戻す値
紙の比較を終えた同じ座敷で、今津清兵衛は、誰へいくら戻すかより先に、自分が三度取った口銭を読んだ。
八月二十三日の夜。小夜の長屋には、開けた見舞い包みの糊の匂いと、紙を比べた灯が残っていた。
今津は革表紙の口銭控を膝へ置いた。
「一度目。解禁前の先買いと知り、口約束で取り次ぎました。口銭を受けました」
頁を繰る。
「二度目。同じです」
もう一枚繰る。
「三度目も、同じです」
弁蔵は帳面を開くまで聞いた。小夜は布団の上で背を起こし、戸田孝作は娘へ持ち帰る豆の袋を足元へ置いている。
「法に守られない約束だとは、三度とも先に言いました」
今津は開いた頁へ指を置いた。
「言ったあとで口銭を取れば、損を知っていたことまで消えるわけではありません」
三行を自分の名で読み、頁の下へ今夜の日を書いた。
弁蔵が別の帳面を開く。
小宮小夜の療養立替。薬、医師の往き来、米、卵、炭、家賃。七日ごとの受取と小夜の署名が続いている。これまでの元本上限は三十六円だった。
「十一月の末まで、別に二十円」
今津が算盤の珠を置いた。
「前の口と合わせ、元の借りは五十六円を越えさせない。利と手数を入れても、返す総額は六十円までです」
「薬と米を一緒にしないでください」
小夜が言った。
「分けます」
「往診も、来た日だけ」
「今までと同じです」
「周防さまの銀は使いません」
今津は革表紙の三行へ目を置いた。
「この二十円へ入れません」
戸田が三十円の借用証を出した。
「私の三十は」
「受け取った三十として残します」
「赤石屋に騙された者へ戻す金、と一つに括らないでください。私は娘の熱と家賃のため、自分で受け取った」
「戸田さんの欄には、受取三十円、本人の選択と書きます。原証書の値は別です」
今津は本人が読む前で書いた。戸田は一字ずつ確かめ、三十の横へ自分の指を置いた。
「この銭を、誰が出す」
弁蔵が問う。
今津は持参した小箱を開けた。
自分の手元から持ってきた銀を、二十円まで数える。包みを二つに分けたまま、弁蔵の前へ置いた。
「この二十円は、私の銀です。今夜から十一月末まで、弁蔵さんが小夜さんの別勘定として持ってください」
弁蔵が二包みを量り、受け取った額と自分の名を書いた。小夜は、今後七日ごとに実際に使った薬、往診、米、卵、炭、家賃の行だけへ名を入れる。
今津の手から銀二十円が離れた。
今津は口銭控の下から一枚の書付を出した。
自宅の箪笥、夜具、帳場の机、算盤二面、秤、営業用の蔵道具。売れば銭へ替わる自分の物を、一つずつ書いてある。
「この二十円を途中で引き戻さない。不足を人の名へ付け替えない。破れば、ここに書いた私の物を売って別勘定へ戻してください」
「お前が取り戻した時だけか」
「商いの債主が、あの二十円を私の銀だと取り上げて別勘定を欠けさせた時もです。欠けた分を、ここに書いた私の物から入れてください」
「それでも足りなければ」
「この紙を、取引所の立会で読んでください」
今津は筆を取った。
「値を呼んでも、誰にも受けてもらえなくなりますよ」
「三度の口銭を黙って値を呼ぶよりは、先が長い」
自分の名を書き、弁蔵へ渡す。
弁蔵は書付を膝へ置いたまま、今津を見た。
「約束を破って家の物まで売れば、お前の女房も払うことになる」
「話しました。箪笥の二つは女房の嫁入り道具だから外せ、と言われました」
今津は書付の二行を見せた。二つの箪笥へ細い脇線を引き、女房の物につき引当外、と書き足してある。
「自分の物だけです」
弁蔵は紙を受け取った。
今津は次に、紙紐で綴じた送金控を出した。五月の四日を示す荷札も、順を変えずに挟まっている。
「これは今夜、私の所へ戻しません」
戸田が眉を寄せた。
「なぜ私に」
「あなたは、自分の三十を消すなと言った。都合の悪い金を、都合よく善い金へ直さない人です」
「家には娘がいる」
「危ないと思えば、受けないでください」
戸田はしばらく送金控を見た。
「明朝までだ。娘の長持へは入れない。私が持つ」
今津は預けた年月日、送金控一綴り、添付荷札四枚と書き、戸田と自分の名を入れた。戸田はその紙だけを今津へ返し、原物を豆袋とは別の風呂敷へ包んだ。
口銭控と、志乃が自分の一行を書いた紙は今津の膝に残った。
本所の十時の鐘が鳴る前に、つなぎ払いの銭と新しい帳面を持った弁蔵が小夜の部屋を出た。戸田は反対の道から神田橋外の家へ帰る。送金控は戸田の風呂敷へ、口銭控は今津の懐へ分かれた。
今津が鎧橋近くの貸席へ戻ると、りんが戸板を立てていた。
辰五郎は箱洗いの水を捨て、支払所の空箱を積んでいる。担ぎ棒は親方の壁に掛かったままだ。
鉄之助は戸口で竹橋の方を見ていた。
「小夜さんの二十円は」
りんが聞く。
「弁蔵さんが持ちました。ここにはない」
「今津さんの帳面は」
今津は革表紙を叩いた。
「口銭控だけです。送金控と荷札は戸田さんへ預けた」
西の空で、乾いた音が続いた。
魚河岸の者が一人、手を止める。次の音は少し近く、夜の戸板が震えた。
鉄之助が立ち上がった。
「竹橋だ」
誰かが表通りを走った。竹橋の兵が動いた、門の方で銃が鳴った、と途切れた声を残していく。
貸席の裏戸へ、重い物が当たった。
一度目で閂が軋む。
「今津の革帳を出せ」
外の男が怒鳴った。
今津が六月から持っている口銭控を、名指ししていた。
二度目が来る前に、辰五郎が戸板へ肩を入れた。
「棒を」
りんは棒を自分の背へ回した。
「箱を三度運んだ肩で、一枚の帳面を守れば戻ると思わないで」
「思わねえよ」
辰五郎は戸板へ肩を押し込んだ。
りんは空箱を閂の下へ噛ませ、自分も戸を押した。
三度目で、板の端が割れた。
鉄之助が竹筒へ手を掛ける。
「ここへ残る」
「瀬川さんを呼びに行って」
りんは割れ目へ目を据えて言った。
「ここは父ちゃんと私が押さえる。あんたが約束した人は、竹橋にいる」
今津は口銭控を着物の内へ入れ、志乃の紙を別の懐へ分けた。
西から銃声が走った。
同時に、貸席の戸が内側へ割れた。




