竹橋事件
鉄之助が貸席を飛び出した時、右膝の古傷が一度、足の下から抜けた。
背後では、戸板を打つ音だけが続いた。
りんと辰五郎が内側から押し、割れた板の向こうで男たちが怒鳴っている。今津の革帳を出せ。銃声はその声より西から続いた。
鉄之助は鎧橋から日本橋川沿いを走った。
夜の道を、竹橋から逃げてくる者が塞ぐ。店は戸を落とし、荷車は向きを変えられず立ち往生していた。鉄之助は右足を引くたび膝の裏へ熱を感じた。走るうち、脚絆の内側が濡れた。
神田橋の手前で、役人の声がした。
「帳箱だ。道を空けろ」
提灯を持った下役が二人、大きな箱を運んでいた。長さは人の腕ほどあり、厚い帳面を横に寝かせても余る。官の荷と呼ばれれば、逃げる者は壁へ寄った。
箱の後ろに、周防主計がいた。
鼠色の羽織。薬問屋でも、小夜の長屋でも固く合わせていた襟を、今夜も喉元まで閉じている。
鉄之助は足を緩めた。
源吾が話した集積原簿は、厚い鼠茶の表紙、黒糸綴じだった。目の前の箱なら入る。だが蓋は閉じ、帳面の色も糸も見えない。
周防は鉄之助に気づいた。
二人の間で、竹橋の方から銃が続けて鳴った。
下役たちは箱を神田橋下の舟着きへ運ぶ。周防も石段を下りた。箱の中身を問えば、声は届く距離だった。
鉄之助は一ツ橋の方へ走った。
右膝が二度目に沈み、橋の欄干へ手をつく。竹筒が石へ当たった。結び直す間にも、遠くで一斉に銃が鳴る。
竹橋御門近くへ着いた時、陣営の門前は踏み荒らされ、最初に出た隊列は先へ消えていた。
近衛砲兵を中心にした兵は、すでに代官町通りへ動いていた。赤坂の仮御所へ向かう声と、止める側の号令が、塀を隔ててぶつかっている。通りの奥では火の消えた提灯が踏まれ、割れた油が土へ広がっていた。
鉄之助は竹筒を腰へ押しつけ、家の隙間を進んだ。銃を落とした負傷者を塀の陰へ入れ、次の路地へ出る。弾が瓦を割るたび、伏せる向きまでばらばらになった。進む者と退く者が、一本の道でぶつかっている。
陣営門の脇でも、濠端でも、鉄之助は瀬川の名を呼んだ。
返ったのは濠側の銃声だった。
退いてくる砲兵の肩をつかんで顔を見た。塀ごとに軍服の背を追い、革を当てた左靴を探した。似た靴を二つ見つけたが、どちらも別人の顔だった。銃声が移るたび代官町通りを先へ進んだ。
「瀬川宗吉!」
その声も銃声に消えた。
もう一度呼ぶと、軍服の男が振り返った。
左の靴底へ新しい革が縫われている。顔には土がつき、端に黒を残した左親指の爪が銃床の上にあった。
「瀬川宗吉!」
「聞こえてる」
瀬川は塀の陰へ身を寄せた。懐の紙が上着を四角く押している。
鉄之助の息は喉で切れた。
「昨夜、行かなかった」
「知ってる」
「願いを」
「もういい」
「よくない」
瀬川は銃口を下へ向けたまま、鉄之助の右膝を見た。
「俺は待った。紙も持って戻った。その足で兵営へ入り、銃を取った」
「置け」
「今さら一人で置けば、ここまで来た奴の後ろへ隠れる」
瀬川の後ろで、木箱の蓋が開いた。
兵が手を入れ、空の底を叩く。別の者が弾薬盒を逆さにして、一発落ちた弾を拾った。
「残りを回せ」
誰かが叫ぶ。
止める側から一斉射が来た。
塀の角が欠け、瀬川の隣にいた兵が肩を押さえた。鉄之助は倒れた男を軒下へ引いた。右膝を曲げるたび、脚絆の血が足袋へ落ちる。
横道で向きを変えかけた荷馬車が、銃声に驚いた馬に引かれて通りへ出た。
御者は戻ろうと手綱を引く。馬が銃声に立ち、轅が家の角へ噛んだ。荷台の陰には女と子どもが伏せている。
靴底を縄で巻いた砲兵が銃を上げた。
「伊作」
瀬川が名を呼んだ。
昨夜の束で、替えの靴を求めた高梨伊作の名だった。
「あの陰だ」
止める側の兵が隠れたと思ったのか、狭い道を塞ぐ馬車へ狙いをつける。
瀬川が横から銃身を押し下げた。
「町の者だ」
「どかさなきゃ撃たれる」
「だから下げろ」
二人の銃が土へ向いた。
鉄之助は竹筒から刀を抜いた。
刃を馬の胸を締めていた革へ入れ、轅へ絡んだ荷縄も落とす。馬だけが前へ飛び、荷車が半身ぶん傾いた。
御者が女と子どもを引きずり出す。鉄之助は子どもの帯をつかみ、塀の切れ目へ放った。女があとを追った。
銃弾が荷台を抜いた。
伊作も、音に首をすくめた。
「退くぞ」
瀬川は伊作の肩を押し、負傷した者の腕を取った。弾の尽きかけた兵たちが、塀から次の塀へ退いていく。
鉄之助も手を伸ばした。
「瀬川」
瀬川は負傷者を先に押した。
次の一斉射は、前より長かった。
土壁へ弾が並び、退く兵が三人倒れた。瀬川の身体も、その中で一度だけ前へ折れた。
銃を胸へ抱えたまま、二歩進む。
三歩目で左の靴が開き、膝から土へついた。
鉄之助は瀬川の襟をつかんだ。右膝が支えを失い、二人とも倒れる。刀で軒先の雨戸の桟を切り、一枚を倒した。その板へ瀬川の肩を載せ、軒下まで身体を引いた。
瀬川の脇腹から出た血が、鉄之助の指の間へ入った。
「宗吉」
返事はなかった。瀬川の息は戻らなかった。
左親指は、懐の紙の上にあった。
五月の下書きと、十余名が書き直した願いの束。紙の端には、鰹の油が少し残っている。銭入れには二枚。靴底の新しい革は、白い縫い糸ごと半分剥がれていた。
鉄之助は紙を懐へ置いたまま、その上から瀬川の左手を包んだ。
夜が明けるまで、射撃は途切れては戻った。
兵の弾が尽き、銃を捨てる音が増えた。止める側の兵が通りを進み、残った者を一人ずつ武装解除していく。鉄之助は瀬川の身体を軒下から運ぶ者へ渡した。
空が白むころ、右膝にはもう体重を掛けられなかった。
神田橋下の舟着きが頭へ戻る。
周防と二人の下役。官の帳箱。水へ下りる石段。
源吾が語った、鼠茶表紙の厚み。
箱の蓋は、閉じたままだった。
集積原簿が神田橋から水へ出た疑いだけが、朝まで残った。




