だが、俺より先に言葉があったことまで、向こうの都合でなくせる」
無罪の証しだとは言わなかった。
名乗れば鉄之助に殺され、稼ぎ手を失った母が残る。黙って働けば、母の薬種屋払いだけは続く。巳代次はその二つの間で、焼け残りを縄箱の底へ隠した。昨夜、海運橋の鍵を渡され、荷縄場まで探られると考えて内懐へ移したという。
「保険にしたのか」
「俺を切るなら、俺のしたことごと出すために」
巳代次は官吏へ向いた。
「森巳代次です」
所持品を改める前に、内懐へ手を入れてよいかと聞いた。官吏が片手だけを許す。
出てきたのは、焼けた端のある油紙包みだった。細い紐で一度結んである。
「先に渡す」
「中は何だ」
黒田が問う。
「俺が捨てられなかった紙です」
「開いたことは」
「ある」
それより先を、巳代次は言わなかった。
官吏二人が、油紙の寸法、焼け端、結びを別々に見た。紐を解かず、厚紙で挟み、海運橋で仮の封を掛ける。黒田は立ち会った欄へ名を書いただけで、包みを持たなかった。
仮の封へ入った時刻は六時半だった。
包みは巳代次と別の車へ載せられた。
朝の七時、本署の受取掛二人が、封と外形を照らして受けたという控だけが海運橋へ戻った。品名には、八月二十四日・第四号、私信らしき包み一。未開封、とあった。
鉄之助はその間に医師へ脚を見せられた。
「板を外して立ったら、次は添えても戻らん」
医師は傷を洗い、膝の上下へ長い添木を当て直した。鉄之助を魚荷の手車へ載せ、午後まで脚を下ろすなと、運ぶ者へ言い渡した。
巳代次は別の車で、官吏の目を離れず本署へ入った。
車輪が石へ乗るたび、鉄之助の竹筒が手車の縁へ当たった。蓋は閉じたまま鳴る。巳代次の車を呼び止めれば、まだ背へ声は届いた。
鉄之助は呼ばなかった。
自分の名を書いた受取が、二人の間に残っていた。
午後、鉄之助は手車の上から赤石屋の帳場を見た。
赤石屋藤兵衛は、一般の客帳へ掌を置いていた。受取掛の確認書に挙がるのは、七分利の原証書を納めた指定箱、預り証と白紙委任紙、一月十七日の当日帳だけだった。
「この店の客すべてを、小宮一件のために見せる気はありません」
「見せろとは書いていない」
「ここにある物だけだ」
「指定箱を持ち出せば、今日の帳場が止まる」
「店内で封じる。ほかの商いを止めない」
藤兵衛は客帳を押さえたまま、拒んだ物も記録に残ることを確かめた。それから、その手だけを指定箱へ移した。
戸田孝作が呼ばれたのは、自分の原証書番号を確かめる時だけだった。
七分利、百円。戸田の番号が箱の中にあった。
戸田は紙へ触れなかった。
「今日、返るのですか」
「返らない。番号を確かめ、箱をここで封じる」
「なら、返ったとは書かないでください」
戸田は自分の立会欄だけへ名を書き、店を出た。
戸田が空の風呂敷を抱えて出たあと、今津が右肩を吊って入った。襲撃の血が乾いた革表紙を左手で撫で、三度の口銭がある頁を受取掛へ向けた。頁数を読む指が表紙まで戻っても、今津はすぐには手を離さなかった。
次に志乃が、裂けた自己申告を机へ置いた。自分の署名と六月五日の受取日を指で追い、裂けた端を隠さないよう手を退けた。戸田の送金控と四枚の荷札は、元の綴りのままその横から受けられた。
鉄之助には、紙の数より、帰る手が見えた。今津の左手は空き、志乃は受け取った自分の控を帯へしまい、戸田の風呂敷には百円券の重みが戻らなかった。
青柳は一人で来た。
「一月十七日、赤石屋の手代から私信を受けた。森巳代次宛てに折り、封じ、本人へ渡した」
そこで一度筆を置く。
「本文も余白も見ていない」
知らない所へ名を書かず、知る所だけへ署名した。
夕方、藤兵衛は一月十七日の当日帳を帳場の奥から出した。受取掛が表紙から末尾まで確かめるあいだ、店手代は客帳を抱えて商いの席へ戻った。小宮一件の一冊だけが藤兵衛の前からなくなった。
「海運橋の鍵を森へ渡したことはない」
赤石屋は言った。
「周防さんの私信へ書き足したことも、小宮を殺せと命じたこともない」
「今は、否んだ言葉と時刻を取る」
受取掛は言い争わず、否んだ三つを藤兵衛に読み返した。指定箱の鍵を受け取ると、藤兵衛の腰の紐だけが垂れた。
本人の確認を終えた時刻は五時四十分だった。藤兵衛は巳代次のいる方へは通されず、店を離れる車も、待つ部屋も重ならなかった。廊下へ出る時、空いた腰へ手をやり、何もつかまずに下ろした。
鉄之助は二人の顔を合わせなかった。
本署から戻った官吏が、朝の身柄受取の副控を一枚、鉄之助へ渡した。紙には、鉄之助が斬らずに書いた名が残っている。
魚河岸へ戻ると、弁蔵が空の包み紙と綴じ紐を置いた。
「一枚でも、裸で持てば失う」
鉄之助は副控だけを包んだ。別の名を書き足す欄は作らなかった。
表には何も書かなかった。
竹筒と同じ懐へ入れる前に、一度だけ包みを握った。紙は刃より軽く、斬らなかった事実だけは鉄之助の手から逃げなかった。
本署の二つの鍵の奥では、別の一包みが「私信らしき包み一」のまま朝を待っていた。




