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竹橋の兵

瀬川宗吉の左の靴は、一歩ごとに魚の水を吸った。


八月二十二日の夕方、魚河岸の仕舞い前だった。


近衛砲兵の上着は五月より日に焼け、靴底は爪先から半分剥がれている。瀬川は濡れた所だけ歩幅を狭め、鰹の尾と鯛の頭を一つずつ選んだ。


「頭は大きい方が同じ値だ」


鉄之助が言うと、瀬川は振り返った。


先に鉄之助の右膝を見た。次に、自分の左靴を見る。


「お互い、前より歩き方が悪いな」


左親指の爪は、黒い所が端に少し残るだけになっていた。西南の戦で砲尾に潰された爪である。


「靴は支給されないのか」


「された。底が開いたから、次は前の靴を返してからだとよ」


「返せばいい」


「裸足で待てってか」


瀬川は鰹の尾を持ち上げた。


「これ、いくらだ」


りんが値を言った。瀬川は銭入れを開き、銅貨を一枚ずつ掌へ出した。足りる所で止める。


「鯛の頭は置いてく」


「煮れば二晩食べられる」


「二晩食ったら、母へ送る分が二晩増えるか」


銭入れの底に、送るほどの銭はなかった。


荷台の陰で、辰五郎が空箱を洗っていた。七月五日に三度の運搬を話してから、紙を隠せる荷は任されていない。瀬川は洗い終えた箱を一つ、干す側へ移した。


「飯は」


鉄之助が問う。


「出る。腹が膨れる量とは書いてない」


瀬川は鰹の尾を油紙へ包ませた。


兵営の飯が少ない日は、汁へ湯を足す。靴底の縫い賃は自分で出した。去年の戦役の褒賞は、誰へ下りたかも知らされない。名簿から消えた六日分の給金は戻らない。


「母へは」


「二度、送ってない」


瀬川は軽く言ったが、油紙の角を三度折った。


「田の水を借りる銭を、先月までにと言われてた。俺の六日が戻れば足りた」


五月、魚の頭を買った瀬川は、褒賞と六日分を受け取ったら母へ送り、兵を辞めると言った。


「まだ辞めないのか」


「受け取らず辞めれば、消された六日は消されたままだ」


「生きて帰る方が先だ」


「どこへ」


瀬川の口から笑いが消えた。


「母の田へ帰って、俺だけ受け取れませんでしたと言うのか。十人余りの名を置いて」


鉄之助は竹筒の内側へ指を入れた。


刃の鞘と竹の間から、折り紙を一枚出す。五月に瀬川一人から預かった願いの下書きだった。六月十一日、瀬川が十余名の束を戸田の家へ持ってきた時も、この一枚だけは竹筒に残っていた。


「読むと言った」


瀬川が言う。


「言った」


「春に渡した。もう二月以上だ」


「すまない」


「忙しかったか」


「後へ回した」


鉄之助は下書きを返した。


瀬川は受け取った下書きを膝に置き、懐へ手を入れた。


懐から、別の折り紙の束を出す。十余名が自分の名と求める物を書き足した紙である。端に別々の筆が増え、雨に濡れた所だけ墨が広がっていた。


瀬川は鉄之助の下書きを、その束の下へ重ねた。


「最初の願いは、どうした」


「一人ずつ兵営へ出した。受け取った印も、返事もない」


「返された紙を束ねたのか」


「返るなら、書き直してない」


瀬川は束の端を揃えた。


給金を求めた者は給金を、靴を求めた者は靴を、もう一度自分の手で書いた。消えた願いを大きな一枚へ作り替えず、十余りの名が十余りの求めを持ったまま、瀬川の懐へ集め直した物だった。


魚棚を閉める音の中で、鉄之助は最初から読んだ。


六日分の給金。西南戦役の褒賞。破れた靴の替え。兵営で受けた願いの行き先。十余りの名は、同じ要求の下へ並んでいない。瀬川の横には六日、高梨伊作の横には替えの靴、別の一人には褒賞とある。母へ送る銭を書いたのは瀬川だけだった。


「この行だと、全員が六日減らされたように読める」


「違う」


「なら、お前の名の横へ六日と置け。ほかの者の分を大きくしても、お前の六日は戻らん」


瀬川が膝へ紙を置き、自分で直した。


鉄之助は、誰が何を受け取れず、誰が返事を求めるかだけを読み、抜けた主語を指した。


炊いた麦の匂いがした。


桐野千景が魚棚の向こうから来た。肩に小さな米袋を担ぎ、腕には靴底に当てる革を巻いている。


「その革」


鉄之助が聞く。


「革屋の裁ち落としだ。瀬川の左へ一枚、砲兵の三人へ二枚」


「米は」


「今夜の汁へ入れる」


瀬川は差し出された革から手を引いた。


「桐野さん。飯はもらう。明日の話とは別だ」


「別でよい」


桐野は米袋を下ろした。


「兵営の中で紙を出しても、どこへ行ったか分からない。外へ持って出ろ。兜町を通れば、取引所の者にも腹の減った兵が見える」


「銃は持ち出さない」


瀬川が言った。


「私は持てと言っていない」


「十人で歩けば、見た方は銃まで見る」


六月十一日にも、瀬川は同じ所で止まった。桐野が麦を戸田の家へ運んだ手も、兵の人数を数えた口も知っていた。


鉄之助は桐野を見た。


「飯を渡して、怒りも同じ向きへ歩かせるのか」


桐野は米袋の口を結び直した。


「武士も兵も、一人で怒れば聞かれない」


「お前が聞かせたい場所へ並べるのだろう」


「そうだ」


短い答えだった。


瀬川が二人の間へ願いを置いた。


「俺は桐野さんの兵じゃない。仲間の紙が出されたか確かめたい。返事を受ける。それでも駄目なら、その時は俺が決める」


桐野は革を瀬川の足元へ置き、米袋を担ぎ直して兵営の方へ歩いた。


瀬川は願いの束を畳んだ。


「明晩、もう一度だけ読んでくれ」


「どこだ」


「神田橋外の汁飯屋。灯が入るころにはいる」


「行く」


瀬川は鉄之助の顔を見てから、願いの束を三つに畳んだ。


鰹の尾を片手に持ち、靴底へ置かれた革を拾う。


「これは飯と別だと言ったぞ」


「革屋へ返すのか」


「縫い賃は俺が出す」


瀬川は銭入れを振った。残った二枚が鳴った。


「その分まで、明日読ませる」


五月の下書きと十余名の束を重ね、自分の懐へ戻した。


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