兜町の朝
十一月下旬の朝、小夜は政府の受取窓口までに二度、咳を休めた。
一度目は本所を出た橋の手前だった。鉄之助が荷車を呼ぼうとすると、小夜は道端の石へ腰を下ろした。
「歩けないとは言っていません。次の咳まで、休みます」
薬包は今も咳と熱を軽くするだけだった。飯を食べ、炭を切らさず、医師に来てもらう。そのための帳面は、十一月になっても七日ごとに続いている。
りんは小夜の背をさすらず、風上へ立った。咳が止まると、水筒の蓋へ一口ぶんだけ注いだ。
三人は窓口へ行く前に、魚河岸の共同帳場へ寄った。
弁蔵の手が、奥から小さな包みを一つ出した。
八月二十三日の夜、今津が別勘定へ置いた二十円。そのうち、使わずに残った二円だった。
包みは小夜の売渡金を受ける前に、元の形のまま今津へ返された。今津の手が受け取り、返却の紙へ印を置く。小夜の借りを返した紙にはしない。
前日までに、小夜と支払った者が週ごとに署名した頁には小計線が引かれていた。
五月から八月二十三日まで、魚河岸共同体が先に出した実費は三十五円。
八月二十四日から今朝まで、今津の別勘定から実際に使った分は十八円。
薬、医師の往き来、米、卵、炭、家賃。使わなかった物も、決めていない利や手数も、二つの小計には入っていない。
小夜は線の上だけを読み、自分の署名を確かめた。
「売ってきます」
長持から持ってきた油紙を、自分で抱え直した。
政府の受取窓口では、番号を先に読まれた。
四六二八一。七分利、額面百円。小宮佐一の家へ交付された原証書。
五月十五日、仲買人が同じ番号を見て顔色を変えた一枚である。鉄之助は何度も懐へ入れ、何度も小夜へ返した。赤石屋の男が長持ごと運んだ朝にも、折り目と紐を覚えた。
今は小夜の両手にあった。
「売渡すのは、あなたですか」
窓口の男が問う。
「小宮小夜です」
小夜は自分の名を書いた。
証書と受取の書式、勘定帳の番号を照らし、八十二円が数えられた。一枚ずつ小夜の前を通る。
五月には内議の見込だった額が、ここで初めて小夜の銭になった。
小夜は鉄之助へ数えさせなかった。十円ごとに向きを変え、最後の二円まで自分の指で確かめる。窓口の受取と売渡の控を油紙へ入れた。
共同帳場へ戻り、八十二円を三つに分けた。
三十五円は魚河岸共同体へ。厚い包みにして、五月からの小計頁と一緒に出す。受け取る手が数え、共同体の受取へ印を置いた。
十八円は今津へ。別の薄い包みへ入れ、八月以後の小計頁と合わせる。今津の手が受け取り、三十五円とは別の紙へ印を置いた。
二つを五十三円の一包みにはしなかった。
残った二十九円は、小夜が療養の予備として自分の袋へ入れた。周防の未使用銀も、赤石屋や周防の財産も混じっていない。
小夜は袋の口を二度結んだ。
「これで、次の薬を借りずに受けられます」
「治ったら何に使う」
鉄之助が問うと、小夜は咳を一つした。
「治った話を先に作らないでください」
りんが笑いかけ、米俵の値を聞く声に紛らせた。
周防、赤石屋、巳代次、黒田の記録は、東京警視本署と東京裁判所側に分かれたままだった。調べも裁きも終わっていない。迅平の次号、桐野の処分、失われたすべての名も戻ってはいない。
鉄之助は、そのどれかを取り返した者へ払われる銭を待っていなかった。
共同帳場の机に、弁蔵の雇い状が置かれた。
弁蔵は帳面を開かず、雇い状の上へ太い指を置いた。
「控を持ってきた本人を、ここへ座らせろ。名と控の番号と、今どこに置くか。本人がいいと言った三つだけ書いて、紙はその手へ返せ」
「役所へ探しに行くのは」
「お前の仕事じゃねえ。この帳面で戸も蔵も開かん。誰が正しいか決める仕事にもするな」
日当は、魚河岸が人足と帳付けへ使ってきた勘定から七日ごとに出る。鉄之助が町で食う銭も、いつ終わるか分からない事件の褒美ではなくなった。
「相良鉄之助。任意受取追跡簿係」
りんが雇い状を読んだ。
「ずいぶん長い荷札だね」
「担ぐ物は軽い」
「勝手に開けば、いちばん高くつくよ」
鉄之助は雇い状へ名を書いた。
書き終えた雇い状を、竹筒へは入れなかった。共同帳場の自分の棚へ置く。事件が終われば町を出る者なら、持ち歩く紙だった。
りんは棚の端を空け、鉄之助の空包紙が湿らないよう小さな板を敷いた。
最初に机へ出したのは、八月二十四日から自分で持ってきた副控だった。弁蔵にもらった空包紙と綴じ紐をほどく。
包み紙は折った所が白くなり、毎日懐へ入れた角だけ柔らかかった。鉄之助は自分で開き、自分の前へ置いた。
新しい簿冊の一行へ、相良鉄之助、海運橋受取控・一、相良鉄之助保管、と書いた。そこまで書くと筆を置き、受取の印へは触れずに副控を包み直した。
次に小夜が、周防の見舞い状を官吏二人が閲覧し、本人へ返した時の副受取を出した。
「この場で見せます。書いたら返してください」
「何を写してよい」
小夜は、自分の名、返却副受取の番号、見舞い状を自分で保管しているという所を順に指した。鉄之助が一行に収め、原紙を差し出すまで、机から手を退けなかった。
「もう一つ、所在だけ」
小夜は言った。
「巳代次さんの手紙は、小宮小夜が保管。それより先は書かないでください」
鉄之助は小夜の行の保管先へ、その言葉だけを足した。あの二行の本文は、小夜の長持に残した。
二人以外の行は空いていた。
鉄之助が次の頁をめくろうとすると、りんが角を指で押さえた。
「荷が来る前に荷札を書いたら、あんたが荷の持ち主になるよ」
鉄之助は頁を戻した。見せに来ない者の行は、空いたままでよかった。
鉄之助は任意受取追跡簿を閉じた。
りんが、もう一冊の薄い帳面を開く。
朝飯。米、魚、炭。
机の端には、朝に使う椀が二つ伏せてあった。片方はりんが前から使う物で、もう片方は欠けた縁を新しい漆で留めてある。
借りの欄でも、護衛の払いでもない。一つの家の勘定として、りんは三つを書いた。
「魚は売れ残りでいい?」
「腹が割れる前ならな」
「炭は半分、あんたが運ぶ」
「膝はもう荷を持てる」
小夜が二人を見て、咳の合間に水を飲んだ。
鉄之助は、りんが書いた朝飯の下へ自分の名を置いた。
名を書いてから、二つ目の椀を自分の側へ引いた。りんは戻さなかった。
「明日の分も、この下でいい?」
りんが問う。
「七日ごとに読ませろ」
「返し終えたのに?」
「明日の分は、まだ借りてない」
りんは明日の行を一つ空けて、帳面を鉄之助の側へ寄せた。
窓から朝の光が入り、受取に押された赤い印を照らした。血にも罪にも見えず、ただの色だった。
鉄之助は空欄へ手を戻さなかった。
名だけは、売らない。




