海運橋の選択
りんは、三人の傷へ同じ晒を使わなかった。
辰五郎の左腕には畳んだ布を厚く当て、指先を出して広く巻いた。今津の額には細い帯を一周させ、上がらない右肩は前掛けで吊った。鉄之助の膝には板を二枚添え、血の回った脚絆の上から、曲がらないよう長く縛った。
「指、動かして」
辰五郎は五本とも動かした。
「今津さん。三は読める?」
今津は血のついた革表紙を開いた。三度の口銭を記した行は残っている。別の懐から出した志乃の紙は端が裂けていたが、本人の一行と署名、今津が受け取った日も読めた。
襲ってきた男たちは、魚河岸の夜働きが両方の路地を塞ぐと退いた。捕まった者も、落としていった物もない。
りんは青柳へ二つの紙を預けた。
「父ちゃんと今津さんから離さないで。私が戻るまで、ここにいる人だけで守って」
青柳はうなずいた。隣に立つ新吉は、鉄之助の名が出ても顔を上げなかった。
竹橋へ走らせた使いが戻ったのは、夜の銃声がようやく途切れたあとだった。
「相良さんを見つけた。救護所にいる。歩けねえ」
使いは手車を引いていた。りんが乗ると、新吉も荷台の縁をつかんだ。
「青柳さんと残って」
「また、俺の書いた所を大人だけで決めるのか」
「何を追うかも分からないよ」
「だから行く」
青柳は止めなかった。
竹橋側の救護所で、鉄之助は壁へ背を預け、右脚を真っ直ぐ投げ出していた。脚絆を切ると、古傷の周りが腫れ、走って開いた皮から血がにじんだ。
りんは巻いた板を外さず、その下へ新しい布を差し込んだ。
「立ったら、次は膝ごと使えなくなる」
「神田橋へ行く」
「何を見たの」
「周防と二人の男が、閉じた箱を舟着きへ下ろした。そこまでだ。舟も、中身も、出た所も見ていない」
源吾が見た集積原簿は、鼠茶の厚い表紙に黒糸綴じだった。周防が自分で持つと聞いた、全件を束ねる帳面である。りんがその話をすると、鉄之助は同じ箱だとは言わなかった。
「大きさは入る。追うなら、外すつもりで追え」
手車の上で脚を伸ばしたまま、鉄之助は神田橋へ運ばれた。
夜明けの舟着きには、魚、菜、薪、空樽が詰まっていた。隣の棹が別の舟腹へ当たり、離れたくても順が動くまで離れられない。
高い覆いを掛けた舟が一艘あった。
覆いの両側に男が一人ずついる。中の角張りは、鉄之助が見た箱と近い。だが同じ物だと分かる印はなかった。
「海運橋へ先回りする」
りんが言うと、鉄之助が問うた。
「なぜだ」
「五月から、あそこで紙荷を渡してる。今朝の下り舟なら、外した時にもう一度追える所はない」
りんは使いへ短い伝言を持たせた。一ツ橋の詰所へ届け、受けた時を控えて戻れとだけ言う。
覆い舟が朝荷の列へ入ってから、魚河岸の棹手が回した空舟を出した。
棹を持つのは河岸の男である。りんは荷舟の間をどちらへ抜けるかだけを示した。鉄之助は舟底で脚を伸ばし、新吉は中央に座った。速く追えば覆いが逃げる。遅れれば、どの舟がどこへ入ったか分からなくなる。
覆い舟は列を抜けなかった。
海運橋の荷揚げ口でも舟が詰まった。りんたちの前に一艘を挟み、覆い舟が杭へ寄る。
受取に出た男が、りんには見覚えのある手で腰の鍵を探った。
「さより」
森巳代次だった。
巳代次は答えず、箱の封紐へ二片の札を当てた。覆い舟の男が一つ目の錠を開け、巳代次の鍵がもう一つを開いた。
橋詰と荷口に立つ男が二人いた。黒田の連れだと分かったのは、まだ先だった。二人は覆いだけでは動かなかった。
箱の蓋が上がった。
鼠茶の表紙。黒い綴じ糸。
巳代次が二片の札を別々の結びへ当てた。水側の男は、個人名と番号、書き手の欄が並ぶ束を抱えた。陸側の男は、月ごとの数字が続く束を箱へ引き寄せる。
「あれだ」
新吉が立った。
「お前の字があるのか」
鉄之助が聞く。
「見えてない」
新吉は舟縁へ足を掛けた。
「俺が書いた所を、また勝手に分けさせない」
りんたちの舟が後ろから押された。舷と舷が触れ、新吉は詰まった一歩を渡った。
覆い舟の棹が、水を強く突いた。
二艘の間が開く。
新吉の足が水へ落ちた。同時に、水側の男が抱えた束も舷外へ滑った。束を括る黒糸だけが荷受けの杭へ掛かり、紙の塊が水面の上で揺れた。
鉄之助の胴には救い縄が回してあった。輪は舟の横木を通り、自由な端は一本だけ残してある。
新吉と、杭に掛かった束。
どちらへ投げても、もう一方には届かない。
鉄之助は膝を起こさなかった。両腕だけで縄の端を投げた。
「新吉、取れ!」
縄が新吉の肩へ落ちる。
りんは舷へ肩を当て、縄を脇の下へ回した。棹手が横木に足を掛けて引く。水を含んだ新吉の身体が、流れと舟腹の間で重くなる。
鉄之助の添え板がずれた。脚絆の下から新しい血が舟底へ落ちる。それでも、鉄之助は腕を離さなかった。
水側の男が杭へ走った。
刃が一度、黒糸へ入った。
束は水へ落ちた。結びがほどけ、葉が泥水へ開く。舟底へ吸われる紙、荷の下へ潜る紙、濡れたまま人足の足元へ貼りつく紙。何枚あるか、数える元さえ見えなかった。
新吉の腕が舷を越えた。
黒田の連れ二人が、箱側の三人を一人ずつ止めた。巳代次は古傷のある掌を開き、何も言わなかった。水側の男だけは、救助へ寄った人波を抜けて消えた。
水面を網で探して戻ったのは、読めない切れ端がいくつかだった。
残った束と箱、杭に残った黒糸、二つの鍵と札は、簀を入れた運搬箱へ分けて置かれた。濡れた紙を閉じ込めず、蓋の紐だけへ仮の封が掛かった。
黒田は二枚の控を地面へ並べた。
一枚は昨夜、鉄之助が自分へ走らせた使いの受取。もう一枚は今朝、りんが一ツ橋へ出した伝言の受取だった。時刻も、受けた者も違う。
りんはそこだけを見た。
新吉は水を吐き、鉄之助から顔を背けた。
「助けてもらっても、連れていかれた朝は返らない」
「分かっている」
鉄之助は舟底から答えた。
残った月別の葉を、今津の三行と照らせたのは一度だけだった。
黒田は濡れた行を指で押さえずに言った。
「一度は合う。残り二度も、誰が命じたかも、これでは出ない」
鉄之助は血のついた手を、手車の横木へ移した。
「赤石屋の原物まで、受取へ出させる」




